- ナノ -

chat noir




「ヨォ、名前チャンじゃねェの」


昼休み、校舎の中庭。
私は寮に一旦戻り、そして戻って来た所だった。明後日に迫った山岳の追試。その為のプリントを入れたファイルを自室に置き忘れてしまったからだった。
 そうして通った中庭のベンチで、ひとり腰掛けていた靖友さんに呼び止められる。
いつもならば雑談でもしたい所だけど…私の脳裏にひとつの心配事が過ぎる。
 昨日、尽八さんに見られた山岳との勉強会の時の事だ。
 結局わたしは、尽八さんへ説明をしには行かなかった。だって、確かに山岳の言う通りなんて言えば良いかわからないし・・・。
尽八さんの事だ、きっとあの後、自転車部の人たちに言いふらしているのだろう。ああ、考えただけで恥ずかしくて死にそう!

「わ、わたし急いでいるので・・・」
「ンだよ、シカトしてんじゃねーヨ」

靖友さんは、「そンなに忙しいのかよ。勉強会」って…すこし、寂しそうに見えた。靖友さんのそんな表情は珍しかったから私は後ろ髪を引かれながらも、例の話題を振られる前に立ち去ろうとする。
 その時。私達の間を、何かが横切る。私は驚いて、短い声を挙げる。

「オウ、来たかヨ」

靖友さんが慣れた様子で手招きしたその先にいるのは…なんと、かわいい猫ではないか。

「靖友さんと猫・・・?ふふっ、ミスマッチすぎる」
「てンめぇ、聞こえてっぞ!!」

もしかして靖友さん、猫を待ってた?昼休みに?ひとりで?
考えるだけでほのぼのとして、そしてそれをこの強面な男子高校生がしているかと思うと堪え切れず吹き出してしまう。

「何笑ってんノォ。…なぁ名前チャン、真波の勉強はどうよ」

ヒィ、と私は心の中で悲鳴をあげる。きたきた、昨日の事を馬鹿にしてくる気でしょ!?

「よくやるよネェ、あの不思議チャンに勉強教えるなんてよ」

・・・あれ?昨日の事、言って来ないの・・・?
靖友さんが、一向に寄って来る気配の無い猫をチッチッと口を鳴らしながら呼び寄せる様子は、何かを隠しているような雰囲気では無かった。
もしかして尽八さん、言いふらしてない?・・・靖友さんに言ってないだけかもしれないけど、尽八さん意外と口堅いのかな?って、こんな事に言ったら失礼か。でも、なんだか好感度上がるかも。
 そして靖友さん・・・本当に猫、好きだったのか。先輩達のギャップを一度に二つも知ってしまった。

「あぁそーいや名前チャン、チャリ部のマネージャーになるんだっけ?」
「ち、違いますよ!それは山岳が勝手に言っていた事で…」
「サンガクって…あー、真波の事かよ。ンだよ、名前で呼んでんの?仲良くなってんじゃナァイ」
「そんなんじゃないですよ」
「フーン?良いんじゃナァイ。新開のヤローも言ってたけど、確かに最近の名前チャンは元気ンなってっし。変わったよネェ、名前チャン」

変わった…?やっぱり、そうなのかな。だとしたら山岳と引き合わせたお兄ちゃんの思う壺…じゃなかった、思惑通りね。

「それは…お兄ちゃんのおかげです。それから、山岳のせいです」
私の言葉が届いているはずなのに、靖友さんは猫を撫でたままこちらを見ようとはしなかった。だから私はまるでひとりごとのように、自分の心を整理するみたいに、言葉を続ける。
「あの子のこと、靖友さんが”不思議ちゃん”って呼んでるって聞きました。…本当、不思議な人ですよね。風みたいに自由だけど、太陽みたいに心を照らしてくれる。一緒にいたら本当にめまぐるしくって、悩んでるヒマなんか無くなっちゃいました」

靖友さんに撫でられている猫が、ゴロゴロと喉を鳴らす。靖友さんは、優しい顔をしてる。猫になのか、私へなのか、わからないけれど。

「…そうかよ。なんでもいーわ、楽しくやれんならヨ」
「はい。靖友さんも、いつも気にかけてくれてありがとうございます」
気にかけてなんかねぇよ、なんて、いつもみたいに怒鳴られるかと思ったのに、靖友さんは小さく呟いた。
「オレにゃ、引っ張り出してやれなかったなぁ」
「…え?」
「ッセ、猫のことだよ!ーーー追試、明後日だっかあ?ウチの一年坊主、よろしく頼むネェ」

くしゃ、と私の頭を撫でて靖友さんが歩き出す。…靖友さん…。
彼が何を言いたかったのか、全てを汲み取る事はできないけれど。きっと私の事を心配してくれていたんじゃないかな…なんて思うのは、自惚れだろうか。人から人への優しさは表に見えてる事だけが全てじゃないーーー私は昨日の、宮原さんの涙のことも、思い出していた。
私もきっと、色んな人に支えてもらっているんだ。山岳と出会うまでは下ばかり見ていて、気付けずにいた。




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