- ナノ -

その瞳に



 私は先ほどから、何度教室の時計を見上げただろう。再び見上げたソレが刻む時刻は、16時40分。
お兄ちゃんから昼休みに呼び出しを受けた翌日。兄は今日の16時に私の教室で例の一年生の勉強を見てやってくれと言った。確かに言った。一年生にもそう伝えておくから待っていれば来るはずだとも。

一年生だから教室の場所がわからないんじゃないかなとか、日にちや時間を私が間違えたんじゃないかとか、だんだん心配になってきた私はドアから顔を出したり手帳を確認したり、何度繰り返したかわからない。
でも、間違い無い。確かにこの場所、この時間で合ってる。
それにもし校内で迷っているのだとしても、ここまで遅れる事は無いよね?
つまり、これは相手の遅刻だ。
何か、急用とか問題とかがあったとか?
あと5分待ったら、兄に連絡して帰ろう…そう思ったとき、教室のドアがガララと音を立てて開いた。


「すみませーん。遅くなっちゃって」


現れたのは、すらりと背の高い男子生徒だった。すみません、と口では言っているが言葉とは裏腹に、へらへらと頭をかいている。
なにコイツ。
ハイ、第一印象最悪。

「えーと…マナミ、サンガクくん?でいいのかな」
兄から聞いていた名前を、確認のため口に出して尋ねる。珍しい名前だけど、綺麗だな。会うまではそんな風に思ってたけど、まさかこんなヤツだったとは。
「そうでーす。ああ、あなたが福富さんの妹さんですかあ?」
眉を寄せて尋ねる私の様子をさして気にもせず、彼はのんびりと答えた。
「16時からって聞いてたんだけど…何かあったの?授業が長引いたとか?」

あんまり似てないんですね〜、などと能天気に話かけてくる彼に対し、遮るように自分の言葉を重ねる。
一体何なの?遅れたくせにへらへらして。

運動部特有の上下関係が考え方の基盤にある私にとって、先輩を待たせたくせにこんなふざけた態度だなんて信じられない事で。
真波君とてスポーツマンのはず。世間話の前にまず遅れた理由を告げて、きちんと謝るべきじゃないの?
私は、謝ってくれればまだ許してあげようかなと期待半分、そしてすでに失望半分の気持ちで彼の次の言葉を待った。

「あー、いえ、天気が良かったんで、午後は授業出ないで山、登ってました。気持ち良かったなあ。だから時計とか見てなかったんで、すっかり遅くなっちゃって。…ってアレ、先輩?なんか怒ってます?」

・・・は?
私は想像の斜め上を行く返答に、耳を疑った。
申し訳なさそうにする影も無し、むしろ何だかうっとりとした表情で山について語っている。
・・・なるほど。これは、予想以上の問題児だ。

正直、気に入らない。いやむしろめちゃくちゃカンに触る。…けど、そんな事を言っていても何も始まらない。
彼の追試試験で合格点をとらせる。やればいいんでしょ、やれば!
一度した約束を、簡単に投げ出す訳にはいかない。
あんたの為なんかじゃ無いんだからね、とキッと彼を睨みつけるも呑気な顔でアホ毛をぴょこぴょこさせている。
なんか怒ってますか?じゃないっつーの。ああ腹立つ。だけど兄の為に、自転車部の為に、それから私自身の意地とプライドの為に。私は、言ってやりたい事を山ほど飲み込んだ。

「とにかく、来た事だし勉強はじめようか」

教室内の適当な場所の机と椅子を二つ借り、真波君と横に並んで座った。
並ぶと彼は、私が知る他の自転車部の部員たちよりも体の線が細いように見えた。一年生という事は、ついこの間まで中学生だったという事だ。華奢であって当たり前なんだけど、お兄ちゃんが有望株だなんて言うから、泉田のような体格の良い男子を無意識の内に想像していた。

「私の名前は福富名前。2年生。苦手な教科とかはないから、ひととおり教えられると思う。よろしくね」
「はいっ、福富先輩!…あ、この呼び方だと福富さんとかぶっちゃうもんなあ。じゃ、名前さんって、呼びますね。なんかわざわざ、すみませーん。よろしくお願いしまーす」
「ハイハイ、好きなようにどうぞ。…それじゃあ早速だけど、この前の試験の答案持ってきた?真波君の苦手な所、徹底的にやろうか」
「あー、答案…さがしたけど、みつからなくって」
「え…それじゃあどうやって、追試の対策するの?」
「うーん。ていうか、ほとんど鉛筆転がして勘で書いたんですよね、たしか。そんな事より、名前さんって自転車部のマネージャーか何かなんですか?」

勘!?信じらんない。
せっかく入れ直したばかりの気合いが早くもへこたれそうだけど、私はなんとか踏ん張ってカバンからプリントを取り出す。
去年、私が受けたテストの問題用紙だ。こんな事もあろうかと、持って来ておいて良かった。

「…じゃあ、コレ!どのくらいの学力か把握したいから解いてもらおうかな、これ。」
「えー、オレの質問は無視なんですか〜?」
「はいはい、今はまずこっち、さっさとやってね」

さっそく厳しいなあ、なんて言いながら真波君はしぶしぶ問題を解き始めた。




「ねえ、名前さんって自転車部のマネージャーなんですかあ?」

 真波君がプリントと睨めっこを開始してから、およそ2分後。鉛筆をくるくる回しながら話しかけてきた。




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