- ナノ -

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あの熊本のレースから・・・
つまり、山岳と別れてから、2ヶ月が経とうとしていた。



11月も終わりに近付き、街中にはちらほらとクリスマスの装飾が施されはじめている。うだる暑さの中行われた熊本レースが、まるで遠い過去の事のように思えた。


あのレースから、山岳は私と目線さえ合わせなくなった。

名前先輩、なんて呼んでくれる事すらなくなってしまった。

はじめはそれが寂しくてたまらなかったし、嫌われた理由をいつまでも考えたりもした。インハイの後、山岳だってひとりになりたい時もあるなんて思わずに、すぐに声をかけてあげれば良かったのかなとか。逆に、一緒に帰ろうなんて言わずにもう少しそっとしておいてあげたら良かったのかなとか、レースの事をえらそうにカッコ良かったなんて言われたのが嫌だったのかな、とか・・・考えたって、答えは出なかったけど。

けれど部活や学校は毎日なんだかんだとやる事が山積みで、日々に追われて過ごしていれば気持ちは少しずつまぎれていった。忙しくて、良かった。余計な事を考えなくて済むから。




部の雰囲気は、いよいよ来月に控えた3年生ラストラン"追い出し親睦ファンライド"に向け、先輩の背中を少しでも目に焼き付けようとする者、次世代を自分が担うんだと意気込む者、様々な活気に満ちていた。

私も、頑張らなくっちゃ。

部活終了後の部室でひとり私は、ふん、と鼻息をならして気合いを入れた。
練習中は皆のトレーニングを見ておきたい気持ちがあるから、雑用や自分の資料作りなんかはどうしてもこうやって居残りになる事が多かった。
お兄ちゃんも以前までは、ひとりで居残る事を心配していたけど、今はマネージャーとしてもだいぶ信用してくれるようになったのか許可をくれてる。・・・いや、言ったって聞かない私に、呆れてるだけかもしれないけど。そんなわけでこの頃は寝不足なんだけど、今日もあとちょっと、頑張らねば!!


あくびを押し込めた私はノートをカバンから取り出そうと手を伸ばすも、勢いあまって盛大にひっくり返してしまった。
床に、バラバラと筆箱や関係のない教科書なんかが散らばる。
・・・あーあ・・・と心で呟きながらも、嘆いていても仕方ないので床にしゃがんでひとつひとつそれを拾う事にする。

−−−ふと、小さな袋包みと目が合った。

・・・それは前に山岳がくれた石ころの指輪を、失くさないようにと袋に入れて持ち歩いているものだった。



片付けが終わった私は再び椅子に座って、ノートを机に取り出す。
今日のレポートも、すこし時間がかかりそうだな。12月も近づく秋の夜はすこし肌寒くて、私はブランケットを膝にかけて長時間作業の体制を整える。
そしてノートを開いたところで私は、再び先ほどの小さな包みと目が合う。ああ、カバンに入れ忘れてたのか。
うーん・・・でも。これ、またカバンにしまって良いものかなぁ。

元カレからもらったものを肌身離さずいつまでも持ち歩くのって、どうなんだろう。
・・・もしかしたら、もう捨てなくちゃいけないのかもしれない。
この指輪も・・・それから、山岳への気持ちも。

私はぼんやりした頭でそんな事を考えているうち、この頃の睡眠不足が祟ってか急激な睡魔に襲われた。
わーっ、ダメダメ。仕事しなきゃ・・・と頭ではわかっていても、瞼や肩がズシリと重たくて。
気がついたらそのまま、こんこんと眠りの世界へと落ちてしまっていた。











「・・・おきてください、名前さん」




「ん・・・?あれ、わたし・・・寝てた・・・?」
「良かった、具合でも悪いのかと思った。」

重い瞼をよくやく開けると、そこには・・・泉田の姿があった。

私の肩を揺すって起こしてくれたみたいで、ホッとした様子で微笑んだ。
うわ、私・・・寝落ちしちゃってた?!ま、マジか・・・!

「ご、ごめんっ・・・いつから寝てたんだろう、私?!」


慌てて身体を起こして部室の時計を見ると、どうやら30分近く寝てしまっていたようだった。

私の肩には、さっきまで膝にかけていたはずのブランケットが乗せられていた。・・・泉田が掛けてくれたのかな?

「名前さん、連日居残っていたよね?疲れが溜まってたんだよ。起こそうか迷ったんだけど、キミの帰る時間があんまり遅くなるのもなと思って・・・。」
「や、いいの、ごめん。・・・起こしてくれて、ありがと」

私はなんだか恥ずかしくなって、うつむいたまま机の片付けを始める。・・・ああ、不覚だ。ヨダレとかたらしてなかったかな・・・。

カバンにしまおうと、開いていたノートに触れると私がその上で眠っていたせいか盛大にシワになっていた。
しかも大事な大事な、今年のインハイのレポートのページ!・・・はぁ、私の大馬鹿・・・。

「あれ・・・?ねぇ泉田、この辺にあった指輪・・・みたいな、輪っかの形した石、見なかった?」
「え?いや、ボクも今来たところだから、机の上には触れていないけど・・・。」

