- ナノ -

新開悠人 2

<真波山岳 / 番外編>



−−−その日のお昼休み。

午後からの体育の授業で使う運動靴を部室に置き忘れた私は、昼食後に一人で取りに向かっていた。
泉田から借りた鍵を持って自転車部の部室やトレーニングルームが建ち並ぶ敷地に着くと、そこにひとつの人影を見つける。

窓から建物の中を伺うように覗き込むその男子生徒は、身長はあるけど身体の線はまだ細い。下級生かな・・・誰だろう?

夜の底みたいな黒髪。近付いて肩を叩くと、ビクリと身体を揺らして振り返った。
すこし見開かれたタレ目がちな瞳。−−−大好きな先輩と一瞬、重なる。

ああ、もしかしてこの子が・・・!



「隼人さんの弟クン・・・?」



私の言葉に、彼はどうしてだか眉をひそめた。
似てるってさっきは思ったけど、おだやかな隼人さんとは随分印象が違って見える。寂しげな夕陽のような、瞳の色のせいだろうか。


「初めまして、弟クン!ずっと話してみたかったんだ。私、自転車競技部のマネージャーで、」
「・・・マネージャーなら。新入部員の名前くらい覚えらんないんすか?オレの名前は、"弟クン"なんかじゃないんだけど。」


−−−え?


「・・・ま、いいけど。オレだって、アンタの事なんて・・・マネージャーが居たことなんて、覚えてなかったし。あぁ、マネージャーなら部室の鍵持ってます?開けてもらえないですかね。中に教科書、忘れちゃいまして」
「え・・・あ、ああ・・・持ってるけど。・・・わかった、開けるね」


私が扉を開けると、彼はお礼も言わずにすたすたと中へ入って行った。
ええー・・・
た、態度悪っ・・・


呆気にとられる私をよそに、弟クンはロッカーを開けた。その中には、教科書やノートが何冊も入れられている。

・・・ん?待てよ。
なんで新入生のこの子が、自分のロッカーを持ってるんだ?

箱根学園自転車競技部の部員数は、五十名以上を誇る。
昨年のインターハイでは優勝こそ逃したものの、名門校であるこの部には今年も沢山の新入生が入部した。
ロッカーの数には限りがあって、当てがわれているのはレギュラーメンバーと、上級生の上から順のはずだった。


「・・・ソレ、君のロッカー?」
すこし気になって、聞いてみる。
「え?あー、ハイ。」
「新入生はまだ、ロッカーもらってないはずだけど・・・それにもらってたとしても、その中に教科書を入れっぱなしにする"置き勉"は、禁止のはずだよ」

・・・ロッカーの中に教科書どころかプリントやサイコロになった鉛筆まで無造作に転がってる、某エースクライマーの件については今だけは棚に上げておこう。

私の言葉に、彼は大袈裟なため息をひとつ吐いて、苛立った様子で言った。

「なんすか、説教ですか?人のこと覚えてなかったクセして、随分偉そうですね。」
「・・・は、はぁ?!・・・ちょっと。一応わたし、三年生なんだけど」
「三年つっても、たかがマネージャーでしょ?あぁ、それとも・・・そんなに偉そうなのって、"福富元主将の妹"、だからですか。答えは、イエスですか?」

まるでアイドルみたいなルックスからは想像もつかない高圧的な態度で、彼は吐き捨てるように言う。

「このロッカーは、隼人くんのです。・・・おっかしいんですよ、ここの先輩方。オレが隼人くんの弟だからって、気ィ使っちゃって・・・ここのロッカー使いなよ、ですって。まぁ、もらえるモンは貰っておこうかなと。・・・アンタもそうでしょ?"福富さんの妹サン"」
「・・・どういう意味よ」
「だってアンタ、中学まではソフトボール部じゃなかった?」

ああ、そうか・・・隼人さんの弟って事は、この子も秦野第一中学校の出身。つまり、私やお兄ちゃんと同中なんだ。
私の事、知ってても不思議は無い。

「そうだよ。でも高校入って、・・・ケガしたから、辞めたの。だけど、それが何?」
「・・・ああ、なるほど。ソフト部辞めなきゃいけなくなったから、自転車部に切り換えたってワケ?福富元主将のコネを利用して・・・って所ですかァ?」

・・・は、はぁ?!

「新入生達が噂してましたよ、アンタが真波先輩と付き合ってるらしいって。・・・すごいすね。お兄さん使って自転車部って新たな居場所と、イケメンの彼氏まで手に入れたって事ですか」



・・・彼の言うように、確かに私は、"たかがマネージャー"なのかもしれない。私が部にできる貢献は、ロードバイクに乗る事ではない。
お兄ちゃんのお陰で途中から自転車部に入ったのだって、間違いじゃない。
努力も、貢献度も、この部で過ごした時間も、選手達には敵わない。・・・だけど私も、私なりにロードレースを・・・このチームを、今とても大切に思ってる。


だけど正直、彼が言うような事を私は自転車部に入ってから散々言われて来た。男目当てだの、家族のコネだの・・・単純にそう思って口にする人もいれば、悪意を込めて言ってる人もいた。もう今さら、腹も立たなかった。
でも・・・
隼人さんの弟に言われた事が、すこし寂しい。

隼人さんはいつも私を気にかけて、声をかけてくれたから。
そしてそれは、他の下級生に対してだってそうだった。ひとりひとりに声をかけて、ねぎらったり勇気付たり・・・たくさん背中を押してくれた。
だから、みんなに慕われてた。
素敵な先輩だった。・・・大好きだった。

そんな事は、弟だからってこの子には関係無いのかもしれない。
だけど他の人に悪く言われるより、私はずっと悲しかった。


「・・・残念だな。隼人さんの弟が入ってくるって聞いて、楽しみにしてたのに」
私は寂しさと、ほんの少し皮肉も込めて言った。
「オレに会えるのを楽しみにしてたのは・・・オレが、隼人くんの弟だからですか?」
「え?・・・うん。それ以外に何が・・・」
「・・・アンタ、なんにも、覚えて無いんだな」

そう言った彼は一瞬、寂しげに瞳を揺らした。

「−−−え?」
「・・・残念なのは、コッチのセリフだよ。福富さんや女だって立場を利用して、努力もしないで居場所手に入れたって事だろ・・・ガッカリしました、心底。」

サヨナラ、名前先輩。
一方的にそう捲し立てて、彼は振り向きもせず部室を後にした。どうしてだか・・・面と向かって名乗った覚えの無い私の名前を、はっきりと口にして。








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