教室の扉を開けると、窓の前に立っていた名前さんが振り向いた。
まるでオバケか宇宙人にでも出会ったみたいなカオで、名前さんは心底ビックリしてる様子だった。
「・・・は?!さ、山岳?!なんでここに・・・ま、まさか本当にクリスマスの天使が私の願いを?!」
「・・・え?なんのことですか?」
名前さんがあんまり動揺するものだから、オレは扉のところでポカンと立ち尽くしたままそう聞き返した。
オレが急に来たから驚いてるんだろうか?というか名前さん、教室にひとりで何してたんだろう?
彼女は相変わらず、「やだ、叶えなくて良いって言ったじゃない!!」とかって、窓にむかってよくわからない事を叫んでる。
「って、あれ・・・?グラウンドにロードバイクが置いてあるけど・・・白のルックじゃない?まさか、アンタのじゃないでしょうね?!」
窓を見たついでにオレのロードに気がついたのか名前さんは、濡れちゃうよ、とか、盗られちゃうよ、とかって今度はオレにむかって抗議を始めた。
・・・なんか、なつかしいな。この感じ。
思わず口元を緩ませながら、ゆっくりと教室の中へと進んだ。途中の机に、手に持ったまま走っていたヘルメットをコトンと置く。
そういえば・・・この教室は、彼女と初めて出会った場所だった。
「ちょっと、なに笑ってんのよ!っていうかアンタ、箱学のサイクルジャージで・・・まさか、外走ったまま来たの?ちゃんと着替えないと身体冷やすって・・・」
「・・・名前さん。」
彼女の目の前に立って、まっすぐに名前を呼ぶ。
・・・もう、オレは逃げない。
「キミに、話したい事があって来たんだ。」
「えっ・・・。・・・な、なに?ああ、クライマーチームのメニューの事かなにか?山岳いま、そのチームの中心だもんね。でもそれなら、まず着替えて、ロードバイクも部室に運んでから、」
「だいじなこと、なんだ。ロードバイクと同じくらい・・・いや、もしかしたら今はそれよりも。」
オレが真剣な声でそう言うと名前さんは「・・・わかったけど、」と眉をひそめてから、これで汗くらい拭いて、と言ってカバンからハンカチを取り出した。
・・・やっぱりこんな時にまで、気遣ってくれるんだ。突然現れて話がしたいなんて、相変わらず勝手すぎるオレに。・・・キミに、あんなに酷い事をしたオレに。
受け取ったハンカチからふわりと、彼女の優しい香りがした。
久しぶりに感じたその香りは前となんにも変わらなくって、オレはそれだけで泣き出してしまいそうだった。
「オレ、君に謝らなきゃいけないんだ。」
「・・・謝るって、何を・・・。もしかして、インハイで負けた事、まだ言ってるんじゃないよね?」
「・・・それも、あるけど。でもあれは、全力を出して負けたんだ。反省はしてるけど・・・もう、後悔はしてない」
そう言うと、名前さんはすこし表情を和らげて「そっか」と呟いた。
オレはちいさく息を吐いて、本当の事を言う覚悟をいよいよ決める。
「キミに、別れようって言ったとき・・・オレは、ロードにだけ集中したいって言った。もう負けられないから、勝ちにこだわりたいって。その想いも、あの時はもちろんあった・・・けど、理由は他にもあったんだ。・・・一緒にいたら迷惑になるって思った。インターハイで負けたから、オレのせいで名前さんまで人から悪く言われてるって。キミがもう、オレの事なんか好きじゃないんじゃないかって思ってた。失望されてるって・・・思い込んでた。一緒にいてくれるのは、ただの同情だって・・・だから、キミからは別れられないんだと思った。それでオレから別れを告げた」
「・・・そんな・・・。」
「・・・勘違いして、ごめん。隠して、嘘ついて・・・ひどい態度とって、本当にごめんなさい。」
オレが深く頭を下げると、名前さんが戸惑ってるのは声色だけでもわかった。
