<真波山岳 / 長編>
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まだ6月だというのに、真夏のような陽射しがじりじりと照りつけている。今日、山岳との昼食の場所に屋上を選択したのは、もしかしたら間違いだったかもしれない。夏服の袖から晒された腕が、じんわりと火照る。衣替えすらしたばかりだ。油断した私は日焼け止めを塗り忘れて来てしまった。
「名前さーん、もう来てたんですね〜」
待たせちゃいましたか?とアホ毛をぴょこぴょこさせながら現れたのは、先月から付き合いはじめたばかりの私にとって初めての"彼氏"だ。
私たちは比較的日の当たらない場所にふたりで腰を下ろしそれぞれのお弁当を広げる。日陰に入ると、思いの外涼しくて気持ちが良かった。箱学の屋上はお昼休みの人気スポットのひとつだけど、今日は気温のせいか人影もまばらだった。
「名前さん、今日は手作りのお弁当?」
「うん、まぁね」
「わぁ、美味しそう!一口下さいっ!」
「えっ、ちゃんとできてるか自信ないよ」
寮のキッチンスペース借りて作った、簡単なやつだし、なんて私の言い訳を軽く流して、彼はおかずのひとつを摘んでひょいっと口に入れた。
「ん、おいしいです。この唐揚げ」
「それ、ハンバーグ・・・」
「えっ」
「もう!硬くて悪かったわね。苦手なのよ料理・・・って、ちょっと!笑いすぎ!」
お腹を抱えて笑う山岳からお弁当箱を取り上げる。私はイライラする素振りをしながらも、内心はこの時間をすごく楽しく幸せに感じていた。
付き合う前−−−山岳は私と学校でも一緒に過ごしたり、二人でお昼を食べたり、一緒に帰ったりしたいと言った。
あの時は、何を言ってるんだこの子は・・・って、訳がわからなかったけど。でも今、実際にその全てが叶ってみると、それは私にとって想像以上の幸福で、キラキラとした輝きに満ちていた。
山岳といると、世界がまるで変わって見えた。
ひとりの時は、彼に早く会いたくて一分一秒が長く長く思えるのに、一緒に過ごす時間は一瞬のようにも感じた。
それがただお昼を食べているだけ、ただ何の話をするわけでなく通学路を歩くだけ、であってもだ。
付き合うって、恋をするって、こういう事なんだなぁ。
「・・・ちょっと。いつまで笑ってんのよ」
「あははっ・・・ごめんごめん、名前さんにも苦手な事があるんだな〜って思ったら、なんか可愛いなぁって」
「・・・ば、バカにしてっ」
「あ、名前さん照れてる」
「照れてないっ!」
軽く戯れ合うように拳をかざすと、山岳は長い指で私の手を包み込んだ。胸が苦しくなる。手が触れてる、だけなのに。
「そ、そういえば山岳、いよいよ今日だね。インハイメンバーを決めるトーナメントの、決勝」
私は恥ずかしさを誤魔化そうと、むりやり新しい話題を投げかける。
しかし−−−そうなのだ。山岳はなんとインハイメンバーに、あと少しで手が届く所まで来てしまったのだった。
私も去年はソフト部で1年生レギュラーだったけど、全国優勝するような自転車部は層の厚さが比べ物にならない。
私も山岳の走りは何度も見ていて、その凄さは知っているつもりだ。彼の走りは、ロードをよく知らない私から見ても非凡だと分かる。山岳は技術だけでなく集中力に凄まじいものがある。
「ですねぇ。楽しみだな、黒田さんとのレース」
あなた、とんでもない偉業を成し遂げようとしてるんですけど・・・当の本人はそれを知ってか知らずか、大好物のおにぎりを食べながらポケ〜っと空なんか見てる。
山岳の事だ、そんな肩書きみたいなものには興味が無いのかもしれない。
「黒田も相当、気合い入ってたよ」
「あ、名前さん同じクラスなんでしたっけ」
「うん。・・・山岳、がんばってね。お兄ちゃんが見に来て良いって言ってたから、私も行くよ。スタートとゴールくらいしか見れないだろうけど、でもメニュー作りの参考にもなるし」
「えっ、ホント?・・・そっか。うん、見てて。今日は、本気で走るから」
