- ナノ -

夏のはじまり 3





翌日の朝。

私が教室に着くと、机の上に乗せたカバンの中で携帯電話が光っているのが見えた。
画面をひらくと、差出人は兄からであった。

『話がある。昼休み、食堂来られるか』




前にもこんな事があったよなぁ、デジャブ?なんて思いながら。私は昼休み、食堂に向かった。


「お兄ちゃん、何?話って」


そこには、腕組みをして席に着くお兄ちゃんと、そして尽八さんの姿があった。
強豪自転車部のキャプテンのお兄ちゃんは、やっぱり我が兄ながらオーラがある。
それに加えて副部長の尽八さんも並んでいるものだから尚更だ。・・・女子生徒達の視線が痛いのは、気のせいでは無いはず。
なんで尽八さんまで居るの?疑問に思いながら私は、二人の向かい側の席に腰を下ろした。

「ああ、悪いな。・・・昼飯、食ったか?」
「まだなの、食べても良い?今朝も山岳が朝練無いから一緒に山を走りませんかって、寮まで迎えに来てさぁ・・・信じられる?早朝だよ、早朝。しかも寮まで来る!?おかげでお腹ぺこぺこだよ!」
「・・・そうか」

お兄ちゃんは心なしか嬉しそうに微笑んだ。
兄達も昼食はこれからというので、話は食べながらする事になった。

「フク、来んじゃないか真波のヤツ!」
「え、何?山岳も来るの?」
「ああ。呼んだのだが・・・」

前にこうやってお兄ちゃんに呼び出された時は、山岳の勉強係を頼まれたんだったっけ・・・。
わたしはタコライス定食を口いっぱいに頬張りながら、しみじみ思い出す。
そういえば、あの頃はまだ食欲が無くて、何も食べずに話だけした気がする。

っていうか山岳のやつ、先輩に呼び出されてるのに何で来てないのよ。しかも主将よ、主将!
・・・しかし一体、何の話だろうか。尽八さんもいる、という事はやっぱり自転車部の事?

自転車部の主将に、副主将。それから新レギュラーの山岳と、その彼女である私。
もしかして・・・。話というのは、私たちが付き合ってる事についてだろうか?
今まではお兄ちゃんも交際を黙認してきたけど、山岳がインハイレギュラーともなれば部活に集中するために、関係を終わらせるように言われるんだろうか。
・・・ありえるかもしれない。


「なぁフク、真波の事だ。ヤツはもう来んかもしれんぞ?!先に名前に話をしてはどうだ。要は、大事なのは名前の気持ちなのだろう」
「・・・ああ、そうだな」


お兄ちゃんが改まって、私を真っ直ぐに見据える。

私は心の中で、お兄ちゃんがこれから言うであろう言葉を受け止める覚悟を決めた。尽八さんが言っている事といい、たぶん山岳と別れるようにって話で間違いは無いと確信した。
・・・受け止める覚悟は、できた。でも、別れる覚悟は、さすがに今すぐにはできない。

だけど・・・−−−山岳の夢と。自分の幸せと。
そんなものは、天秤にかけるまでもなかった。
わかってる。答えは、ひとつだ。
・・・でも・・・。


「・・・ごめんなさい。お兄ちゃんは自転車部のために、私を山岳の勉強係にしたのに・・・それなのに私は山岳の事、好きになっちゃって、恋愛なんかして・・・お兄ちゃんにも部にも、迷惑かけて。でも別れるとか、すぐに決められない・・・わがまま言って、ごめんなさい」

話しているうちに、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。うわ、何だこれ。まるで悲劇のヒロイン気取りじゃん、きっと困ってたのはお兄ちゃん達の方なのに。

涙が止まらない私に、お兄ちゃん達が慌てているのが俯いていてもわかった。




「ちょっと・・・福富さん、東堂さん!何してるんですか名前さんに!」

ああ、山岳の声だ・・・と思うが早いかその声の主であろう両手に、後ろからぎゅうっと抱きしめられる。ふわり、と彼独特のお日さまの香りがした−−−間違いない、山岳だ。


「オレの居ない間に、名前さんの事いじめてたんですか。・・・いくら先輩達でも、こんなの許さないよ」
「って、遅れてきたヤツの言う事では無いな!?いや、誤解だ真波!これはたぶん、名前が何か勘違いをして・・・」


・・・勘違い?

私は山岳の腕の中で、ぱちくりと瞬きをする。
山岳が心配そうに私の顔を覗き込む。・・・随分と顔が近い。
けれど私は山岳を引き剥がすのも忘れて、先輩達の次の言葉を待った。


「うむ・・・誤解だ、名前。話というのは、お前の自転車部への入部の事だ」

・・・はい?

