私たち二人だけ、まるで周りの景色から切り取られたみたいだった。
皆が夜空を見上げる中、静かに互いの顔だけをじっと見つめ合う私たちの空気は、夏の夜を賑やかに過ごす周囲とはまるきり違っていた。
私の額にじわりと嫌な汗が滲んできたのは、暑さだけのせいじゃない。
「・・・えっと、それってどういう意味?」
私はカラカラの喉で、やっとそう一言だけ絞り出した。
山岳は私を見ているようで、けれど遥か先を見つめるような眼差しで話し始めた。
「うーん。・・・オレ、欲張りすぎちゃったんです、多分。」
「・・・欲張り、って?」
「オレは坂が好きだし、名前さんの事も好きだった。山で一番がとりたかったけど、ダメだった。キミを幸せにするって告白したのに、それもできなかった。・・・つまり、そういうコトです」
「え?!ま、まって、まって。何の事?なんで私が幸せじゃない事になって、」
「たぶん、何かを得るためには何かを差し出さなきゃいけないんだ。捨てなくちゃいけないものがあるんだと思う。・・・オレは身体が弱くて、小さい頃は同じくらいの年の子達がするように、外で遊んだり、なんでも好きな事はできなかった。さみしかったし、退屈だったけど・・・でもたぶん、神さまはあの時間と引き換えに、オレにロードをくれたんだ。」
「・・・つまり山岳は、何かを得る為に何かを諦めようとしてて・・・それが、私だって事?」
「・・・うん、そう。山頂の一番が欲しかった。そしたら、キミの笑顔ももっと見れるし。でも・・・この前のインハイは、どっちもダメだった。あの後から、名前さんの笑顔がもうずっと見られなくなった・・・当然だよ、オレって彼氏らしい事だってなんにもしてあげれてないし。・・・今日は花火にでも来れば、キミの笑顔が見られるかと思ったんだけど、それもやっぱりダメで。」
・・・やだ。
私ったら、また山岳の顔が自分にもうつってたの?それは隼人さんにも言われてた事だった。気をつけてたのに・・・それが、山岳の傷をかえって深くしてしまっていただなんて。
−−−山岳が、遠くへ行ってしまう。そんな予感はしてた。
でもまさか別れを切り出されるなんて思ってもいなかった私は、まるでデートみたいな花火大会をのん気に楽しんでた・・・。
「違うの、私はただ、心配だっただけで、」
私の言い訳は、ふわりと夏の夜風に運ばれていってしまったみたいにあても無く彷徨った。私の言葉は、何も届かない。
もう、全てが遅かった。
「欲張っちゃダメなんだ。なんだってそんなに簡単じゃないんだから。だからこれからは・・・勝つ事だけ考えて走ろうと思う。オレはもう、負けるわけにはいかない。それ以外の事は、全部・・・全部、捨てる。全部忘れる。多分、欲張ってたり、勝つためにいらないモノは沢山あるんだ・・・登りを楽しむ事とか、坂道くんとのボトルの約束とか、それから・・・。」
そこで、大きな花火がドンッと上がって、山岳の顔が照らされた。−−−その瞳は真っ直ぐに、私を見ている。
・・・そうして、私ともお別れしようってコトか。
胸がザワザワと騒ぎ出したのは、今まさに大好きな彼氏にフラれてしまうという絶望感だけではないと自分でもわかった。
−−−勝利の為にだけ、自転車に乗るなんて。
風を感じて、坂を愛して、笑顔で山を登る。
そしてその先へいちばんにたどり着きたくて夢中で、全身で生きる喜びを感じながらペダルを踏む。
それが、真波山岳・・・あなたなのに。
いつだって本能の声に従って生きてる、それが彼であり、そして彼の最大の魅力だと思う。
だって、多くの人はありのまま生きたくたってそうはいかない事の方が多いから。
なのに、今の山岳はどうだろう。
