- ナノ -

気持ちの正体 3



 オレはどうして急に、名前さんの髪なんて触ったんだろうか。彼女は嫌だったんじゃないだろうか。そう思考の隅で戸惑いながら、問題の続きを解き始める。次々と解き進めると無心になれた。というかそうでもないと、先程の指先で触れた柔らかな感覚でオレの頭はいっぱいになってしまいそうだった。

 気がつけば教室の窓から見える景色はとっぷりと陽が暮れていた。
 今日は山、登らなかったな。なのにどうして、心が窮屈じゃないんだろう。

 今まで、登りたい時に山に登ってきた。いつでも自由に、走りたい瞬間に走りたい道を走った。なのに今日は名前さんと一緒にいたかった。

 勉強をする気になったのだって、レースに出たい事は勿論だったけど、ただ名前さんと一緒に居たいと思ったからだ。
あの笑顔をもっと見てみたくなった。そしてこの、不思議な気持ちの正体を知りたい、もっと感じたい。そのためなら、勉強する事だってちっとも不自由な事では無かった。
なぜ?
わからない。
だからこそ、もっと感じていたい。


「真波、今日はすごい集中力だったね!…わ、もうこんな時間なんだね。そろそろ帰ろうか」

 今日予定した範囲より大幅に進んだ教科書を、名前さんは満足そうに閉じた。髪を撫でた事は、もう気にしていないんだろうか。
オレはちらちらと彼女を横目で見ながら、使っていた机や椅子の整頓を始める。

「でもさ、いくら追試対策っていっても現役の選手がずっと勉強、っていうのも、ちょっと気になるんだよね…新入生がこんなに何日も練習を休むって、どうなの?」

名前さんは、よいしょ、と机を持ち上げながら言った。

「ホラ、練習ってちょっとしないだけでも体力落ちるし、感覚も鈍るじゃん。かと言って、追試まではあと何日かしか無いわけだから、あまりロードに割ける時間は無いんだけど…うーん、どうしたものかなぁ」
「おー。なんだか名前さん、マネージャーらしくなってきたね!」

 どうやら、髪に触った事はさほど気にしてないみたいだ。
そしてオレは、名前さんがオレの事で頭を悩ませている事が、純粋を嬉しい。

「もう、そんなんじゃないっての。でもさぁ、真波も練習についてはそう思わない?お兄ちゃんってちょっと、考え方が極端すぎる時があるよねぇ」

そうブツブツとお兄さんの文句を言う名前さんは、妹らしさが垣間見えた。ふふ、可愛いな。名前さんの色んな表情を、もっと知りたくなる。

「…ちょっと、何ニヤニヤしてんの?アンタの事話してるのよ、わかってる?」
「あはは、ごめんごめん」
「どうしたらいいかなあ。勉強と、練習と…」
「うーん。オレ難しい事はよく分かんないや。マネージャーさんにおまかせしまーす」
「もー、またソレ?確かに私は真波の事を応援したい、って今は思ってるけど。真波の言う”マネージャー”って何なの?」


うーん。何だろう。そう聞かれると、自分でもわかんないや。
だって、名前さんと一緒にいたいって思って、なんとなく言った事だったしなあ。深く考えてなかったけど、この様子だと彼女はどうやら悩んでいるらしい。律儀な所は福富さんに似てるかも。

「オレが名前さんにしてほしいのは…そうですねぇ。なんか、とにかく一緒に居たいんですよ。こうやって勉強会したあとは一緒に帰りたいし…あ!できれば今度から、学校でも一緒にいようよ。お昼食べたりさ、お昼寝したりさ。オレ、とっておきの場所知ってるから教えたげるよ」
「はぁ?…何よそれ…私の思い描いてた”マネージャー”と、全然違うんだけど!」 
「あぁ、あともうひとつ!」
「…一緒に山に登る、とか言うんじゃないでしょうね」
「おおー!いいですねえ、それも加えておいてください」
「ゲッ、まずい事言っちゃった」
「あはは。…もうひとつはね、オレの事、下の名前で呼んでよ」

そう言って、真っ直ぐに彼女を見る。射抜かれたみたいに硬直した後、じんわりと白い頬を染めて、目を逸らした。またひとつ新しい彼女の表情をみつけた。
 だって、嫌だったんだ。3年の先輩だけ名前さんに名前で呼ばれて、ずるいじゃないか。
 オレはもっともっと、彼女に近づいてみたい。

 





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