- ナノ -

別人 4



真波は慌てた様子で、もう少し行った先にベンチがあるからそこで休みましょう、と言った。
走り慣れた道なのだろう。彼の言う通り、程なくして急勾配の途中にちょっとした休憩スペースというのか、小さなベンチが現れた。
横に自転車を止め、ふたりで並んで腰掛けた。
視界には、箱根の山脈が悠々と広がっている。頂上まではまだまだ距離はあるようだけど、それでもかなりの高さまで登って来たみたいだ。

「名前さん、大丈夫?ひょっとして怪我したとこ、また痛くなっちゃった・・・?」

それとも、疲れちゃった?平気?と、真波はオロオロと私にスポーツドリンクを手渡してくれた。
つい先ほどまで、あんなに凛とした表情で自転車を漕いでいたのに。まるで同一人物とは思えない。私はつい、噴き出してしまう。

「ふっ・・・あはは。飲み物、ありがとう」
「ええっ、今度は笑ってる!?名前さんって、わけわかんない」
「わけわかんないって、真波には一番言われたくない」

えー、と言って頬を膨らませる彼はやっぱり、先ほどとは別人みたいだ。まだ心配なようで、「大丈夫?」と聞いてくれた。

「急に泣いたりして、びっくりさせて、ごめん。怪我が痛むとか、そういうのじゃないよ。なんだろうね…感動したんだよ、きっと」

その理由を、自分の中でも確認するかのように。気持ちを噛み砕くように、ひとつひとつ言葉にしていく。

「真波の走りを見て…本当にすごいなって思った!それから、昨日は酷い事言って、ごめんなさい。ただの嫉妬だから、気にしないで…これからもいっぱい好きな事ができる真波を見てたら、妬ましくて、たまらなくなっただけなの。でも−−−真波の走ってる姿みたら。そんな気持ち、どっかに飛んでっちゃった!私も真波に追いつきたくなった…何かに夢中になったのは、本当に久しぶりだったなあ。真波の走り、本当にすごいね。楽しそうだった。綺麗で、かっこよくて、感動した」

感動した時、人は素直になれるという。私もなぜだか、自分でもビックリするくらい素直になれた。
一方的に感想を述べられた真波も、まさかそんな理由で泣いたとは思わなかったのだろうか。大きく目を見開いたあと、視線を山の景色に移したままこちらを見ようとしない。私、興奮して自分の事を話しすぎちゃったかな?真波、もしや引いたかなあ。

その時、ふわり、と春の心地よい風が吹いた。
風になびいた彼の髪から、耳が覗く。・・・赤くなっている−−−それは、気温のせいだろうか、山道を走ったせいだろうか。

私も春風に身体の火照りを落ち着かせてもらいながら、改めて思っていた。
この子はやっぱり、自転車に乗るべきなのだと。
彼自身のために。チームのために。そして、周りの人の為に。だって彼の走りは、こんなに人を感動させるのだから。

もったいないよ、真波。もっともっと、自転車に乗って欲しい。私は今、真っ直ぐにそう思う。
そしてその為にやっぱり、追試試験に合格させてあげたいとも思えた。

真波はきっと、今この瞬間走れればそれで良いと思っているんだろう。
そしてそれは怠慢でも怠惰でもなく、ただそれ以外の事に興味が無いだけなのだと私は知った。

でも今、走る事以外にやらなくてはならない事が、彼の目の前にはある。そして私は、そのサポートができる立場にいる。

はじめは、ただの意地と勢いで引き受けた。面倒な事を引き受けてしまったなって思った。
でも今私の心に湧き上がるじんわりとした熱い感情は、何だか誇らしさにも似ている。

「…名前さんって、ホントわけわかんないよ」

顔を反対側に向けたまま、真波がぽつりと呟いた。すこしムッとして、なによと言い返してみたが彼はそのまま言葉を続けた。

「オレ、本気で走ってたわけじゃないけど…女の子が追いついてくるなんて、すごすぎ。スタートした時、あんなフラフラだったのに」
「ほ、ほっといてよ」

っていうか、追いつくと思ってなかったなら何で一緒に走ろうとか誘ったのよ。…彼の事だから恐らく深く考えていないんだろうけど…。

「さっきまであんなプンスカしてたくせにさあ。急に泣き出したり、笑ったり、ほめてくれたり。ほんと、わけわかんないけど、なんていうかオレ…」

そこまで言うと、真波は急に立ち上がった。
そして、私の手をとる。デジャヴだ。ほんの1時間前、私は全く同じ状況で彼に手をとられそして山に連れ去られた。

 今度は何!?と身構える私に、真波はえらく真剣な瞳で私を見つめている。あれれ、心臓がうるさい。反則だ。あんな走りを見せられた直後に、しかもこんなに綺麗な顔をした男の子に(顔だけは、ね!!)、至近距離で見つめられて。認めたくないけど、私は大いにときめいてしまっている。っていうかむしろ、この状況でドキドキしない女子なんて、いないんじゃないのか。

「名前さん。もしよかったらオレの…」

ごくり。無意識に唾を飲み喉が鳴る。
ま、まさかこれって、告白・・・?





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