進藤が時折、ボクによるなまえへの言動が”束縛”だなどというものだから、そんな事は無いと思いながらも辞書でその言葉を引いてみた。そこには、「制限を加えて行動の自由を奪うこと」とあった。
自由を奪う?
そんな事は絶対にしたくは無い。でも、アルバイトをする事や、進藤を下の名で呼ぶ事を咎めた事も、そういう視点でみると確かに自由を奪う事になるのだと気付いた。
では“束縛”なのだとしたらーー認めたくはないがーー今度はその原因についても調べてみた。するとどうだ、「相手の気持ちを信じられないという不安からくるもの」「自信のなさ」という事だった。
自信は、ある。ボクは誰よりも彼女が好きだし、彼女の事を信じている。
では、この焦りはどこから来るのだろう。
ーーーチリリン。
喫茶店のドアベルが鳴った。俯いていた顔を上げると、入り口から彼女入って来た所だった。
なまえ、と呼んで片手を挙げるとこちらに気付いて、出迎えた店員に待ち合わせの旨を伝えてるようだった。
「ごめんね、待たせたかな」
学校帰りの彼女はスクールバッグを肩から下ろしながら、テーブルを挟んでボクの正面に座った。
「ううん、大丈夫。ボクの仕事が早めに終わっただけで、キミは時間ぴったりだよ」
そう言えば、咲いた花のように微笑んだ。つられてなのか、ボクの顔も緩む。笑顔ひとつでこんなに甘い気持ちにさせる人はいない。
いつも彼女を目にした瞬間に、悩み事なんてはじめからひとつも無かったかのように霧が晴れる。
「アキラくん、何飲んでるの?」
「これはアイスティーだよ」
「そっか。んー、私は何飲もうかなあ。カフェラテか、あとこっちの”さくらブレンド”も美味しそう」
「じゃあどちらも頼むといい。なまえが飲みきれなかった分は、ボクがいただくから」
「ええ?アキラくん、優しすぎるよ」
困ったように眉を下げる彼女を阻んで店員さんを呼び、飲み物をふたつオーダーする。
「なまえ、なにか甘いものも食べたら」
「えっ?えっと・・・」
「・・・じゃあチョコレートケーキと・・・チーズケーキと。それとマフィンも味が違うものを2つください。ね、なまえ、好きなのを食べるといいよ」
店員さんがオーダーを繰り返してからその場を後にすると、なまえはもう一度「アキラくんは優しすぎる」と口を尖らせた。
「知らないよー、おいしい物あげすぎて私がどんどん太っても」
「ふふ。大丈夫、どんななまえでも可愛いよ」
「もー、私の事そんなに甘やかして。出張のお土産といい、私どんどんわがままになってその上ぷくぷくになって、そしたらアキラくんしか構ってくれなくなっちゃうかも」
「その時はボクが責任をとるよ」
そう言うと、二人でクスクスと笑い合った。何気ない会話が、胸いっぱいに幸せを広げる。
今日だって目的があって待ち合わせしたわけじゃない。恋人になったら、会いたいという理由だけでこうして喫茶店や、商店街や、公園で、一緒に時を過ごす事が許されている。嬉しくて、そして本当に幸せ者だと思う。
目の前にいるなまえが本当に可愛くて。この素敵な女性がボクの恋人になってくれて、幾分月日が経つけれど、未だに信じられない思いだ。ボクの大好きな女の子が又、ボクの事を好きだという事が。
以前進藤に「なまえは本当に綺麗だし、誰よりも可愛いと思う」と言ったら、「そういう事あんま人に言わない方が良いぜ」と呆れられたっけ。ボクは真剣だったのだけど。
「ああ、そうだ、アキラくん。電話では伝えたけど、改めて・・・北斗杯の代表、おめでとうございます」
