手嶋くんが好きだと告白してくれたのは、高校1年生の秋。クラスメイト達とカラオケに行った帰り道だった。
隣を歩いていた手嶋くんが突然、私の手を引いた。
話がある、大事な話なんだ、と教室の中じゃ見た事のないような真剣な顔で言われて、二人でこっそり抜け出した。
友だちだった頃から、手嶋くんは明るくて、よく気のつく人だなって思ってた。
付き合ってみてわかったけど、手嶋くんは知れば知るほど素敵な男の子だった。
ホント、私なんかにはもったいないくらい。
彼は私の事を、いつも丁寧に扱ってくれる。
私のどんな小さな変化にも気付いてくれる。
前髪を数ミリ整えただけでも「いいじゃん、可愛い」って必ず褒めてくれた。
月の記念日には、何年付き合っても必ずメールをくれた。
私はもう手嶋くんの気持ちなんて手にとるようにわかるのに、それでも、会うと必ず「好きだよ」と言ってくれた。
身体を重ねる時は、いつも紳士的で優しくて、自分よりも私が良くなるようにと言葉もテクニックもふんだんにつかって、彼の全てで愛してくれた。
だけど時々、欲に任せて荒々しく抱く夜がある。
どんな手嶋くんも、すきだった。
果ててしまう時の顔を見るたび、愛しさで胸がいっぱいになった。
こんな柔らかな日々を失うのは、怖かったのだ。
「−−−なぁ。結婚しようか」
居酒屋から私の家までのこの道は、青春時代の通学路でもあった。
この道を私達は、今日と同じように手を繋いで、数え切れないくらい歩いた。
手嶋くんの手のひらの温度も、手の握り方も、笑った顔も、いま何を考えているかさえ、私はぜんぶ知っているはずだった。
だけど手嶋くんが言ったその言葉は、私が全く予想もしていなかった事だった。
歩いていた足を止めて、彼の方を見る。
真剣な顔だった。
まるで、高校生だったあの日、私に告白してくれた時みたいに。
だけど今、目の前にいるのは、大人になった手嶋くんだ。
告白の言葉も、「付き合ってほしい」ではない、「結婚しようか」だった。
「・・・名前のこと、いちばん好きだから。これからもずっと、変わらないから。・・・だから、結婚しよう」
「え・・・ど、どうしたの急に?・・・だって今までそんな話、一度も・・・」
「聞けなかったんだ、ごめんな。オレはそうだけど、名前はどうかなって・・・情けねェけど、こわくて、ずっと聞けずにいたんだ。もしダメだったら、って−−−お前の事失うのが、怖かった」
「嘘・・・、手嶋くんも同じ気持ちだったの?」
「−−−ソレ、その呼び方。いつまで苗字呼びだよ?そーゆーのにもオレ、ビミョーに距離感じてたっつーの」
なんでも知った気になっていた。
だけど、知らなかった。
名前で呼んでほしいだなんて思ってた事も。
彼も私と同じように、この柔らかな日々を永遠のものにしたいと、望んでいたということも。
「なぁ。名前で呼んでくんねぇ?・・・結婚したらお前も、『手嶋名前』になるんだし、さ」
ちっとクセェか今のは、とすこし照れ臭そうに頬をかきながら手嶋くんは眉を下げて笑った。
「純太・・・、くん」
そう呼んだとき、しあわせが胸いっぱいに広がった。
そして気付いた。
本当はずっと、望んでいたのだという事・・・
だけど傷つくのが怖くて、逃げていたこと。
「私も、純太くんとこれからもずっと一緒にいたい」
「多分、結婚しても何も変わんねぇぜ?今までみたいなフツーの日々が、ずーっと続くんだぜ?」
「・・・それが、いいから」
涙で滲んだ視界の向こうで、彼が言葉を詰まらせているのがわかった。
いつもは饒舌な手嶋くんが、言葉にできない気持ちの代わりに、私の身体を抱き寄せた。
そしてまるでファーストキスみたいに優しく、口付けをくれた。
今までに何度も、何度も、唇を重ねてきたはずだった。もうこの先、新しい事なんて無いと思ってた。
だけれど私はその口付けに初めてのときめきを感じて、ゆっくりと、目を閉じた。
思えば彼に、もらってばかりで9年を過ごした。
告白の瞬間から、そして、今も−−−
目に見えるものも、目には見えないものも、たくさんのものをもらってきた。
だけどこれから私は返してゆける。
この先の長い人生をかけて。
結婚をどこか、ゴールのように思っていた。
だけれど本当はスタートだったのだと、その先に待つもっと幸福な未来で、私達は知るのだった。