- ナノ -

新開悠人 4




「新開クン、お昼ごはん一緒に食べない?」



昼休みになるや否や、オレの机をクラスの女の子達数人がぐるりと囲んだ。色とりどりのランチバッグを持って、はにかんだ笑顔を浮かべてる。

「...ゴメン。行くとこあるから」
「え〜っ。お兄さんのコトとか、聞きたかったのに」

...やっぱり、目当てはソレかよ。


この辺りが地元なら、ハコガクの自転車部の事は老若男女問わず知ってる。ここの生徒じゃなくたって、インハイなんかの大きな大会になれば皆が期待して応援する。
つまり箱根学園の自転車部、といえばここいらじゃそれだけで羨望の目で見られるし、レギュラーメンバーともなればもはやちょっとした地元の有名人だ。
・・・ましてや、オレの兄貴は去年のエーススプリンター。ヒーローみたいに思う人もいるんだろう。
オレは、その"弟"・・・それ以上でも以下でも無い。

心の中で舌打ちする。

こんなのは、中学の時からずっとだ。
そしてこれからも、一生ついて回るのだろう。


廊下を進む。癇に障って勢いで教室を出てきちゃったから、弁当はカバンの中だ。昼飯、どーすっかな...学食に行ったって多分、教室以上に人目に触れるだけだし。
廊下の先に、図書室があるのが見えた。
...そういえば隼人くんが、ハコガクの図書室には意外と面白い本があるって言ってたっけ。オレは隼人くんみたいに推理小説はそこまで好まないけど、ついでだし寄ってみるか?
寄り道して時間を稼げば、人混みも多少は引くだろう。適当に時間をツブしてから、購買でも行って何か買えばいいか。




図書室の中へ入ると、そこは意外に広さがあった。へぇ、サスガは私立じゃん。
扉の向こう側の喧騒とは、まるで別世界みたいな静けさの中で、無数の本たちがジッと息を潜めていた。

入ってすぐの所には受付カウンターがあって、図書委員と思わしき女子二人組が仲良く並んで本を読んでいる。夢中になってるみたいで、オレには目もくれなくて・・・正直すこし、ホッとする。
彼女達が手にしているのは、随分と綺麗な表紙の本だった。ふぅん、隼人くんの言った通り、ここには結構面白い本があるのかもな。



図書館の中を進む。本に囲まれた室内には幾つかテーブルがあって、ぽつりぽつりと生徒の姿があった。読書をする人や、居眠りをしている男子、何か書き物をしている女子のグループ・・・


・・・その中に、ひときわ目を惹く人がいた。


椅子に座る体幹が真っ直ぐな姿勢はきっと、スポーツをやっていたからなんだろう。
分厚い図鑑のような本に視線を落とすその人に目が奪われたのは、彼女の容姿のせいだろうか。・・・それとも−−−オレの、片想いの相手だからだろうか。


・・・福富名前先輩。


−−−その人と初めて会ったのは、オレがまだ小学生の時だった。いや正確には、会ったというより「見た」というだけだ。
兄貴の口利きで中学校の練習に参加していたオレが、隼人くんと一緒に校内を歩いてた時。窓から見えるグラウンドを指差して、隼人くんが「アレ、寿一の妹だぜ」って教えくれた。視線の先には、キャッチボールをする女子のソフトボール部。
十数人いる同じユニフォーム姿の女子達の中でだって、ああこの人がこの中で一番上手いんだ、ってオレにでもわかった。
動作が一人だけ抜きん出て滑らかだったし、それに誰より楽しそうで・・・その人の周りだけ、キラキラ輝いて見えたから。
今思えばどうして、彼女はあんなに楽しそうだったんだろう?ただの、キャッチボールじゃないか。


その次に会ったのは、オレが中学校に入学した後だった。

学校の廊下でたまたまその人を見つけたオレは、「オレ、隼人くんの弟なんです」って声をかけた。
挨拶くらいしなきゃな、なんて大人ぶって。
ほんとはただ、話がしてみたかっただけなのに。

「へぇ、そうなんだ。名前は?」

陽に焼けた手を差し出して、その人はさっぱりと笑った。子どもだったオレは、それが握手を求めてるジェスチャーなんだとすぐには気付けなかった。

「ゆうとです。新開悠人」
慌てて差し出したオレの手を、彼女はさわやかに握った。
「そっか。よろしく、ユウト。私は名前。お互いにお兄ちゃんがスゴイ人だから、私達も負けないように頑張ろうね」

