- ナノ -

福富さんの妹 2




「お兄ちゃん…何?頼みたい事って」

 朝に届いたメールの内容が気になって、午前中は気もそぞろだった。
休み時間になるなり名前は食堂へ向かうと、兄はすでにテーブル席に腰掛け、腕組みの体制で待ち構えていた。強豪自転車部のキャプテンである彼は、我が兄ながらなかなかにオーラがある。ぼんやりと、そんな風に改めて思いながら隣に腰を下ろす。

二人はそれぞれに寮生活なため、兄妹とはいえ顔を合わす機会は多くは無かった。学校で会えば会話もするが、良くも悪くも愚直で、ましてやメールなどほとんどしない寿一から届くなんて。しかも、頼みごとだなんて…一体何だろうか?名前は内心、緊張しながら兄の言葉を待った。

「ああ、悪いな。・・・昼飯、食ったか?」
「ううん。でも、いいよ。食欲そんなに無いし…それより、何の用事なの?」

そう尋ねた妹を、寿一はまじまじと見つめた。…随分と、痩せた。ソフトの選手時代と比べると、筋力が落ちたからだろうか。いや、それだけじゃない…食欲不振と、気持ちの問題も大きいのだろう。
太陽の下で白球を追って笑う、あの頃の妹とは、別人のようだった。胸が痛む。

だからこそ、と意を決して、寿一は口を開いた。


「…うちの部員のな、勉強を見てやってくれないか」

名前にとってそれは、全く予想していなかった申し出だった。名前は大きな瞳をぱちくりと瞬かせて聞いた。

「え、勉強って…なんでまた…」
「”ソイツ”は選手としては有望株だが授業態度に問題があってな…当然、試験の結果も良くない。月末に追試試験があって、それを落とすようならオレは大会にも出すつもりは無い。箱根学園の自転車競技部としては、部活だけできれば良しとは出来ない」
用意されたかの様な言葉を淡々と話す兄を、名前は眉を寄せて見つめた。寿一は構わず言葉を続ける。
「お前には、試験のための勉強だけではなく、今後の為にも基礎からしっかり教えてやってほしいんだ」
「ちょっと、待ってよ。お兄ちゃんの頼みなんて滅多にある事じゃないし、なるべく協力したいけど、私は人に勉強なんて教えた事無いよ?それにそこまで頼むって事は、いち部員じゃなくてレギュラーのメンバーなんでしょ?今のレギュラーに、そんなに勉強できない人いたっけ?」

 新開、荒北、東堂…以前、兄の応援の為に行ったレースで活躍していた選手を頭に浮かべる。彼らが大会に出られない程テストの成績が振るわない、なんて話は聞いた事がなかった。

「いや、一年生だ」

えっ、一年生?
箱根学園自転車競技部の層が厚い事は有名だ。入学したばかりの一年生がレギュラーを争えるはずがない。兄のこの話、何かがおかしい。名前に疑念が浮かび始める。

「一年生って…まだ大会にだって出た事無いんじゃないの?」
「…ヤツの実力は未知数だが、かなりの力を秘めている。オレも試験に関してはできるなら限り関わりたかったが…」


 なんとなくの察しがついた。
これは恐らく、口実なのだ。確かに大切な一年生なのかもしれないけれど、その子の為というより私への配慮なのだろう。
なぜなら、寿一自身にも練習や主将としての仕事があってその”一年生”の勉強に時間を割けないという事はあるだろうが、あれだけ部員がいてたかだか新一年生の成績をフォローするだなんて、違和感しか無い。きっとこれは、抜け殻のようになってしまった私への気分転換か、前を向くきっかけにでもなればとか、そんな所か。
そう気付いた名前は一瞬、腹が立ったが、声を荒げる力もなくただうんざりとした。
名前が部活を辞めてから…寿一は家族として、同じアスリートとして、すごく心配をして色々な提案をしてくれた。自転車部のマネージャーをしないかとか、アルバイトでもしてみたらどうだとか。ありがたいけど、でも何もやる気になれない。全てが面倒くさい。もう、放っておいてほしかった。

「…悪いけど、パス。一年生の勉強なら、私じゃなくたって教えられると思うし…それにこの時期のテストなんて、授業を聞いていればそこそこ点取れるでしょ、自業自得じゃない。…ねぇお兄ちゃん。そんなだらしのない人を、本当にハコガクのレギュラーにするつもり?お兄ちゃんの話、なんだかおかしいよ」
「…アイツは、不思議なヤツなんだ。普段は飄々としているがレースになると、変わる。アイツなら…」

名前が疑いの気持ちで投げかけた言葉に答えた兄の瞳は、真っ直ぐであった。それは、ただの妹のためだけの口実とは思えない程、その”一年生”への期待の込められた言葉が、熱を増していった。

「我が部は今まで、一年生でレギュラーになれる事など無かったが、あいつにはその可能性も・・・」

そこまで言った寿一は、ハッと言葉を止めた。

『強豪チーム』に『入学したて』でいきなり『レギュラーメンバー』。…まるで、去年の名前だ。そう気が付いた寿一は、口をつぐんだ。

「…確かに、名前の言う通りだな。お前は人に教えるのも上手いし、もしできたらと思ったが、唐突に頼んで、すまなかった。他を当たる事にする」

急に話の矛先を変えようとした兄に、名前は苛立ちを覚えた。大方、そんな輝かしい未来に溢れた新入生と私が対峙すれば、私がかえって傷つくかもしれないと気付いたのだろうか。
兄の優しさが、辛かった。

「待って。やっぱり引き受けるよ、その話」

心配してくれているのはわかる。今朝の靖友だってそうだった。ありがたいと思う。優しいと思う。でもその度、自分が惨めで仕方なくなる。
 名前の言葉に、寿一は眉を寄せた。心配そうな兄を安心させるかのように、名前は「私に任せて」ともう一度頷く。後から思えば、半ば意地だったのかもしれない。そして後から思えば、この一言が”彼”との出会いの運命の扉だったのだ。






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