<銅橋正清/ 読み切り>
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「ねぇねぇ、まーくん?ここの棚を拭く雑巾って、ドコにあるんだっけ」
ーーー部室掃除の当番中。同じく当番の真波が、さも当然のようにオレを、そのフザけたあだ名で呼びやがった。
「あぁ?!その呼び方ヤメロっつっただろうが!」
「え〜?だって、なんか可愛くて良いじゃない。まーくん」
オレが家族にそう呼ばれてるのをひょんな事で知ってから、真波や先輩達が時々同じように呼んでくる。コイツに至っては、恐らく面白がってやがる。
その時・・・扉が開いて、入って来たのは苗字名前先輩だった。この人はオレの1コ上で、ウチの部のマネージャーだ。
オレと真波の二人だった部室が、急に華やかになる。
「苗字先輩、オツカレっス!!」
「あ、名前さーん。おつかれでーす。ねぇ、名前さんも呼んだげてくださいよ。バシくんの事、まーくんって」
「バッ・・・!バカか、真波テメェ?!」
なんでよりによって、苗字先輩にまでその呼び名をバラすんだ。
オレが密かに憧れてる事を知って・・・るワケは、まさか無ぇよな?!
書類か何かを棚に置きに来たらしい苗字先輩は手を止め、その大きい瞳をぱちくりさせて「...まーくん?」と呟いてる。
ああクソッ、真波の野郎あとでコロス。
・・・そう思いながらも、苗字先輩の唇からその名が発せられた事に、オレの心臓は地味に浮かれてる。
「バシくんね、お家でそう呼ばれてるんだって」
「・・・どうばしまさきよ、だからまーくん?」
「マナミ!!てめぇ黙ってろ、マジで!!」
真波に掴みかかると、苗字先輩は「へー、なんか意外な呼び方だったかも」って、楽しそうに笑ってる。
「でしょ、名前さん。呼んであげてください、バシくんも嬉しいだろうから」
「あはは。私は呼ばないよー、銅橋くんは銅橋くんだもん。・・・じゃ、トレーニングルームに戻るから」
・・・そう言って、ひらりと手を振って苗字先輩は部屋から出て行った。
「あークソッ、苗字先輩に知られたのは恥ずかしいけど、でもホントはちょっと呼んでほしかったなぁ、−−−って、バシくん今思ってた?」
「妙なアフレコしてんじゃねェよ!!」
マジでぶっ飛ばしたい気持ちをぐっと抑えて、オレは床に落ちてた紙くずを真波の尻めがけてブン投げた。
「痛てて。もー、ひどいや。まーくん」
「テメェが悪いんだろうが!・・・ったく、さっさと掃除すんぞ!」
楽しそうな真波を尻目に、オレはゴミ袋をぎゅっと縛った。ヤツはつくづく不思議だ。天然なのか、ワザとなのか。妙に確信を突いてきやがる時がある。
チッ。
オレの舌打ちに気付いてか否か、真波は、ふふっと風のようにまた笑った。どこまでも食えない野郎だ。
*
その日の練習後。
部室前の外のベンチに腰掛けて、オレはひとりでロードバイクのメンテナンスをしていた。
他の部員はみんな帰っちまったみたいで、辺りはシンと静かだ。夜空の星が、やけに光って見えた。
メンテナンスをしながら、オレはぼんやりと今日あった事を思い返していた。あのトレーニングはキツかったなとか、あの加速のギアチェンジは上手い事いったなとか。
・・・そういえば苗字先輩と今日は話せたな、とか。
苗字先輩への気持ちは、恋なのかと聞かれても正直自分でもわからねぇ。
ただの憧れのような気もする。
苗字先輩は・・・男ばっかの自転車競技部で、目立つ存在のハズなのにどうしてだか透明感みたいなのがあった。あの人はすごく働き者で、オレは入部してから一度もサボったり手を抜いたりしてる所を見た事が無い。男目当てで自転車部に近づく女どもと違って、部員に媚びるような事も全く無い。
不思議なのは、絶え間なく動いてるハズなのに彼女の周りはいつも空気が澄んでいる事だった。
選手じゃないあの人は・・・どんなに努力したって自分が表彰台にあがる事も、一番にゴールする快感を手にする事も無い。
それなのに、誰が見てなくたって彼女の仕事に対する徹底ぶりは見事なものだった。
努力してるヤツは、絶対に正しいとオレは思ってる。
彼女の努力は人目につく派手なものではなく、ふとした瞬間に宝探しように見つけ出すモノの方が多かった。
誰も手ぇつけない場所、気付いたら掃除してあったりとか。
めんどくせー資料、丁寧にまとめてあったりとか。
それはどれも完璧な仕上がりなもんだから、オレはいつしかそれが彼女の仕業かどうか、見ればすぐわかるようになっていた。
そして見つけるたび、すげえなと純粋に思ってた。
だから・・・苗字先輩の事、かわいいとか、やさしいとか、そんなんで惹かれたわけじゃなかった。
つーか、あんま話した事も無ぇ。
ウチは部員多いし、あの人とは学年も違うし。
キャプテンの泉田さんとか同じクラスの黒田さんとは、よく話してんの見るけど・・・。あぁ、真波もか。アイツはなんつーか、年上に可愛がられる体質みたいな所があるから。
今日は話せたの嬉しかったけど・・・あの様子じゃ多分、オレなんか眼中に無いんだろうな。
・・・って、オイ?!
何、考えてんだ。
オレは、恋だの愛だのにかまけてる暇は無ぇだろ?!
やっと出れるんだろ、今年のインハイは!
ハッとして我に返ると、フレームを拭いていたクロスを持つ手が止まっていた事に気がついた。
・・・バカか、オレは。いつから考え込んじまってたんだ?!