「勿体ぶって、誤解を招いてすまなかった。今までお前を手伝いという形で部活に参加させていたが・・・いつまでもこのままというわけにもいかないだろう」

平然と話を続けるお兄ちゃんだったけど、私は自分がとんでもなく恥ずかしい勘違いをしていた羞恥心にじわじわ襲われる。

「オレも副主将として、今日は主将のフクと共に正式な勧誘で来たのだ。名前、おまえもわかっているのだろう?おまえのメニューを取り入れてから、部員達のタイムが見て取れるほどに良くなっている。名前のメニューは効率良く効果的、ムダがなく美しい」

「で、でもっ・・・私はロードの事とか、まだぜんぜん詳しくないし」

私は先ほどの勘違いに消えてしまいたい程恥ずかしく感じながらも、目の前にいる先輩達が真面目な話を続けるものだから何とか会話に参加しなくては、とやっと言葉を返した。


「名前。お前は部に関わり始めてから、本当によく勉強している。もう立派にマネジメントができる位の知識はある、自信を持って良い。・・・お前が作ったメニューで、オレたちはこれからもトレーニングをしていくつもりだ。しかし・・・お前は勝負の場を、その目で見なくて良いのか?お前のメニューで鍛えられた選手の、成果の場を。インターハイの全てのレースを見るには、自転車部の部員でないとまず不可能だ」


お兄ちゃんが、私を認めてくれるなんて。
いつだって自分にも他人にも厳しい、お兄ちゃんが。

「・・・ありがとう・・・。確かに、インターハイは直接見たい。昨日、初めてリアルタイムでレースを追って、尚更思った・・・。でも、やっぱり・・・その、特定の部員と付き合ってるのに。そういうのって、他の部員も嫌だろうし、きっと山岳の迷惑にもなるよ」

「ワッハッハ!それなら、心配は無いぞ〜名前。だからこそフクは昨日、おまえを試したのだ」

「え・・・?」

「正直、真波との事がオレは気になっていた。マネージャーは、全ての部員に公平であるべきだ」

「それを試す為に、フクはおまえをあのワゴンに乗せたのだよ。レギュラーを決めるレース、黒田対真波。もしそれでおまえが私情を優先して真波を応援しようものなら、いくら名前が戦力だろうとマネージャーにはしない、と・・・フクらしい考えではないか。妹なんだから、そんなの関係無く入部させてやったらどうだと新開や荒北は言っていたがな!」

「え〜!名前さん、オレの事応援してくれなかったんですかぁ?」

「昨日のお前を見て、妹であろうが真波と交際をしていようが、マネージャーを任せられると・・・兄としてではない。箱根学園自転車競技部の主将として、判断した。名前、マネージャーになれ。部の一員としてメニューを作って、成果であるインターハイをその目で見ろ。そしてそれを、今年だけでなく来年の勝利にも繋げ」

「真波も名前も部で良い結果を出せるのなら、別れる必要はあるまい。まぁ、真波には彼女がいた方が女子達も目を覚ますだろう、そしてこのオレの魅力に改めて気付く事だろうしな!ワッハッハ!」



これからもずっと、自転車部に関わる事ができる・・・。私の考えたトレーニングのメニューが、夢を追う選手たちの力になる。

良いのだろうか・・・。

お兄ちゃんや尽八さんが、たくさん背中を押してくれる。あの光り輝くスポーツの世界へと、また戻って来て良いんだよと言ってくれている。
そして何より、山岳や部に関わっている内に私はロードレースが、大好きになっていた。


だけどひとつだけ、やっぱり、気掛かりが消えない。山岳の事だ。
彼は先日もマネージャーの話をしていた時、「オレの事だけ見ててほしい」と、だからダメと最後には言っていた。
山岳の意見は、最優先。だって私は彼のお陰で、今ここにいるのだから。

するとお兄ちゃんも、私が山岳の事を気にかけている様子に気がついたようだった。


「名前は、真波の意思も気になるだろう。だから呼んだんだ」
「あー、そうだったんですかぁ。・・・うーん、そうだなぁ」

山岳は後ろから私の頭に自分のアゴを乗せて、少し考えている様子だった。
でもそれも一瞬で、すぐに「うん、決まりだ」と楽しそうに言って、私の頭を優しく撫でた。


「名前さん、マネージャーやりなよ!絶対、向いてるって。オレ、最初から思ってた!」

「えっ・・・でも、いいの?マネージャーになったら、みんなに平等にしなきゃいけないんだよ」

「だって、やりたいんでしょ?見てたらわかるよ、名前さんの事。楽しそうだもんね〜。いい、絶対イイよ!・・・それに、みんなに平等でもオレは大丈夫」

山岳は少し声のトーンを抑えて、耳元で囁くように言った。

「特別扱いは、二人っきりの時に目一杯してもらうから・・・ね?」

そう言って、ちゅ・・・と私の頬にキスを落とした。



・・・食堂にいた女の子達の、悲鳴に近い声が響いた。




「ちょ、ば、バカ山岳!!こ、ここどこだと思ってんの?!こ、こんな人の多い場所で、っていうかお兄ちゃんの前で!」
「え〜、キスまでならして良いって約束ですよね?」
「お、おーい真波ぃ、名前〜。オレ達の事忘れてはおらんか?!フク、見過ごして良いのか、妹と後輩のふしだらな行為を!?」
「・・・・・・入部決定、という事で良いな。名前」



かくして−−−
私は正式に箱学自転車部の、マネージャーになったのだった。





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