えっ・・・ど、どうしよう。
どこかに落としちゃったのかな。
辺りを見渡してみるも、床にそれらしき物は何も落ちていない。
あの小ささだし、もしかしたら転がって棚の裏とかに隠れているのかも。見てみようかな・・・、いや・・・もしかしたら、無くなって良かったのかもしれない。
良いキッカケだって思う事にしよう、どうせ自分じゃなかなか捨てられないんだし。

・・・うん、そうだ。
そうだよ。

私は自分に言い聞かせるようにして、あの指輪の入っていないカバンのファスナーを閉めた。







帰りは泉田が寮まで送ってくれるというので、お言葉に甘えて一緒に帰る事になった。

ロードバイクを押しながら隣を歩く泉田を見て、私はやっぱり山岳を思い出してしまう。こうやって何度も一緒に帰ったよなぁ・・・なんて。
別れてからも、どうしても日常のどんな事も山岳と結びつけてしまうし、何をしていても彼を思い出してしまっていた。


・・・でも、もういい加減忘れなくっちゃ。
指輪とだって、お別れしたんだから・・・




はぁ、と吐き出した溜め息がふわりと白い息として空気に触れ、冬がもうすぐそこまで来ている事を私に告げた。

山岳と出会った春はとうに終わったんだ。
そして彼と別れた夏が過ぎて、ひとりで過ごした秋も通り過ぎようとしてる。・・・これから来る冬は一体、どんな季節になるのかな。


「・・・あのさ、名前さん。こんな事を聞くのはデリカシーに欠けるとは思うんだけど・・・。その、真波と別れたっていうのは本当なのかい?」

それはもう、部内では周知の事だというのに、泉田はすごく言葉を選んで私に聞いた。

「うん・・・べつに気にしなくて良いよ、本当の事だから。」
「そうか・・・。まぁカレは選手としての素質はピカイチだけど、人としてはすこし掴み所が無いしね。・・・キミがフッたのは、そういった理由かい?」
「え?あはは、やだなぁ泉田。違うよ、私がフラれたんだよ」

まさかフラれた側が私だったとは思わなかったのか、泉田は目を丸くして私を見つめた。そして、苦しそうに眉を歪めた。


「キミを振るなんて、カレはどうかしてるよ。」
「・・・ありがとう。でも、そんな事ないんだよ。」
「いや、どうかしてる。だってボクはキミの事が・・・っ、いや・・・こんな事を一方的に、今のキミに言うのはあまりに卑怯だね。」

そう自分に言い聞かせるように泉田は呟いてから、まっすぐな声で私の名前を呼んで立ち止まった。
なにかなと思い私も歩みを止めて、ふたりで向かい合うように立った。


「・・・でも今、言える事は・・・ボクは真波に、感謝している。」
「え・・・?」
「キミが自転車部のマネージャーになったのはカレの影響だと、ボクは客観的に思っている。そしてキミがマネージャーになってから、練習メニューの幅は間違いなく広がった。トレーニングが豊かになった。キミが部に与えた功績は大きい」
「そ、そんな事ないよ」
「謙遜しなくて良いさ。インターハイの後のいくつかの小レースやタイム測定の結果を見れば明らかだろう。キミは自転車競技部にとって、必要な人間だよ。キミが来てくれた事、ボクは真波に感謝したいと思ってる。ボクは当然、キミをひとりの部員として認めているし・・・それに、キミが好きなんだ。・・・ひとりの人間として」

泉田の言葉ひとつひとつに、途中入部のプレッシャーや、果てしなく思えていたマネジメントの勉強が少しだけ報われたような気がした。
自分に自信が無くなっていた事もちょっとあって、油断すると泣いてしまいそうなくらいに嬉しかった。


「泉田・・・。ありがとう・・・」
「それは、こっちのセリフじゃないか。・・・名前さん、これからもよろしく頼むよ。来年のインターハイは・・・負けられないのだから。」


真っ直ぐに私を見つめて、泉田はしっかりと頷いた。

正直私はそれまで、お兄ちゃん達3年生が引退した後をうまくえがけていなかった。
自分たちが最上級生になるだなんて実感が、いつまで経っても湧かなくて・・・
だけど、きっと来年も大丈夫。
力強い彼の瞳を見て、私は心にじんわりとそう感じていた。




もしかしたら泉田に、気を遣わせてしまっていたのかもしれないな。
インハイ後、一部の部員に悪く言われたときに泉田が近くにいた事もあったし。
それに、山岳と別れたから部に居づらいんじゃないかとか・・・もしかしたら、思わせてしまったのかも。
泉田、やさしいな。
自分だって先輩達からの引き継ぎや、来年へのプレッシャーでいっぱいいっぱいだろうに。




・・・私はまだ、ここに居て良いんだ。


山岳と出会った理由は、私が自転車競技部に入るためだったって・・・泉田が言うように、そう思えれば良いのかもしれない。


「・・・ありがとう、泉田」


私はもう一度そう言って、山岳との思い出を空にしたカバンをぎゅっと握りしめた。
そした泉田とふたりでもう一度、歩き出すのだった。






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