慌てて再び手を動かしはじめたが、オレの名前を呼んでくれた苗字先輩の声とか、笑ってた顔が、また浮かんできて。
・・・クソッ。
こんなに、嬉しいモンなのか。
好きな人に、名前呼ばれるってのは・・・。
けど、苗字先輩はもう呼んでくんねぇんだろうな。さっき、「銅橋くんは銅橋くんだもん」って言ってたし。
・・・名前、か。
そういや、真波は苗字先輩の事を下の名前で呼んでるよな。オレと違って、人懐っこいからな、アイツは。
・・・オレも呼んだら、どうなるだろうか。
苗字先輩は、イヤだろうか。
「・・・名前、先輩」
ぽつり、言葉にしてみる。
あー、やっぱ無理だなこれ・・・一人で言っててもハズいのに、本人の前でなんか絶対ムリ・・・
「何?銅橋くん」
−−−声がして、振り返ると・・・
そこには、制服姿の苗字先輩がいた。
「なっ?!・・・苗字、センパイッ?!オ、オツカレっス!!」
「銅橋くん、おつかれさま。・・・ひとりで残って、ロードのメンテナンス?偉いなぁ〜」
優しく微笑んだその綺麗なカオが月明かりに照らされて、思わず見惚れる。
ってか、ヤバいだろ。完全に聞かれてたよな、さっきの?!
「ーーー銅橋正清」
慌てふためくオレによそに、苗字先輩は突然・・・オレの名前を呼んだ。それも、すげぇ真っ直ぐに。
「・・・え?!あ、・・・は、ハイ・・・?」
「銅橋正清ってさ、ぴったりな名前だよなーって思って。・・・ただしくて、きよくて、まっすぐ。銅橋くんは、自分の信じた道を真っ直ぐに来たでしょう。だから、ぴったりだなーって」
「え・・・・」
そんなふうに言われると思ってもみなかったオレは、気の利いた言葉も礼も言えず狼狽える事しかできなくて。
自分のやってきた事に、自信はある。
でもそれを認めてもらえる事は、すごく嬉しい・・・しかもこの人みたいな、努力を怠らない人間に。
「・・・それに、銅橋くんが信じて進んで来た道は・・・ちゃんと、正しかったね。・・・インハイレギュラー、おめでとう。やっと出られるね。ずっと頑張ってたものね」
・・・・は、ズルいだろこんなの・・・
なんで、ンな事言うんですか。
オレだって、誰かに褒めてもらう為にロードに乗ってんじゃねぇ。認めてもらう為だけに、努力してんじゃねぇ。
だけど、胸が熱い。喉に燃えるような感情が込み上げて、涙が溢れそうだ。
誰かに媚びたりしねェ、アンタに。
少ない言葉だけど、そんなふうに言われたら・・・
−−−好きに、なっちまうだろ。
・・・それは駄目だと、直感的に思う。この感情に火がつけば抑えが効かなくなるって事くらい、自分でもわかってる。
周りに出遅れてるオレは、ンな事してる余裕は無ぇのに。インハイを見た事すら無ぇオレが、ハコガクのレギュラー背負って走らなきゃなんねぇんだ・・・、だからやめてくれよ、そんなの。
ロクにアンタと、話した事も無かったじゃねぇか。
オレは先輩のこと、ずっと見てたけど・・・アンタも、見ててくれてたのかよ。
それでそんな、認めてくれたら・・・一番、嬉しいだろうがよ・・・。
「・・・名前、先輩」
「うん。何?」
「って、呼んでも良いスか」
「え?・・・う、うん。べつに良いよ」
「それから、お願いがあるんスけど・・・今年のインハイ、オレがスプリントリザルト獲ったら。・・・オレの事、名前で呼んでくれないっスか」
−−−この気持ちを全部、ロードバイクを前に進める力に変えちまえば良い。
そう思ったオレは、彼女にそんな約束を持ちかける。
恋愛なんかしてるヒマはオレには無ぇ。っていうかこの気持ちがもし、"そう"なんだとしても・・・多分、叶わないモノなのかもしれない。真波といる時、この人の纏う空気がすこしだけ変わる。いつもは透き通った彼女のソレに、優しく切ない色がつく。
・・・いいんだ、それでも。なんだっていい。全部、オレの前に進む力に変えてやる。
オレの言葉を受けた名前先輩は、すこしだけ目をまるくしてから、口を開いた。
「えっと・・・『まーくん』、って呼んでってこと?」
「ちっげぇよ!なんでだよ!」
謎のボケに、先輩なのに思わず突っ込んじまった。て、天然なのか?!
「あー・・・えっと。まさきよくん、って?」
「ウス・・・や、ヤなら断ってください」
「・・・わかった。・・・じゃ、わたし先に帰るね。正清くんも、あんまり遅くならないでね」
「・・・ちょっ・・・名前先輩、オレの話ちゃんと聞いてましたか?!スプリント獲ったら、って」
「聞いてたよ。だから、呼んだんじゃない。スプリントリザルト・・・キミの努力を見てたら、それは当然の結果だよ。努力の全てを知ってるわけじゃないけど・・・私、あなたがサボってるとこも、手を抜いてるとこも見た事ない。そういうの見てたらさ、私も頑張らなきゃっていつも背筋を正してもらってた。・・・だから、信じてるに決まってるじゃん」
そう言って、ふわりと笑って彼女は歩き出した。
そんな姿を見て、オレは益々自分の気持ちがわからなくなっちまう。
・・・この気持ちは、何なのだろう。
恋と呼ぶには、あまりに潔くて。
憧れと呼ぶには、あまりに掻き乱されすぎている。