「・・・へぇー、そんなことが。」
私の話を聞き終えた山岳は、のんびりとそう言った。
・・・今日みたいに腹の立つ事があった日はとくに、この柔らかな雰囲気には心底救われる。
穏やかだな、山岳は。・・・アイツと違って!
「最初は私も、残念っていうか・・・隼人さんの弟くんにそんな事言われたの、ショックだったの。でもさぁ、だんだん腹が立ってきたわけ!何、アイツ?人の話も聞かないでさぁ!」
「うーん。ユートって、名前さんの事が好きなのかなぁ?」
「・・・はぁ?・・・もー。私の話、ちゃんと聞いてた?」
「ちゃんと聞いてたから、そう思ったんだよ。」
何言ってんのよ。・・・これだから天然は。
「・・・にしてもさ、あの生意気ぶりはどーかと思うわ。隼人さんの弟だからって、二年や三年が変な気を遣ってるからだよ、新入生にロッカーまであげてさぁ!お兄ちゃんが守って来た自転車部の風紀が乱れるじゃないッ」
「わー・・・怒ってますねえ〜、ずいぶんと。」
「山岳っ、アンタだって先輩なんだからビシッと注意してよね!ポジションも一緒なんだし」
「んー、そうですねぇ。じゃ、びしーっと言いますよ。黒田さんあたりが」
「もうっ、なにそれ?!・・・ったく。ウチのクライマーって、生意気な奴ばっか!」
「え、誰の事言ってるの・・・?あぁ、東堂さんの事?」
おまえの事だよ!
キッと睨みつけると、山岳は「まあまあ」と言って、繋いでいた片手を一度離した。そしてそのまま、私の頬を包み込むように優しく撫でた。
「そんなにプンスカしないでよ。せっかくの可愛い顔が、台無しじゃない。」
山岳の手は、一見すらりとして女の子みたいに綺麗だけど、こうして触れると少し骨張っていて・・・男の人の手だという感じがする。
・・・そんな事は多分、触れてもらえる私しか知らないんだ・・・そう思ったら、胸がギュッと締め付けられた。
「オレ、ユートの気持ちわかるなぁ」
ふわふわ、私の頬の感触を愉しむように撫でながら言う。
「何が?置き勉する気持ち?」
「もー、違うよ。なんていうか・・・だから、ちょっと心配。名前さんて、可愛いからさ。それに、年下が好きでしょ?」
・・・何の話かと思ったら。新開弟が私のコト好きだとかって山岳のさっきの発言、マジだったわけ?
私の話の、どこをどう聞いたらそう思えんのよ・・・
「ご心配なく、アイツは私の事なんて全ッ然好きじゃないだろうから。それに私だって、べつに年下が好きってわけじゃないし」
「えー?でも、オレの事を好きじゃない。」
「それは・・・アンタが年下だからってわけじゃなくて、」
「・・・うん?」
山岳は頬から手を離して、再び私の手をぎゅっと握った。口元を緩ませながら、私の次の言葉を待ってる。
心配だなんて言ってたくせに、その澄んだ瞳は余裕と期待で溢れていた。
「だから、その・・・年下が好きなんじゃなくて・・・山岳だから・・・」
「うん。オレだから?」
「っ・・・・・あー、もうっ。とにかく、新開弟ほんとムカつく!!」
「ふふ。ちぇー、あと少しだったのにな。」
そう言って、からからと楽しそうに笑った。
ちくしょう、完全にもてあそばれてる・・・。
「・・・ねぇ、名前さん。オレもさ、年上だからってキミが好きなんじゃないよ。キミだから、好きなんだ。・・・元気出してよ、誰が何を言ったって、オレはちゃんとわかってる。キミはすごく悩んで、勇気を出して自転車部に入ったって事・・・福富さんて、妹だからってキミに甘くなんかしなかったしね。それから、入った後もずっと頑張ってるの、オレがいちばん知ってる。ロードの事をすごく好きになってくれたのも知ってる。・・・たぶんオレだけじゃないよ、今は皆が認めてる。だから新入生も・・・ユートも、一緒に部活してたらきっとわかる日が来るよ」
山岳は優しく、でもキッパリと言い切った。
頑張ってるとかロードが好きとかって山岳は言ってくれたけど・・・私からしたら山岳には何ひとつ敵わない。
山岳・・・私だって、知ってるよ。
あなたがどれだけ、ロードレースが好きなのか。坂が好きで、自然を愛してて、全てを懸けて自転車に乗っているのか。
・・・そして、去年のインハイが終わってから・・・その純粋な喜びだけじゃなくあなたが今、使命と責任も胸にロードに乗っている事も。
山岳の雰囲気が去年までの朗らかな感じから変わって凛々しくなったのは、たぶん身体つきだけじゃなくそういった理由もあるような気がする。
だから・・・山岳にそう言ってもらえた事は、純粋に、嬉しかった。
誰かに認めてもらう為だけにマネージャーをしてるわけじゃないけど・・・彼は私の恋人であり、そして尊敬する一人の選手だから。あなたに認めてもらえるなら、世界中の人に悪く言われたって胸を張って生きていけるような気がした。
「・・・ありがと。私も、山岳が好き。・・・山岳だから、好き」
「えへへ、オレも。大好きですよ、名前さん。」
話しながら歩いているうちに、私の暮らす寮に着いてしまった。
・・・離れたくないな。
明日も会えるっていうのに、いつもいつもそう思ってしまう。
私はいつか、箱根学園を先に卒業するのに・・・今からこんなことで寂しがってて、どうするのよ。
「じゃあね、山岳。送ってくれてありがとう」
「うん!名前さん、おやすみなさい。」
押し歩いていたロードバイクにまたがった山岳の背中を見送り、寮の中へ入ろうとした時。
数メートル程進んだ彼が、くるりとこちらへ進路を変え戻って来た。
え、どうしたの?
立ち止まる私の前に山岳はロードを停車させ、片足だけ地面に着いた。
そして少しだけ屈んで、ロードバイクに跨ったまま・・・ちゅ、と優しくキスをした。
「んっ・・・。・・・さ、さんがく?」
「・・・キス、してなかったなぁって思って。」
「え?・・・も、も〜っ・・・いっつもしてるじゃん」
「えー。今日は、まだでしょ?」
じゃ、今度こそおやすみ。
そう言って彼はもう一度ロードバイクで、春の夜風の中を走り出していく。
・・・ばーか。
眠れなくなるっての・・・。