早速運ばれてきたアイスカフェラテ。ストローを持つ手を止めて、なまえはかしこまって言った。ボクもグラスをテーブルに戻し、ありがとう、と伝える。
「囲碁ファンの話題は北斗杯で持ちきりみたいだね、売店のお客さん達もよく話してるから熱気が伝わるよ」
「そうなんだ?国対抗で団体戦っていうのは盛り上がるのかな」
「アキラくんはいち早く代表に決まって、すごいよね。それにヒカル君と、あと関西の方だよね」
ーーー”ヒカルくん”。その呼び方が、ボクの眉間に再び皺を作った。なまえったら、どうして進藤を下の名で呼ぶんだろうか。それだとボクを呼ぶ”アキラくん”と全く同じじゃないか・・・ボクは、恋人なのに。
いけないいけない。こういうのが、束縛っていうのかもしれないのに。
ボクは邪念を必死に払い、北斗杯にまつわる話題の続きを探した。
「関西棋院のプロは社っていうんだ。ボクと同い年なんだよ。進藤と3人で本番前に3日間、ボクの家で泊まり込みの練習手合もする予定なんだ」
「へぇ、すごいね。じゃあ明子さんがずっとお食事作ってくれるの?」
「いや、父さんも母さんも不在なんだ。外食や出前でなんとかするつもり」
「えっ・・・そんな連日、全部が外食なんて大変だね・・・」
なまえが心配そうに眉を下げた。もしかして、食事の準備に来てくれるなんて言うつもりかも。だとしたらすごく嬉しいーーーけど、絶対にダメだ。男ばかりの家に、なまえを上げるだなんて。
しかし、その心配は杞憂に終わった。恐らくボクのヨミは当たっていたようだが、なまえはその案を自ら退けた。
「三食は難しくても、日に一食くらい差し入れしようかな?なんて思ったけど・・・良くないよね。真剣なお仕事の勉強会に私なんかいたら邪魔になるし」
「いや、そんな事は無いけれど・・・申し訳ないし、気持ちだけ受け取っておくよ」
「まぁ、もしなにかお役に立てる事があったらいつでも呼んでね。その時は”彼女”っていうのは隠して、『お手伝いさん』とかって事にして行くとか」
彼女っていうのは隠して?
なぜだろう。照れ隠しか冗談なのだろうか。
「進藤もいるんだからそんな嘘は会えばすぐにバレるよ」
「あぁ、そっかぁ。うーん、でも”幼馴染”っていうのもねぇ・・・」
「べつに、恋人なのは隠す必要無いじゃない」
「えっ?いや、それはちょっと・・・」
なまえはそう言って俯いた。胸が熱くなる。分からないよ、ボクの恋人だというのは、そんなに隠しておきたい事?
「ーーーキミの事、”彼女”として進藤達に紹介するから」
「・・・え?」
「だからボクらが練習手合している間、食事の準備を手伝ってくれ。三食の内どれかを用意してくれるだけでもすごく助かるよ、その分碁に集中できるから。夜は泊まらなくて良い。キミも学校があるだろうから、それなら良いだろ。材料費はボクが出す」
一方的に捲し立てると、なまえはぱちぱちと瞳を瞬かせた。食べかけのまま歪な形で皿に残されたチョコレートケーキが、パタリと倒れた。
「えっ・・・何、どうしたの?アキラくんだってさっき『気持ちだけ受け取っておく』って断ったじゃない」
「キミの方こそ『連日外食なんて大変だね』って言ったじゃないか、だから頼んでいるんだけど」
「・・・頼むっていう口調じゃ無いじゃない」
なまえは困ったように眉を寄せて、「頑固ね」と呟いた。
ボクは息苦しい胸の中で、さっきの辞書の言葉を思い返していた。不安。自信のなさ。時々チラつく。ボクはただ、他の人よりも早くキミと出会えていただけなんじゃないかって。
それなのにこんなに我儘ばかり言っていては、いつか愛想を尽かされるんじゃないかって。
わかってる。だというのに、キミへの執着が離れない。