- ナノ -

1冊のノート 2


開かれていたページは、インターハイについて書かれていた。
飼っていたペットの死骸にでも触れるような怯えた手つきで、オレはそのノートを手に乗せる。


そして、−−−そこに並んだ信じられない言葉の羅列に、サァッと血の気が引く思いだった。

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<インターハイ 最終日>
途中、リタイアした荒北<2>や泉田<5>のいるテントに寄り、最終ゴールの前で待機。
ゴールを競るのは、箱学真波<6>と総北小野田<176>

まさか真波が最終ゴール争いまで食い込むだなんて当初は思いもしなかった。
ゴール直前の真波のペダリングは凄まじいものがあった。目が離せなかった。
真波のあんな走りは初めて見た。
私は見ているだけで、手指が痺れた。初めて真波の走りを見たときみたいに心が震えて、思わず泣いてしまった。

ゴール直前、小野田とはほぼ横並びに見えた。
ロードレースは無慈悲だと思う
どちらが勝ってもおかしくなくても、勝利はいつもたったひとりだから

レースが終わって、私は負けた悔しさよりも感動が優っている
チームの敗北は本当に悔しい
自分にできる事をもう一度考えなきゃいけないと思う。
でもそれとは全く違う次元で、山岳の走りは誇って良い
立派だった

1年生にしてこんなに大きなレースの結果を背負うのは重たすぎるかもしれない
サポートしていきたいし、それができる立場に居させてもらえる事をありがたく思う。

私は今回のインハイに連れてきてもらえて本当に良かった。
ロードレースの厳しさや奥深さは果てしない
私はロードが益々好きになった!
敗北を知って、山岳はきっともっと大きな選手になる
来年は彼らがもっともっとペダルを踏めるよう
私も明日からまた、できる限りの努力をしたい!!

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−−−それは冒頭、彼女の美しい字だった。オレに勉強を教えてくれたときに何度も見た丁寧な文字に、懐かしさすら感じた。

けれど文章が進むにつれて、文字に勢いを増して言葉が流れていくみたいだった。その筆跡の力強さから、彼女の興奮が見てとれるくらいに。


まるでそれは、日記のようだった。
所々にトレーニングのアイディアが走り書きでメモされたそのノートは、たぶん誰かに見せるというよりは自分のための物なんだろう。


・・・信じられない想いで、いっぱいだった。


名前さんはあのインターハイを見て、感動していた?あんな無様なゴールが、格好良かっただって?


・・・そうか、わかったぞ。
きっと名前さんがオレに呆れたのは、この後だ。
彼女は初めて見たインハイに興奮して、レースが終わった直後はこんな文章を書いた。でもその後、現実に戻って冷静になった彼女は、オレの犯した罪に気がつく。

見たところ部活のある日は毎日書いているらしいこのノートには、どこかにオレが別れを告げた花火大会のページもあるはずだ。
あんなに一方的な言葉で別れたんだ。
きっと腹を立ててたり呆れているはずだ。

チラリと名前さんを見ると、起きる気配はまだ無い。


オレは震える指先でページをめくった。

その先には、オレ以外の選手の走りについても名前さんの想いがありのままに綴られていた。
そして所々に、オレについて書かれた箇所があった。



『8月×日
インハイが終わってから、真波に元気が無い。
悔しいのはわかる
でも、胸を張って良いのに。
あの走りは本当にすごかった
感動した。かっこよかった。
私はあのレースを一生忘れない
それに誰も、この結果が山岳ひとりのせいだなんて思ってないのに!』

『真波にさけられている?
練習態度は真面目すぎるくらいだけど
なんだかひとりにしちゃいけない気がする
メニュー作り以外でも自分にできる事は無いか、考えたい』





そして・・・ノートの日付けはとうとう、オレが彼女に別れを告げた花火大会の日に差し掛かった。




『8月×日
真波が、これからは勝つ事だけ考えてロードに乗る、と話をしてきた。
それはアスリートとして上り詰める為に必要なストイックさなのかも?
でも、そうしたら前みたいに楽しそうに自転車に乗って坂を登る事は無くなるんだろうか。

真波の登りの強さはその集中力にあると思う
そしてその源は、風を感じる事、坂を愛してる事、その先へいちばんにたどり着きたくて夢中でペダルを踏む事だと私は思ってる

大切なものを全部捨ててまで、罪を背負ってチームを勝たせようとしてる。
本当にそれで良いのか、わからない
もしかしたら真波の選んだ答えが正しいのかもしれない

私がしてあげられる事は何もなくて、
なにひとつ力になれなかった
すごく近くにいたはずなのに』





・・・そして、その後のページにも、日々の部員みんなのトレーニングについて書いている中で所々オレについての文を見つけた。





『真波がロードに乗る時、すごく辛そうに見える事がある。こっちまで、見ててつらい』


『熊本火の国やまなみレースで、真波も山頂のリザルトを獲れた。少しずつ前に進めると良いなと思う』




そして一番最近のページには、泉田さんとメニューについてミーティングをしたのか、外周のコースがイラスト入りで描かれていた。

どこまでページをめくってもオレへのダメ出しも、不満も、書かれている事は一切無かった。

そこにあるのは、ただただオレへの好意と・・・それから、"心配"、"応援"。後悔があるとすれば、彼女の自分自身への悔いだけだった。


どのページにだって、オレに面と向かって言ってた言葉しか、そこには無い。





オレは震える唇から弱々しくため息を吐いた。

やり切れない想いが込み上げて、喉の奥がギュウギュウ痛んだ。







−−−そんなふうに、思ってくれていただなんて。





嘘でも、同情でも、なかっただなんて・・・。





頭の中に、インターハイが終わってからオレが彼女に言ったりしたりした言動の全てが、フラッシュバックするみたいに蘇った。


全てはオレの、勘違いだった。


彼女の言葉に、嘘はひとつも無かった。


ずっと、心配してくれてた。


ずっと、応援してくれていたんだ。






−−−オレは彼女に、なんて事をしてしまったんだろう・・・?






・・・でも、今さら知ったところでどうしようもない。


思わず握りしめた指先がノートを掴んで、用紙がグシャリと歪んだ。





その時・・・
ドアの向こうから、誰かが近付いてくる気配がした。
オレは慌ててノートを机に戻し、自分のカバンを抱えて部室から飛び出す。


扉の向こう側にいたのは、泉田さんだった。
自主練が終わったのか、もう制服に着替え終わった姿だった。



「ああ、真波か。おつかれ。部室にまだ誰か−−−」
「泉田さん。ここでオレに会った事は、誰にも言わないで下さい。」
「え?あっ・・・オイ、真波?!」


眼差しで泉田さんに釘を刺してから、オレは振り返る事なく部室を後にした。
・・・泉田さんはこれから、部室へ行くんだろうか。
彼女が無防備に寝息を立てている、あの部屋へ−−−



でも・・・前だけを見て、進まなくちゃ。


来月にはもう、3年生の引退レースであるファンライドだってあるんだから。
どんなに悔やんだって、望んだって、過去はもう取り返す事はできないんだ−−−それはインターハイのとき、十分に痛感した事じゃないか。





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