- ナノ -

彼氏



「ふう、おわりましたあー」
「おつかれさま、今日もすごい集中力だったね。じゃあ採点している間、すこし休んでいて」
「はあーい」

つかれたー、と言って、私の隣で山岳は猫みたいにおおきく伸びをした。なんだか可愛くて、つい顔が綻ぶ。
そういえば…最近の私は、よく笑う。食欲も戻ってきたし、考え方もごく前向きだ。
私はさきほど宮原さんに、「過去は変えられないから」と言った。自分の怪我をいつまでも引きずって、見るもの全て憎んでばかりいた人間の口から出た言葉とは思えない。だけど、まぎれもなく本心だった。
そして私の変化のきっかけは…たぶん、いや間違いなく、真波山岳という男の子がきっかけだ。
彼も、いつも前を向いている。ロードレースが、前進を競う競技だからだろうか。

 思考を巡らせながら、私の右手は赤ペンでくるり、くるりと、丸を描く。…え、すごい…もしかして満点?

「ねぇ名前さん。さっき、委員長と何を話してたの?」

待ち時間に飽きたのか、彼はぼんやりと私の手元を見つめながら尋ねた。採点の手を止めず答える。

「んー…真波って昔はどんなだったかとか、そんな事だよ」
「あ!もう、名前で呼ぶって約束したのに」
「ゴメン、慣れなくて…っていうか、そういえば!名前で呼ぶくらい別に構わないけどさ、アンタ今日のお昼休みの、アレは何よ!?わざわざあんな人混みで言わなくたって良いのに!」
「あはは。注目浴びてましたよねぇ。よかったね名前さん。これでもう、学園公認のオレでマネージャーですよ」
「何よそれぇ!」

眉を寄せて彼を見やると、山岳の美しい瞳と目が合う。吸い込まれそうになる。胸が軋んで、私はどうしてだかふと、宮原さんの顔が浮かぶ。
あの子…泣いていたな。幼馴染だからって、部活を応援しているからって、あんな風になるだろうか?あの時は気付けなかったけど、よく考え方たらあの子…もしかして。

「山岳と宮原さんって、付き合ってるの?」
「え?ううん」
委員長は委員長だから、と山岳は相変わらず独特の返事をする。私はすこし緊張しながら、次の質問へ進む。
「…じゃあ、山岳は宮原さんの事はどう思ってるの?好き、なの?」
「好きですよ」
私はドキリと胸を打った。間髪入れず返答する所も彼らしい。自分で聞いたくせに何も言えなくなってしまった私をよそに、山岳はのんびりと言葉を続ける。
「委員長、好きだよ。オレはロードレースが好き。山が好き。あとおにぎりも。それと同じように好きだよ」
んん?…ちょっと待って。
「ええと…じゃあ、例えば、私のお兄ちゃんは?」
「福富さん?好きだよ」
「靖友さんとか隼人さんは?」
「好きですよ!」

私はガックリと肩を落とす。なあんだ、好きってそういう…。
宮原さんとも、恋人とかそういうのじゃないらしい。この子はやっぱり、まだ子どもなんだ。宮原さんが山岳にどういう感情を抱いているか分からないし、それは私が口を出す事じゃない。だけど山岳は、恋だとか愛だとか、まだ分からないんだろう。

「じゃあ・・・私のことは?」
軽いノリで聞いた。きっと同じように「好き」と言ってくれるんじゃないかと思って。
 だけど真波は先程までと違い即答せず、おおきな瞳をぱちり、と瞬かせた。そして不思議そうに言った。

「…うーん…わかんないや」

え・・・な、何よそれ!

「ちょっと!?何よ、何で私だけわかんないの?他の人の事はすぐに答えたのに!」
「名前さん、手止まってるよ」

プリントを指差して指摘されると、確かに採点の手が止まっていた。ちくしょう、コイツに注意される日が来るとは。

「外、良い天気ですねぇ。ロードに乗りたくなるなぁ」

私がいそいそと採点を再開した横で、山岳は呑気にそう言った。

「じゃあ今日は勉強会を早めに切り上げて、部活へ行く事にしようか?」
「ううん。名前さんと一緒にいたい。大丈夫だよ、ロードは夜とか、乗りたい時に乗ってるから」

一緒にいたい、なんて言われて、私の右手はまた止まってしまう。どういう意味で言ってるんだろう!?さっき、好きか嫌いかも分からないって言ったクセに!

