ぎゅう、と彼女を抱きしめると、名前さんの身体がピクリと動いた。
それでも構わずに、きつくきつく。もう決して迷ってしまわないように。目の前にいるただひとりの、大切な彼女をしっかりと抱きしめる。
自分の肩の辺りにある名前さんの頭に頬を寄せると、柔らかな髪からふわりと優しい香りがした。
「・・・名前」
そう、はじめて呼び捨てで呼んでみる。
きれいで、キミにぴったりな名前。
オレの、大好きな名前。
そんな愛しさを、胸いっぱいに膨らませながら。
"名前さん" でも、ましてや
"名前先輩" でもなくて・・・
一度、オレたちは離れてしまった分。
もっと、キミの心に近づいてみたかった。
名前を呼び捨てにされた名前さんは、瞳をまんまるにして顔をあげた。・・・顔が、真っ赤だ。
久しぶりに見たそんな表情は、想像以上にオレの心臓を締め付けた。
胸が焼けるようなこの感覚は、はじめて彼女の笑顔を見た時に知った、生きてるって実感。・・・いや、今はソレ以上だ。
自分で呼び捨てたクセに、こっちがドキドキしてたんじゃ世話ないよなぁ。
「・・・名前。顔、真っ赤だよ」
右手でそっと、彼女の左頬に触れる。
親指でやさしく頬を撫でると、名前さんはますます顔の熱を高めた。
そんな彼女が、オレはやっぱり・・・かわいくて。
大事で、すきで、すきで、たまらなかった。
苦しみも重ねて、今、ただそれだけだった。
名前さんはなにか抗議でもしてやりたいけど、何の言葉も出せない様子だった。
その震える唇にふわりと奪うようなキスをした。
すごくすごく久しぶりのそのキスを、心なしかお互いに、名残惜しい余韻を残しながらオレたちは唇を離した。
彼女から身体を離し、改めて向き合う。
真っ直ぐに、その瞳を見つめる。
「オレって間違ってばっかりですね」
「・・・そんなの、私もそうだし。それに間違わない人なんていないんじゃないかな」
「けど人の一生には限りがあるじゃないですか。神さまがくれたこの時間にはリミットがある。何が大事で、何の為に生きてて、何の為にロードに乗るのか・・・それくらいはもう、間違えたくないんです。だから・・・一緒に、いてくれませんか。もう一度」
オレの言葉に、名前さんはもう一度涙を流した。そして、山岳らしいねって言って笑ってくれた。
「言ったでしょ。私の願いはあなたと同じだって」
名前さんの向こう側に見える窓は、もうすっかり日が暮れている。
雪はまだ降り続けていて、暗闇の中でもちらちらと白んでいる様子は夢の中みたいに綺麗で。
この雪が無かったら、今日キミと話す事はできなかったのかも?こんなに早く山を下りる事も、この教室が見えるグラウンドを通って戻る事も無かっただろう。
真っ暗な中で舞う雪は、まるで本物の羽根みたいだった。
「−−−天使、みたいだ。」
「・・・あ、外の雪?うん、天使の羽根みたいだよね」
「ううん・・・雪の事じゃなくて」
名前さんはオレの言葉の意味が掴めないといった表情で、眉間にシワを寄せた。きっと、また訳わかんない事言ってる、なんて思ってるのかな。
『山岳、自転車の二人乗りって意外と楽しいね。別々のロードバイクだと、山岳は勝手に先に行っちゃうでしょ?同じ景色一緒に見ながら進むのも、いいなぁって思ったよ。』
−−−いつか二人乗りの自転車で下校したとき・・・名前さんは、そう言ってた。
同じ景色を見て、一緒に進んで良かったんだ。・・・時には寄りかかったり、寄りかかられたりしながら。
・・・キミの、言う通りだった。
だから、オレにとってはキミが天使みたいだって思ったんだ。
「またわけのわからない事言って・・・でも、外の雪はホント綺麗だよね。しかも、クリスマスイブに降るだなんて・・・って、ああっ!山岳、窓の外見てよ、あなたのルック!!」
今日って、クリスマスイブだったのか?
のん気に思ってると、窓の外へ視線をおくった名前さんがルックのピンチに気が付いて声を上げた。オレも慌てて窓に駆け寄ると、グラウンドの端で見るも悲惨な姿で倒れてる。
・・・その時。オレは窓に綴られた落書きのようなひらがなに気付く。曇り窓に指で描いたらしいソレは、『まなみ さんがく』と・・・見慣れた彼女の文字で、そう書かれていた。
「名前さん・・・何コレ」
「・・・え!?あ、ちょっ・・・そ、そ、それは、何でもないから!」
彼女が大慌てで、その文字を両手で擦って消してしまった。
「もしかして、オレが来る前・・・ここでオレの事、考えてたの?」
「ち、違・・・わないけど。私はここで、日直の仕事を・・・って、ああっ!そうだ、学級日誌っ!出して来なくちゃ!」
「あ、話逸らしましたね」
「違うってば、ホントなの!職員室に持ってかなくちゃ・・・」
「んー。じゃあオレも、ルックの救出に行こうかな。メンテナンスもしてあげなきゃ」
「そっか、それなら部室に行くのね?・・・じゃあ・・・また、明日ね、山岳」
終わりの言葉をどう結ぼうか、彼女がすこし迷っているのがわかった。
いそいそとコートを着込む名前さんにオレは、
「一緒に帰ろうよ、おくっていくからさ」
ーーー久しぶりに、すごく久しぶりにそんなふうに言った。
オレの言葉に名前さんは、花が咲いたように笑った。見惚れていると、名前さんは「職員室に寄ってから、すぐに行くね」と言って、日誌とカバンを手に持った。
「じゃあまた、あとで」
言いながら、やっぱりこの人が好きだ、と思った。軋むように、呻くように、胸がそう告げる。笑顔ひとつでこんなに甘い気持ちにしてくれる人はいない。
クリスマスイブには、願い事がなんでも叶う。
−−−そんなこと信じてたのは、ずうっと小さい頃の話。
強い想いが全て叶うのなら、オレたちは今年のインターハイで負ける事は無かったはずだ。
奇跡なんて起きない。・・・だけど、運命ならオレは信じる。
オレが、ロードに出会った事も。
箱根学園に入った事も。
名前さんに出会って、恋に落ちた事も。
あの日、山で困ってる坂道くんと知り合ってインターハイで戦った事。
そして今日、この場所でキミと話せた事。
強い想いが奇跡を起こすわけじゃない。でも・・・純粋で真っ直ぐな想いはきっと、運命の鐘を叩くんだ。そしてその鐘が響き合った時、神さまはすこしだけチャンスをくれる。奇跡の、きっかけみたいなもの。
その先を掴むのは−−−自分自身なんだろう。
オレ、やっぱりロードに巡り会えて本当に良かった。
生きてる実感も。恋をする嬉しさも、それから・・・かけがえのないライバルとの出会いも。全てはロードが、運んで来てくれた事だから。
慌ただしく教室から出て行った名前さんの背中を見送ってから、オレも歩き出す。
天使の羽根がたくさん積もったルックを、迎えに行かなくちゃいけないのだから。
そう、これからも・・・キミと、どこまでも。