ふと見せた真剣な眼差しに、私の胸はドキンと大きく高鳴った。
「楽しみだなぁ。メンバーに選ばれたら、インターハイで坂道くんにもまた会えるだろうし・・・!」
「え・・・ああ。サカミチくんってあの・・・」
オノダサカミチ、くん。
偶然山で会ったその男の子に、尽八さんに言われて行った「偵察」でまた再会したと聞いたときは、私もビックリしたけど。
あれから山岳は運命だのなんだのと大興奮で、何度も名前を聞かされたから嫌でも覚えてしまった。
それにしても、山岳とサカミチだなんて名前だけでも確かにすごい組み合わせだ。
「サカミチくん、ってサイクルスポーツセンターで会った人だよね。山岳に登りで着いて来たって事は、得意分野が登りの可能性が高いけど・・・でもそれなら、重い上にバランス悪いホイールをつけてたなんて・・・総北って一体どんな練習をしてるわけ?しかも普通の運動靴で漕いでたって・・・ああっ、総北の人に直接聞きたい位メニュー内容が気になるっ・・・」
「あはは!名前さん、トレーニングとかメニューとかの事考えてる時ホント生き生きしてるよね。キラキラしてて、すごい楽しそうだし・・・もう自転車部のマネージャーになっちゃえばいいのに。今、ほとんど毎日部室に来てメニュー作り手伝ってるんでしょ?」
「そうだけど・・・無い無い、マネージャーだけは無いよ。ロード経験者なわけじゃないし、中途半端な私が真剣な皆の中に入ったら、失礼だもん。ソフトがダメだからすぐに転部だなんて、なんかちょっと感じ悪いしさ」
マネージャー。この頃は、考えていないわけじゃなかったけど。
でもやっぱり・・・無い、よね。
トレーニングの事では、ちょっとは役に立てるかもしれないけど。けれど真剣にロードに生きてる兄をずっと近くで見てきた私にとって、それはかなりの勇気と覚悟のいる事で。
今のようなお手伝い程度ならまだしも、マネージャーまで出来る自信は無かった。それに私は、山岳と−−−特定の部員と、すでに付き合っているのだし。
「やればいいのに。オレ、名前さんがずっと見ててくれた方が頑張れる気がする。それに同じ部活だったら、もっと一緒に居られるし」
「・・・マネージャーになったら、山岳だけじゃなくて部員の皆の事ずっと見てる事になるし、皆ともずっと一緒に居ることになるけど・・・」
「わ、そっか。うーん・・・じゃあやっぱりダメだ。オレの事だけ、見ててほしいし」
そう言って山岳は、ぎゅ、と再び私の手を握った。私は、だからマネージャーなんて無理だよと口では冷静なフリをして言ったけど、意識は山岳に触れられてる手にばかり行ってた。
でもその時、校舎のチャイムが響いてお昼休みの終わりを告げる。ああ、もう終わっちゃった・・・。
教室へ行こうか、と彼に告げたけど山岳は握った手を離さないまま、まるでチャイムなんて聞こえなかったみたいに静かに私を見つめる。
「・・・山岳?」
グイ、と繋がれた手を引き寄せられて、彼は自分の名前を呼んだ私の唇を塞いだ。
ふわり、と触れるだけの優しいキスだった。
「ちょ・・・まだ周りに人もいるのに、」
私は慌てて身体を引き離して辺りを見渡してみるも、他の生徒たちはぞろぞろと教室に戻り始めていてこちらに気がついている様子は無かった。
「あはは。じゃ、戻りましょうか。名前さん」
山岳はそう言って優しく笑って、立ち上がった。
あの、お誕生日以来−−−彼は、キス以上の事をしてくる事が無くなった。たとえ二人きりになっても。
それは私が望んだ事なのだし、手が触れただけでいっぱいいっぱいになってる現状を思えばこの位の距離感が今は丁度良いんだって、思ってる。
・・・でも心のどこかで、もっと一緒に居たいし、もっと触れたいと思う事がある。私が今の距離感を申し出たはずなのに、何を言ってるんだろう・・・。
立ち上がった山岳の、真新しい夏服の袖からうっすらと日に焼けた腕が覗く。まだ日焼け知らずの私とは違うその素肌に、彼の夏はもう始まっているのだと感じた。