- ナノ -

別人 3




そうして私は、完全に彼の勢いに押されるがまま。学校から程近い距離にある山道をロードバイクで登っている。スカートの下に、先ほど手渡された靖友さんのジャージを履いて。
しかも『一緒に登ろう』と山に連れ出した当の本人は今、遥か前方にいるのだった。・・・一緒に、とは何だったのか!?

「ちょっ、ちょっと、真波っ・・・速いって、速すぎるって!!」
「名前さん、はやく来てくださいよお」
「ふ、ふざけんなっ…」

元運動部とはいえ、私とて女子だ。現役の男子選手に、追いつけると思うの!?加えて、ロードバイクに乗るのだなんて慣れなくて、フラフラ状態だ。昔、兄のお古のロードを譲り受け乗っていた事があるが、乗るのなんて本当に久しぶりの事だ。

ああ、坂って、苦しいな。自転車って下りは気持ちいいんだけど。

でもアイツは、”登りが”好きだって言っていた。
こんなに辛いのに。どうしてだろう。

そう思い、俯き気味でいた視線を前方に移す。ハッとした。・・・なんて、楽しそうなんだろう。

それは、後姿からでも伝わるくらいに。オーラとでも言うのかな。全身から、ペダルを踏む喜びや生命力に満ち溢れていた。美しい。今までも、兄の応援で行ったロードレースの試合で沢山の選手を見て、迫力に圧倒され、興奮もした。でも、その時とは全く違う感情に襲われている。彼の走りは、美しく、それでいて力強い。

気付けば目が釘付けになっていた。

たかが自転車だ。人が、左右の足を交互に動かし、マシンを前へ動かす。ただそれだけの事だ。それなのに、どうしてこんなに感動するんだろう。



あれが本当に、真波・・・?


試験問題を鉛筆転がして書いて、追試になって、その勉強会も気分次第で好きな時間に来る、ふわふわ不思議チャンの真波山岳?・・・まるで、別人だ。

問題児としか、思っていなかった彼。
けれど今−−−尊敬すべき一人の選手へと、私の中で変わりつつあった。





ーーー追いつきたい。走ってみたい、一緒に。



私は彼の走りに魅せられて、必死でペダルを漕いだ。吸い込まれるかのように、夢中で前へ進んだ。スタート直後はおぼつかなかったペダリングや重心も、次第に確かな感覚として私を前へ前へといざなった。


「名前さん!まってたよ!」

ようやく追いつくと、彼が振り向いた。多少速度は緩めてくれていたのだと思うが「すごいね、名前さん」と、口の端をキュッと持ち上げて微笑んだ。
教室で見た、ふんわりした笑顔とは違う。甘ったれた上目遣いとも違う、強い瞳。−−−これが、”生きている”ときの彼なのか。


「ねえ、名前さん。楽しいね」

真っ直ぐに前を見据えたまま、真波が独り言のようにつぶやいた。



「こういう瞬間、生きてるって感じがするんです。・・・コレ、取り上げられたらって、また昔みたいな毎日になるのかって思ったらすごい怖くて。そう思ったら・・・名前さんの気持ち、わかったんだ」



昔みたいな、って?
そう、思ったけど。あと、ずっと言いそびれてる昨日の事だって、謝りたかったけど。
私は着いて行くのに精一杯で、言葉を返せずにいた。

それに、なにより・・・彼の走りを目の当たりにして、感動で胸がいっぱいで。


「それで、どうしたら名前さんに笑ってもらえるかなって考えてたんだけど・・・やっぱり、オレにはこれしか無くて」


いつまでも返事をできずにいる私を不思議に思ったのか、真波が視線をこちらに向ける。その瞳が、ぎょっとひとまわり大きく開かれた。



「名前さん!?泣いてるの!?なんで?」

「え?」

私自身驚いて、片手で頬に触れると確かに濡れていた。






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