- ナノ -

心にいつも




「いい?山岳。明日からインターハイコースの下見で、レギュラーメンバーは栃木へ移動だからね。朝は早いけど、寝坊や遅刻は絶対厳禁だからね?!」


地方大会を華々しい成績で優勝し、インターハイ出場を決めた私たち。
翌日である明日、さっそくインハイ当日のコースへ下見に行く事になっている。
それがいかに大切な日で、絶対ゼッタイ遅刻禁止なのか・・・私は先ほどから山岳に再三伝え、そして今も送ってもらった自分の寮の前で口を酸っぱくして説く。

大丈夫ですって、と前髪をいじりながらのんびり答える彼の後ろには、花はすっかり散った桜木の若葉が月明かりに照らされてる。



「オレ、二年生になってから遅刻減ったの知ってるでしょ?名前さんだって、褒めてくれてたじゃない。」


・・・たしかに山岳は、学年がひとつ上がってから遅刻が減って週三回程度になった。
だけどそれを褒めてたら、銅橋君に「名前先輩も他の三年生も、真波に甘すぎる」って怒られてしまった。
そ、そうかなぁ、甘いかな?
山岳も二年生になって、中堅学年としての自覚が出て来たんだなぁなんて感動してた私は、甘かったのか?
まぁ確かに・・・遅刻や無断欠席も、減ったとは言えまだまだしてるワケで。去年の今ごろの、出会った頃の私ならば「遅刻しないのが普通で、当たり前の事でしょ!」なんて言ってたのかも。

・・・マズいのかも、これじゃあ。
もう彼を注意してくれる靖友さんや尽八さんは、卒業しちゃって居ないんだから。
今年の新入部員の中には、昨年のレースを見て山岳に憧れて入って来た人だって沢山いるんだし・・・
よしっ。気持ちを入れ替えて、厳しくいこう!
それが部のために、それに山岳のためになるんだから。


「・・・だ、ダメダメ!遅刻も減ったとはいえ、ゼロじゃないんだから。アンタ、今年はエースクライマーなんだよ?去年とは違うんだから私もビシバシいくからね!明日は部のバスで行くから、山岳ひとりが遅刻したらみんなに迷惑かかるんだよ。途中から雑誌の取材の方も乗り込んで同行するっていうし・・・寝坊も、坂が呼んでるとか言ってロードで走りに行くのもダメだからね?!」
「びしばし、ねぇ・・・。あ!そんなに言うならさ。明日の朝、オレに電話してくださいよ。モーニングコール。」
「そんなに言うならって・・・どの立場で言ってんのよっ」
「オレさー、名前さんの声も好きなんだよねぇ。キミの声で起こしてもらえるのなんてさ、最高じゃない?きっと、すっきり起きられると思うんだよねー。」
「まぁ、電話くらい良いけど。」
「・・・この頃の名前さん、オレに甘いですよねえ」
「何か言った?」
「んーん。でも、ワタシも準備とかあるんだから朝から電話なんて無理ーって言うかと思った。優しい彼女を持って幸せだなーって、愛を感じるなーって思っただけでーす」
「そりゃ、まあ・・・。す、すきだからね、山岳のこと」



好きだとか、こんな事を自分から言うようになったのは我ながら大きな進歩だ。
言葉にしてくれたら嬉しいと彼が言うから、私は素直になれるよう地道に特訓中なのである。そりゃ、恥ずかしいけど・・・でも、こんな事くらいで喜んでくれるのなら、努力してみたいって思うから。


山岳は可笑しそうに笑って、私の頭をぽんぽんと撫でた。
いつもの仕返しに、私だって赤面のひとつでもさせてやりたいのに・・・道のりはまだ、遠そうだなぁ。


じゃあねと手を振って別れたその背中は、出会った頃よりもおおきく見える。
・・・そりゃそうか。去年の春・・・初めて出会った時、山岳はまだ中学を卒業したばかりだったんだものね。

あの頃、私にとっての山岳はただの手の掛かる後輩でしかなかった。ケガで部活を辞めざるを得なくて、ドン底状態だった私。兄や周りの人たちの優しさも全て、同情に思えて鬱陶しくて仕方なくて。
当てつけみたいに、山岳の勉強係を引き受けた。
・・・誰が想像しただろう?
そんな彼と私が、恋におちるなんて。
あれから・・・たったそれだけで、私は全てが変わってしまった。
毎日が、真波山岳というひとりの男の子でいっぱいになった。
そして今・・・こうして、同じ夢を追っているだなんて。


そして明日からいよいよ、今年のコースの下見だ。
・・・夏のインターハイ。
また、この季節がやって来た。


インターハイのロードレース競技は、その年によってコースが違うらしい。
高校野球の"夏の甲子園大会"のように決まった場所で行うわけではない事、初めて聞いた時は驚いた。
でも今では、そこも面白いと思える。それも、ロードレースの魅力のひとつなのだと。
地形や自然が勝敗を分けるロードレースにおいて、場所が変わる事は戦略が変わる事を意味する。
コースの下見はとても重要だ。