"勝たなきゃいけない"、"捨てなきゃいけない"、"忘れなきゃいけない"・・・あんなに楽しそうに話してくれた、坂道くんとの思い出まで。
大切なものを全部捨ててまで、罪を背負ってチームを勝たせようとしてる。
・・・本当にそれで、良いのだろうか。
何が正解か、私にだってわからないけど。
もしかしたら大人になるってそういう事なのかもしれないし、アスリートとして上り詰める為に、時にはそんなストイックさも必要なのかもしれない・・・けど。
山岳が話す通りの強さを求めるのなら、もう山岳は、前みたいに楽しそうに自転車に乗って坂を登る事は無くなるんだろうか。
「・・・そんなのって・・・なんか、変だよ。別れる事については、百歩譲ってわかったよ・・・いや、納得はしてないけど。けど山岳にもう気持ちが無いなら、私が引き止めたって仕方がないし。・・・だけど勝つ為の事以外のものを全部捨てるだなんて・・・山岳がそんなふうにロードに乗ってるの見るの、私は彼氏としてじゃなくても、ひとりの選手としてイヤだよ。そんなのって、らしくないもん!坂が好きで、ロードが好きで、ギリギリのレースで生きてるって感じたい・・・それが、あなたが自転車に乗る理由なんじゃないの?私だって、そういう山岳の姿が好きなのに」
「・・・その、"スキ"は。なんの"スキ"、ですか。」
「え?・・・いち選手として。それから、フラれてるクセに言いにくいけど・・・ひとりの男の子として、」
「・・・ッ嘘なんか、つかないでください!!」
淡々と話していた彼が突然、大きな声でそう言った。
真剣な気持ちを頭から否定された私は思わず頭に血が上って、山岳に食ってかかる。
「嘘?嘘ってなによ、私の山岳への気持ちが嘘だとでも思ってるわけ?」
「・・・怒鳴ったりして、すみません。・・・もう、いいじゃないですか。オレたちもう別れるんですから」
・・・やっぱり、何か隠してる。
本当に言いたい事も隠して。
本当の気持ちに蓋をして。
そんなので、強くなったつもりなの?
「・・・あのさ、山岳。もしかして別れる理由って、ソレ以外にもあるんじゃないの?本当の理由は、何?」
「・・・無いですよ、なにも。」
「勝つために、いらないって思った・・・理由はそれだけ。じゃあ、私の事が嫌いになったとかじゃ無いって事?・・・まだ、好きだってことなの?」
−−−暫くの沈黙が流れた。
何も言わないのは、本当は私の事をまだ好きでいてくれるからなのだろうか。だけど勝つためにロードを選んだって事なんだろうか。
それとも、もうこれっぽっちも好きじゃないけど、私を傷つけまいとしてロードのせいにして隠してるのか。
・・・どっちにしたって、悲しい事に変わりはないけれど。
辺りはもう真っ暗で、山岳の表情もわからなくて。
あと一度、夜空に花火が打ち上がってくれたら・・・その光があれば、せめて山岳がいまどんな顔しているのかわかるのに。
でも・・・花火はもう、二度と上がる事は無くて。
どうやらさっきの大きな一発が最後だったようだ。
山岳がどんな顔でいるのかは、わからないまま。
だから多分、私の涙にも気づかれていないだろう。
「・・・わかった。どっちにしたってもう、山岳の答えは変わらないんだね・・・。これからは、ただのマネージャーとして山岳の事サポートする。・・・でも、私の気持ちもそんなすぐには切り替えられないと思う・・・それは、勘弁してね。こんなふうに思われるのは迷惑かもしれないけど・・・私は初めて見たときからずっと山岳の走りが好きだし、山岳の事が好き。山岳の全部が、やっぱり、大好きだから」
山岳は、「・・・ごめん」と、ぽつりと言い残してその場を去っていった。
彼が両手で押して帰ったロードは、さも大切そうに見えた。
・・・そして私をひとり、花火大会の人ごみに取り残して。