「山岳・・・。・・・で、でも。そうじゃないって、わかってくれたんだよね・・・?ただの勘違いだったんでしょう?」
「・・・勘違い、だったとしても。結局オレがキミの事信じられなくて、疑った事に変わりは無いから。ずっと信じて応援してくれていたキミの話を、オレはロクに聞きもしないで勝手に決めつけて、避けたり、無視したり・・・ひどい事、たくさんしました。・・・最ッ低なヤツです、オレ。・・・それを、謝りたかったんです。」
名前さんは触れたら壊れてしまいそうな、か細い声で「顔、あげてよ」と言った。
ゆっくりと頭を上げると、目に涙をいっぱいに溜めた彼女が「すこし、聞いてもいい?」と言った。
「・・・どうぞ。・・・っていうかなんでも、きいてください」
「・・・ちょっと突然の事で、混乱してて・・・。ええと。どうして、私が山岳の事嫌いになってなかったって、今になってわかってくれたの?私、別れた日にも好きだって伝えてたよね。それでも、信じてくれなかったって事でしょ?」
「名前さんの書いてる、部活のレポートのノート。あれを見たんです」
それも、謝らなきゃと思ってた事のひとつだった。
でも、そう伝えると涙ぐんでた彼女の表情はみるみるうちに青ざめていった。
「・・・え?ノート?レポートって・・・え?」
「んっと・・・あれは、先月の終わりだったかな?自主練終わって部室行ったら、名前さんが居眠りしてて・・・オレ、カバンとったら帰るつもりだったんだけど、たまたま机の上の開きっぱなしのノートが目に入っちゃって」
「・・・え?!うそ、全然気づかなかった・・・。それで、まさか・・・み、みたの?」
「うん・・・ごめん」
「ど、どこのページ?!バカバカ、あれは人に見せるようなものじゃないんだってば!私の個人的な感想っていうか、思ったものを書いたやつでっ」
オレが「ほとんど全部みました」と答えると、彼女は今度、真っ赤になって両手で顔を覆った。
「ばっ・・・ばか山岳!!さいってい!!」
「ご、ごめん!ホントに!!・・・あのノートには、オレの走りから目が離せなかったとか、かっこよかったとか、あと避けられてるの気にしてるのとか書いてあって、」
「ぎゃーっっ。い、言わなくていいから!!わかってます、自分で書きましたから!!もうカンベンして・・・!」
「それで、キミのほんとの気持ちにやっと気がついたんだ・・・遅すぎたって思う。信じられなかった事も、全部、本当に最低だっておもってる。・・・でも、だからオレもホントの事言わなくちゃって思ったんです。・・・けど、許してくれなくて、いいですから」
名前さんは、はああ、ともう一度大きな溜め息をついた。
「・・・と、とにかく・・・。誤解がとけてよかった・・・と、思う事にする・・・。山岳が別れたいって言った本当の理由は、他にもあるのかなって私も最初は思ってた。・・・だから、ホントはまだ私の事好きかも、なんてばかみたいに期待しちゃった時もあった。・・・山岳は、自分の存在が私の迷惑になってるって思ってたって事?それなら・・・本当は私の事、どう思っていたの?あの時。・・・それから、今は。」
−−−それは、今も好きなのかという事だろうか。
だとしたらその質問に答えられる資格が、今の自分にあるとは思えなかった。
それにオレはあのノートを見て、彼女の気持ちを知ってる。
知った上でこの気持ちを言うのは、卑怯な気がしてた。なんだか後出しジャンケンみたいで。
「・・・オレは、ただ謝りに来たんです。それなのに、その質問に答えるのは・・・なんか、ずるい気がする。自分で許せないです」
「・・・何でも聞いて下さいって、言ったじゃない」
「・・・でも、」
「ホントの事言わなくちゃって思ったって、言ったよね?それに私いま、結構勇気出して聞いてるんだよ。」
彼女の真っ直ぐな眼差しに、オレは再び言いかけた「でも」を、喉の奥に押し込める。