「どこの怪我ですか?」
「も、もういいでしょ、何でそこまで言わなきゃいけないの」
「何部だったんですかあ?」
真波は依然と質問を続けた。天然なのか、まさか計算なのか。
「ねぇ、真波。勉強しないんなら、もう帰ろう」
彼は「勉強ですかあ」とか言いながら、そのすらりと伸びた脚を放り出して、足先をぱたぱたと遊ばせている。
「オレ、勉強ってあんまり好きじゃないから」
好きじゃない、じゃないでしょ。この子は自分が置かれている状況を分かっているのかな。
にしても、ホントに何なのだろう、コイツは。勉強さえすれば、部活ができるくせに。・・・私にはもう、やりたくたってできないのに・・・。
私がどれほど望んでも、渇望しても、二度と戻らない日々を彼は手の内に持っている。でもその手のひらを、きちんと閉じもせず、包み込みもしないでいる。
羨ましい。
そして心底、妬ましい。
羨望と嫉妬の気持ちが、腹の底で渦巻くのを感じた。・・・駄目だ。兄は私がこういう感情を抱くのを恐れて遠ざけようとしたんじゃないのか。そして私は心配かけまいと引き受けたのではないか。
「・・・キミさぁ。好きとかそういう問題じゃないでしょ。この追試なんとかしなきゃ、大会出られないんでしょ?」
「生きてるって感じがしないんです」
真波はどこか遠くを見るような眼差しで、ポツリと呟いた。
「ロードレースは楽しいですよ。特に坂。生きてるって感じがして・・・最高なんです。あの感じがたまらないんだ。今はそれ以外、興味が持てないっていうか」
夏空色の瞳が、うっとりと輝く。その眼差しには遥かに広がる箱根の山脈すら見てとれるようだった。
コイツの事は、やっぱり気に入らないけど。
この瞳だけはお世辞抜きに魅力的だと思う。
それに、私には少しだけわかる気がした。
”生きている感じがしない”。−−−今の私にも、まさにぴったりだと思った。
ソフトボールができれば、それだけでよかった。それを取り上げられてしまってから私は、まさに生きている感じがしなかった。
彼にとってはロードレースがそうなのか。こんなにフワフワして、自由気ままな彼。自転車に乗ったら、どんな風になるんだろう。この瞳はどんな風に輝いて、どんな走りを、するのだろうか。
羨ましい。
心底想う。
彼はこんな簡単な追試さえクリアすれば、大好きな自転車に乗れるのに。甘えないでよ。生命を実感できる程わくわくできる物が、未来にはいくらでも広がっているんじゃないのか。
「自転車が好きで、でも勉強はしたくないって…好きな事だけしてたいなんて、そんな我儘通るわけないじゃん」
私の心の真っ黒な部分がうごめいた。これ以上言ったら絶対後悔する。わかってても、止められなかった。だって、どうして私だけこんな目に遭ってしまったのだろう?
「私は好きな事の為なら何でもしたわよ。嫌いな勉強だっていくらでもしたわよ!でも、もうできないの、二度と。あんたは、こんな簡単な追試さえクリアすればいくらでも大好きな部活ができるクセに。・・・なんで、私じゃなくてあんたなの。あんたなんか、いっそ怪我でもしてみれば良い。それで一生自転車に乗れなくなって、やっと今の自分がどんだけ幸せなのか、気付けば良いのよ」
ぽたぽたと、涙がこぼれて、机に置かれたままのプリントを濡らした。
「最低。あんたみたいなヤツ、大っキライ・・・!」
吐き捨てるみたいに言葉を投げつけて、教室を後にした。