照れた様子も何もなく、きっぱりと身内を誇る彼女の姿は大人に思えた。
年上の女の人の手に触れたってのに、オレはドキドキするっていうよりも、胸が熱くなって不思議と勇気が湧いた。交わした会話はその、たった一言だけ・・・でも、ずっと、忘れられなかった。

悠人って呼んでくれた事。"隼人くんの弟"ではなく、ひとりの人間として接してくれた事。−−−どれだけ、嬉しかったか。


オレはあの頃丁度、隼人くんの"弟"という立場に居心地の悪さを感じ始めていた時期だった。そのせいもあってか彼女に、オレは自分の未来を重ねたのかもしれない。
福富さんて凄い兄貴がいるのに、それに媚びたり、あるいは卑屈になるそぶりもなく、堂々とした彼女の姿に。
・・・オレも、頑張ろうと思った。願いに似た気持ちだった。

きっと、これが恋をするって事なんだって、思い込んだ。

だからまたハコガクで会えるのを、楽しみにしてた。



・・・まさか、忘れられてるだなんて。
『隼人さんの、弟クン?はじめまして』
−−−つい先日、部室の前でそう声を掛けられたのを思い出して、オレは苦虫を噛み潰したように顔を歪める。・・・なにが、はじめまして、だよ、
なにが、弟クンだよ−−−





オレはゆっくりと、名前先輩の背後に近づいた。
本の内容に集中してるのか、彼女は全く気付く様子が無い。
椅子の真後ろに立つと、肩の線がすごく細くて、セーラー服の白い襟に重なる髪がつやつやと光って、思わずハッと目が奪われる。
...そういや同じ自転車部の新入生が、綺麗だの大人だのって、浮き足立ってたっけ。

・・・まぁよく考えたら、彼女と今までにちゃんと会話をしたのは、あの一度きりだった。名前先輩が忘れてたって、無理も無いとは思う。
オレは一方的に意識してたし、それにこの人は目立つ存在だったから・・・勝手に知り合いみたいな気持ちになってたってだけだ。


そうだ、無理も無いんだ。...わかってるさ。
だからオレがあんなにイラついたのは、単に忘れられてたショックってだけじゃない。

片思いが一人歩きしていたせいか、久しぶりに会った彼女の雰囲気がまるで変わってしまっていた事が・・・すごく、嫌だった。
だからあの日アンタに、福富さんのコネだろうとか、そこで彼氏までつくってとか、ヒドい事ばかり言った。
それが一番傷つく言葉なんだって分かるオレだからこそ、あえて言ってやったんだ。

今のアンタ、一体何だよ?
ほわほわしちゃってさ。
中学の頃のあなたは・・・キリッとしてて、ギラついてて、あんなにかっこよかったのに。
ソフトボール辞めて、マネージャーなんてやってるから?
アンタが、そんなに弱いと思わなかった。オレとおんなじで、兄貴に負けないように立ち向かってるヒトだと思ってた。
結局、壁にぶち当たったら身内に媚びて陰に隠れるような・・・その程度のヤツだったって事か・・・?




図書室特有のノスタルジーある香りの中で、伏し目がちに本を読みふける姿は確かに、新入生達が舞い上がるのも頷ける。だけど・・・こんなシチュエーションが似合うようになってしまった今のあなたには、日焼けした手でオレに握手をしてくれた勇壮な面影は、もう、無い。




名前先輩は机の上の本から顔を上げ、ペンケースから取り出したシャーペンで、本の横に並べていたノートにさらさらと何かを書き始めた。

"クロツグミ"

そう、整った字体で綴った。


「クロツグミ・・・て、野鳥の名前の、ですか?」
オレは気が付いたら思わず、そんなふうに声をかけてしまっていた。
"今の"この人なんか、好きじゃないけど。だからといって長年の片想いも、そう簡単に諦められない。同じ学校に通えてるなんて、正直、夢みたいだ。

名前先輩は背後から突然声がしたものだから、椅子からひっくり返りそうになる位驚いてる。あまりの反応の良さに、オレも思わず口元が緩む。


「んなっ!?・・・え、新開弟・・・」
「ちょっと。オレには、ユートって名前があるんすけど」
「・・・散々失礼な態度とっておいて、よくもまぁそんな偉そうに・・・。私、先輩なんですけど。権利を主張する前に、義務を果たせっての」
「・・・呼んで欲しいんですよ。あなたには」