・・・そう思うと去年のインハイ開催地が私たちの地元である箱根だったのは、すごい事で。
・・・そしてその地で、王者と呼ばれる箱根学園が敗北してしまった意味も・・・噛みしめるように実感が湧く。

箱根学園にとって・・・それから、山岳にとっての、今年のインターハイの意味。私は選手ではないけれど、自分なりの立場でその重さは感じてるつもりだ。インハイが一日一日と近づくたび、部内の緊張感と高揚感が膨れていくのを肌で感じていた。











その日の夜。

−−−私は、夢を見ていた。




学校の桜の木に、かわいい蕾がいくつも膨らんでいる・・・あれ?さっきはもう、すっかり若葉になってたはずなのに。
・・・ああこれ、今年の卒業式の記憶だ・・・。
夢って時々、過去にあった出来事をそのまま再上映みたく振り返る事があるよね・・・
ぼんやりと客観的にそう認識しながら、鮮烈に蘇る目の前の光景を眺めていた。


卒業式が終わって、生徒玄関の前では卒業生達が記念写真を撮り合ったり、後輩との別れのひとときを過ごしていた。
・・・私もひとつ上の学年はとくに、お世話になった方が多い。靖友さん、隼人さん・・・それから、お兄ちゃん。(ああだめだ、思い出しただけで泣けてくる。)
私はひとりひとりにお礼と別れの言葉を告げて、残るはあと一人だけとなった。


「・・・おつかれさまでした。」


その人の周りはすごい人だかりで・・・二人きりで話せるくらいになるまでに、かなりの時間がかかった。


「ああ、名前ではないか。・・・すまないな、待ってくれていた所悪いが、もう何も残っていないのだよ・・・ボタンもネクタイも、靴紐まで女子ファン達に持って行かれてしまってな!ワッハッハ!」
「い、いえ・・・いらないです、物は。尽八さん・・・その。ありがとうございました。それを、伝えたくて」


・・・東堂尽八さん。

華も実力もあるけど、なんとなく軽そうな人・・・自転車部に入るまでは、そんなふうに思ってた。だけどこの人は、チームにとっては無くてはならない人なんだと折に触れ身に染みた。
戦力としてはもちろん。それだけじゃなくて、周りをすごく見ていて山岳にもいつも的確なアドバイスをくれていた。山岳のターニングポイントにはいつもこの人がいて、背中を何度も押してくれた。

・・・だけど、どうして私は今・・・尽八さんとの別れの場面を、夢に見ているんだろう・・・?





「それだけ言う為に、わざわざ待っていたのか?律儀な所はさすが、フクの妹だな・・・・って、何を泣いている?!」
「っ、お、お兄ちゃんの名前出すからっ・・・ううっ・・・ごめんなさい、泣いたりして。・・・お兄ちゃん、大学進学だから・・・もしかしたらもう二度と、私が同じ学校に通う事はできなくなるんだなって・・・」
「・・・そうか。良い事だな、兄妹仲が良いという事は。しかしあまり泣くんじゃない、名前。そんなんじゃ、フクも・・・オレだって、安心して卒業できんではないか。お前は途中入部のマネージャーとはいえ、自転車部をより強くしていく上で重要な存在なのだ・・・それに春からは、最高学年なのだぞ。」


式の最中も散々泣いたというのに、私はやっぱり寂しくて仕方なくて。お兄ちゃんはもちろんだけど、三年生の先輩達はみんな本当に良くしてくれたから。
私が部に入る前も、そしてもちろんその後も・・・自分たちだって沢山の事を抱えてるっていうのに、いつも私や他の後輩たちの心配をしてくれて。たくさんたくさん、背中を押してくれた。


「・・・っ。はい、尽八さん!」

安心してもらうために精一杯の笑顔でそう言うと、尽八さんは「うむ、それで良い」と言って満足そうに微笑んだ。


「名前よ。任せたぞ、自転車部を・・・それから、真波を。」
「はい!・・・って、え?山岳、ですか。」
「うむ。ヤツは自由気ままで、とにかくマイペース・・・人の目を気にしなさすぎる所がある。ロードレースは、チームスポーツだからな。」
「・・・は、ハイ・・・おっしゃる通りで。」
「あんな気の抜けた風貌でいて、心中は闘争心を人一倍秘めていて負けず嫌い。勝負事となると、別人のように豹変するからな。泉田や黒田は手を焼くだろう」
「・・・お、おっしゃる通りで。」
「だがそれらは全て、クライマーとしては長所だろう?・・・オレが危惧しているのは、ヤツには自己完結してしまいがちな所がある点だ。それ故に、長所が短所にも転びかねない」


尽八さんの一言一言に、私は大きく頷く。
・・・本当に良く見てるんだなぁ、山岳のこと。しかも分析も的確でめちゃくちゃ的を得てて、純粋に関心してしまった。
私も自分なりに、彼について考える事はあるけど・・・尽八さんの言ってることは、同じクライマー目線での見解だ。
私は偉大な先輩の言葉を聞き溢さぬよう、一つ一つ心にしっかりと受けとめる。



