- ナノ -



「進藤ヒカルくん」

 棋院への道順と、売店の商品棚の位置を覚えるのでまだいっぱいいっぱいの私の目の前に、その少年は現れた。レジカウンターの向こう側にいる彼はペットボトルのお茶と、囲碁新聞を片手に持ち、こちらへ差し出そうという所だった。
 アルバイトには憧れがあった。そして碁界に疎く、好きな人の好きなものを知りたかった私にとって、このバイトは本当にありがたいものだった。棋士の顔と名前は少しずつ覚えはじめてきたが、たとえ本人を見かけてもマナー上こちらから声をかけたりはしないようにしていたのに。迂闊だった。彼の事はプロになる前から知っていたものだからつい、名前なんて呼んでしまった。

「あ、もしかして塔矢の彼女?良かったじゃん、バイト許してもらえたんだ」

しまったな、と口をつぐんだ私に、彼が言ったのは意外な言葉だった。
塔矢の彼女?アキラくん、私の事を彼に話しているのだろうか。それに、”許してもらえたんだ”って?アキラくんがここで働くのを良く思っていなかった事、彼は知っているんだろうか。
 言葉が出ない私に、今度はヒカル君が「しまった」と言って、口をつぐんだ。

「あー、えっと。売店に若い子が入ったって、他のやつが噂してたの聞いてたよ」
気まずい沈黙を察してか、ヒカル君が少し話題を変えて言った。商品を受け取って、バーコードをスキャンしながら、曖昧に微笑む。
「慣れた?嫌な奴に絡まれたりしてない?」
「まだまだ慣れないけど、お客さん達みんな優しいよ」
「そっか。ま、変な奴なんか来たら、”アイツ”が放っておかないかーーー」
「進藤!」

ヒカル君が小銭をトレーに置いたその時、店外の通路から真っ直ぐな声が響いた。振り向くまでもなく、アキラくんだと分かった。

「じゃ、じゃあまたな。バイト頑張れよ」

彼だと気付いたのは私だけで無かったようで、ヒカル君はそそくさと商品を受け取って立ち去ろうとした。けれど店内に入って来たアキラくんに「どうして進藤がここに」と詰め寄られ、面倒臭そうに項垂れた。

「オレが買い物してちゃ変かよ。っていうか、どうしてはオマエの方だろ?塔矢、地方対局で出張だったはずじゃん」
「今帰って来たんだ。棋院に用事もあったし、なまえが変な人に声を掛けられてやしないかと思ってついでに寄ったら、キミが居たから」
「オレが変なヤツだって言うのかよ!」


ヒカル君がプロになった事や、時々二人で碁を打っている事は、アキラくんから聞いていた。けれど実際に二人が言葉を交わしているのを見るのは初めてだった。
基本的に人に対して物腰の柔らかなアキラくんが、こんな風に食ってかかるのはとても新鮮だった。
 二人のテンポ良い掛け合いを、呆気にとられて見ているだけだった私だったけれど、その矛先は突然こちらへ向いた。

「棋院に用事があったついでだあ?どーだかッ。どーせカノジョの事が心配で見に来たんだろ!なまえも大変だよな、コイツの束縛ってだいぶキツくない?」
「なっ・・・なまえにおかしな事を言うのはやめろ!それに、いつの間に呼び捨てにして・・・」

ふふ。アキラくんが年相応に友だちと言い合っている様が可愛くて、私はつい笑い声が溢れてしまう。

「なまえ?もう、何を笑っているの」
「ヒカル君といる時のアキラくん、好きだなぁ」

私がそう言うと、アキラくんは言葉を詰まらせて、頬を赤らめた。
すると、彼の動揺した隙を見逃さなかったヒカル君が「んじゃ、邪魔者は退散するかな」と言って、売店を後にした。
 残された私達二人の、視線が絡む。



愛し方の定石
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