オレの言葉の意味が通じなかったみたいで、名前先輩は「はぁ?」って言って眉をしかめた。
ああやっぱり、この人マジでオレの事覚えて無いんだな。・・・ったく、失礼なのはドッチだっつの。


「・・・クロツグミが、どうかしたんですか。自転車部の次は、野鳥倶楽部にでも転部するつもりですか?」
「いちいちカンに触るわね、アンタは・・・。違うよ。・・・名前を調べて、教えてあげようと思っただけ」
「誰にですか?」
間髪入れずに聞くと、どうしてだか名前先輩の白い頬がふわりと紅くなった。泳いだ視線はそのまま、机の上の本を眺める。
どうやらその本は野鳥の名前や特徴が載っている、図鑑のようなものらしかった。

「この前、いっしょに鳴き声を聞いて・・・すごく、綺麗な声だったから。なんとなく名前が気になっちゃって・・・調べて、教えてあげようかなって」

誰に?なんて聞かなくたって、その顔を見ればわかってしまった。

「・・・普通、箱根に観光に来る人って、こういう図鑑とか片手に来る人もいる位でしょ?それなのにさぁ・・・山や自然にすごく詳しいクセに、名前なんかは全然知らないんだもん。ほんと変なの、アイツって」

でも、山岳らしいよね。そう言って名前先輩は、夢でも見てるみたいに瞳を輝かせて嬉しそうに笑った。その表情は、恋する乙女そのもので−−−強かった貴方も、格好良かった貴方も、もうどこにいなくて。さみしくて、たまらなくなる。二年も待って、追いかけてきたのに・・・。


どこに行っちゃったんだろう、オレの好きだった人は・・・もしかしたら幼かったオレが一人で舞い上がって、思い出を美化してただけなのか?
・・・いや、違う。
居たはずなんだ、確かに。
変わってしまったって、それだけなんだ。

新入生や外野連中が、名前先輩を綺麗だ大人だと言う。−−−だけど、アンタ達は知らない・・・ホントのあの人は、もっと綺麗で、もっともっと魅力的だって事。


貴方を変えたのは、何が原因なんだろう。
怪我のせい?
自転車部に入ったせい?
−−−それとも。真波さん・・・あの人と居るせい?




「・・・名前もわかった事だし、私はそろそろ教室に戻るよ。悠人はどうするの?」
立ち上がった名前さんが不意に、オレの名前を呼んでくれた。...多分、何の気なしに呼んだんだろう。それだってオレ、嬉しくてたまらない。

ニヤけそうになる唇をぎゅっと結んで、彼女を見つめる。
何も言わないオレを不思議そうに見つめた名前先輩の表情が上目遣いなのは、身長差のせいだ。・・・ああ、いつの間にかオレ、この人の背を超えたんだな。

悠人、と呼んでくれた彼女の唇を、確かめるように見つめる。
つやつやとしていて実り始めた果実のようにほんのりと赤みが差してる。
・・・真波さんとキスしたりするのかな、この唇で。
どんな顔になるの、そのときのアンタは。
・・・なんで、真波さんなんですか。

ロードの実力はスゲェらしーけど、性格はド天然で不思議チャンだなんて呼ばれてる・・・名前先輩が変わっちゃったのはきっと、あの人の影響なのかも。

もし・・・もしも、オレといたなら・・・?

−−−そう思って、ハッとする。
そうだ・・・
変わってしまっただけなら。
きっと元に戻す事だって、簡単にできるんじゃないか?


「・・・クロツグミのさえずりを聞いた、てさっき言ってましたね?」
オレは自慢の素早さで彼女の間合いに入り、至近距離で見つめる。右手で頬を撫で、指でそっと唇に触れる。
「なっ・・・・え、ちょ」
一瞬の出来事に困惑する名前先輩。お構いなしに、オレは不敵に微笑む。





「あの特徴的なさえずりは・・・求愛なんですよ。・・・より愛してて、それをうまく伝えられた方が、勝つって事です」





アンタの背中を見て走って来た。
だけどこれからはオレの力で、アンタをまた走り出させてみせる。

オレはもう、ガキじゃない。欲しいものは自分の力で、奪い取れるんだ。







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