「そう、・・・ですね。ぜんぶ自分で背負っちゃうトコとかあって・・・そういうの、すごいなって思うんですけど、でも心配なんです。」
「ああ。・・・しかし、オレはもう心配してはおらんよ」
「・・・え?そうなんですか?」
「アイツがもうすこし、周りの意見に耳を貸せたら・・・と、オレは思っていた。それだけが気掛かりだった。だが・・・以前の真波ならわからんが、今の真波はオマエの言葉にならば受け入れるだろう。−−−オレたち三年の追い出しファンライドの後、お前達の関係にも何か変化があったのだろう?」
「えっ?!・・・よ、よく見てますねホント・・・」
「ワッハッハ!この山神には、全てお見通しといった所だ!アイツがまた何かに縛られて不自由になったら、しっかりしろとケツを叩いてやれ。・・・名前。お前の存在は、レースの上では目には見えない。他の選手や沿道の観客には、真波が一人で走っているように見えるだろう・・・だが、真波の心にはいつもお前がいる。"そういう存在"は、男を強くするのだよ。ライバルでも、恋人でもな。だから自信を持って胸を張れ。・・・目に見えない関係は、おとぎ話のようで不安か? だが確かな事実として、お前達の胸には刻まれているのだろう?」



・・・そうだ。
これから始まるインターハイ・・・レースが始まってしまえば、私は無力だ。
去年はその不甲斐なさに、居心地が悪いとさえ感じた。

けれど、今年は違うって・・・自信を持って言える。
この一年間、自分なりに出来る事の全てをやって来たつもりだ。そして選手たちは、その何倍も血の滲むような努力をしてた。

だけど、だからって必ず勝てるなんて保証はどのスポーツにも無い。
自然と対峙して、マシンを要して戦うロードレース競技は特にそうだと思う。どれだけ努力したって一瞬のメカトラで勝敗が決する事だってある。
だからレースの上に見えない事は、たくさんあるのかもしれない。・・・山岳と私の関係だって、そうだ。

−−−でも確かに、私たちの胸の中にはある。

それでいい。それだけで、いいんだ。
形あるものじゃないからこそ。物みたいに誰かに奪われたり、失ったりするものではないのだから。



「尽八さん・・・ありがとうございます。私、山岳には沢山のものをもらったんです・・・だから、これから私が彼の力になれる事があるなら、何だってやります!それが、目に見えなくても大丈夫です。・・・だって、それが"マネージャー"ってことですよね」
「・・・うむ。よい顔だ、名前。−−−クライマーとしての事だけ、言うつもりだったが。すこし、おしゃべりが過ぎたな」


真波を、よろしく頼むぞ。
最後にもう一度、そう言って・・・尽八さんはくるりと背中を向けた。私は感激しつつも、尽八さんでもしゃべりすぎたとか思う事あるんだ...とこっそり思っていると、「お前いま、しゃべりすぎた自覚あるんだーみたいな事思ったな?」と言って振り返った。
・・・か、勘も鋭い。







−−−そこで、はっとして目がさめる。

夢・・・、かぁ。

なんで今、卒業式の日の事・・・そっくりそのまま、夢に見たんだろう?しかも、尽八さんとの会話だけ。
他の先輩とだって話したし・・・あぁそういえばあの後、山岳とも話したのに。
部室に行く途中でばったり会った山岳は、卒業生でもないくせに何故だかブレザーのボタンを女の子達にゲットされちゃってたんだっけ・・・。



・・・尽八さん。
目に見えなくても、大丈夫ですよ。
ロードレースに対してだけじゃなくて・・・
たとえば他の誰も、この恋を知らなくたって。

ほんとは、沿道で声援を送ってるキラキラしたファンの子たちや、彼の近くにいるクラスメイトを羨ましく思う事だってある。不安になる事だってある。だって、時としてあの子達の方がずっと山岳に近い。

でも・・・私だけが知ってる山岳の笑顔が、いくつもいくつもこの胸にあること。
まるで夢のように輝く恋が、私の毎日を照らしてくれた事・・・
チームメイトも友だちも、その全ては知らないだろう。
他の誰も知らなくたって、いい。
私が持っている限りずっとずっと、この胸にあるから。
そしてそれは、彼も・・・きっと。




部屋の時計の針は、目覚ましのアラームをセットした時刻のすこし前だった。
ベッドから起き上がりカーテンを開くと、私と同じく起き抜けの朝日がゆっくりと登りはじめたところだった。

私は携帯を手にとり、アドレス帳をひらく。
その名を見るだけで、じんわり胸が熱くなる。そういえば・・・電話で、"どちらサマ?"なんて言われた事もあったっけ。




「・・・もしもし、山岳?おはよう!」

『んー・・・名前、さん・・・?』


携帯の向こうから聞こえる、大好きな人の声。寝起きだからか少し掠れていて・・・そんな声を耳元で聴くのは、まるで一緒に寝ていたかのようでドキドキしてしまう。




窓の外からはやさしく、でも真っ直ぐに光が差し込んで来る。山岳の部屋にも、同じように暖かだろうか?
けれどその光の眩しさに春の終わりを感じて、すこしだけ切なくなる。


新しい夏が、はじまるという事だった。







もくじへ