「よ、夜って、そんなの危ないんじゃないの」
「あれ?名前さん、顔赤いですよ」
「う、うるさい!」

そして、やっと終わった採点の結果は、なんと満点だった!
もしかして私ってホントにマネジメントの才能があるんじゃ…!?…いや、違う。すごいのは山岳だ。一緒に過ごして分かってきたけど、彼は集中力がずば抜けてる。こういう天才型は、やろうと思ったら何でもできるのだろう。ただ山岳の場合はロードレース以外の事に全くやる気が無いため、学園生活では「不思議ちゃん」だなんて呼ばれる問題児なのだ。

「おおー。オレ、100点なんて初めてみたかも」
「ちょっとやったくらいで満点なんて…すごいというか、かわい気がないというか…」

 この調子だと恐らく、追試は余裕だろう。追試まではあと3日に迫っている。こうやって一緒に過ごせるのも、あとちょっとなのか…。勉強会が始まった時はどうなる事かと思っていたけど、終わりが近づくのは何だか寂しい。山岳となかなか会えなくなるかもなぁ。マネージャーだかなんだかってフザけた設定はあるけど、どういうつもりで言ってるのかさっぱりだし。

「…名前さん、どうしたの?何か考え事?」
「あっ…ううん、何でもないよ」

そう言ったものの、山岳は私の目をじっと見つめる。硝子のような瞳に、何もかも見透かされてしまいそうだ。
 私が目を逸らすと、彼は小さく笑った気がした。

「…名前さん、オレとの勉強会が終わるのが寂しいんだ?」

 ーーー言い当てられて、心臓が大きく跳ねる。

「お、思ってない、そんなこと」
「あはは、名前さん声裏返ってる。オレ、名前さんについてのテストでも100点とれるかも!」

そう言って笑うと、山岳は私の手をぎゅっと握った。ドキドキする事の連続で頭が着いていかない。山岳は綺麗な顔とはギャップのある男の子らしいがっしりとした手で、私の手を包み込んだまま言葉を続けた。

「じゃあ、試験が終わった後の約束をしましょう。名前さんが寂しくならないように」
「だから、寂しいなんて言ってないでしょ」
「あっ、そうだ。オレが追試に受かったらさ、ご褒美くださいよ」
「はぁ?どこまで図々しいのよあなたは…それに、追試に受かるなんて当たり前でしょ、そのためにやってるんだから」
「えー、厳しいな〜。うーん、じゃあ、オレが追試に合格したら、名前さんにご褒美あげるっていうのはどうかな?」
「そういうのは、ご褒美じゃなくて”お礼”って言うんじゃないの?」
「何がいいかなあ。ご褒美!」
「話きいてる!?」

嬉しそうにあれやこれやと、その”ご褒美”とやらのアイディアを出す山岳。
私は先ほどから繋がれたままの片手に神経が集中して、それどころでは無かった。私だって嫌なら振り払えば良いのに、全く抵抗せずにいる。

放課後に、こんな、教室にふたりっきりで、手を繋いで・・・これじゃ、まるで・・・


ーーーどう考えても、彼氏と彼女でしょそれ! ーーー


ふいに、友人たちの言っていた言葉が頭に浮かんだ。


「ふふ。名前さん、顔がずーっと真っ赤ですよ。どうしたの?」
どうしたの、じゃない!この天然野郎!
「…そうだ。オレ、良いご褒美思いついたー」

彼はにこにこと、お日様みたいな笑顔でそう言った。
私の直感が、彼が何かとんでもない事を言い出すぞと叫んだ。こういう、なんでもないふりして彼は今までも突拍子のない事を言ってきたんだもの。

「…なに?」

私はドキドキしながら次の言葉を待った。嫌なら聞かなければいいのに。わくわくして、彼が何て言うのか、次はどんな世界を見せてくれるのか、もっと知りたいと望んでしまうのだった。




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