月の放物線
月の冴える夜だった。私は目の前の宿題になかなか集中し切れず、一問解いては手を止め、カーテンの隙間から夜空を見上げたり、また一問解いては手を止め、勉強机の上の置き時計を眺めたりした。
昨日までは歪だったお月さまは、今夜はなにかに満たされたみたいにまるまるとしていた。いや、月が球体である事はずっと変わらないのだ。ただ位置によって、違って見えているだけ。
野球部の寮からも、月はきれいに見えるかな。こんど話すとき、聞いてみようかな。
そんな余所事ばかり考えてるものだから、ページが進むはずもない。まいったな、あと2教科分片付けなきゃならないのに。
“あの子”の希望進路だった、ただそれだけの理由で私は1年先回りして海堂に入った。恋じゃない、義務だった。
私の入った普通科は偏差値が高く、テストも宿題も毎日のようにあった。身の丈に合わない進路だった事も手伝って、学校でも家でも勉強漬けだった。
あの子のいる体育科は普通授業や学校活動もかなり免除され、ほとんどの時間が部活動に当てられているらしい。
だからといって、体育科はいいなぁなんて思った事はない。私にあの子みたいなスポーツの才能もないけれど、かといってあの子のように努力できるとも思えない。心底、尊敬する。
尊敬する、だけなら良かった。
ただの幼馴染のままなら良かった。
どこで間違えて、こんなに好きになってしまったのだろう。....宿題の手も止まる程。月なんか見て、あの子の事を考えてしまう程。
いま胸にあるこの気持ちは、どうかどうか思い過ごしであってほしい。何度も、祈るようにおもった。
好きになる資格なんか、私には無いから。
−−−ドアのむこうで、自宅の固定電話が鳴った。
あの子かな?
咄嗟に思ったけれど、それはない、と瞬すぐに期待を塗り潰す。あの子から電話が来るのは週に一度あるか無いか。昨日も電話したばかりだから、今日掛かってくる事は無いはずだった。
「なまえ。電話、寿也くんから」
私の部屋の扉から、お母さんが顔を覗かせて言った。
うれしくて、心臓がおおきく騒いだ。ありがとう、となんてことない素ぶりでワイヤレスの受話器を受け取る。
「も、もしもし、寿くん?」
どきどきして、声が弾んでしまう。しまったな、深呼吸してから出れば良かった。
『なまえちゃん。 今、話しても平気かい?』
「・・・宿題をしていたから、すこしなら大丈夫」
−−−恐らく私は今、ものすごくみっともない顔をしている事だろう。これが電話で良かった・・・あの子には、ゼッタイに見せられないもの。
「電話、連日掛けてくるなんて珍しいね。なにかあったの?」
『えっ!?・・・いや、えっと・・・。あ、なまえちゃん今日の練習試合観に来てくれていたよね。うん、そうだ。その感想を聞こうと思って』
「感想・・・?」
幼い頃から寿くんの試合を見ているとはいえ、私は野球経験者じゃない。というかそもそも、応援に行ったところで寿くんの事しか見ていないわけで、プロを目指しているような子に対して役に立つ試合全体の感想なんて言えるわけ無い。
「寿くんの参考になるような事、私はなんにも言えないと思う。チームメイトとか、スタッフさんに聞いた方が」
『あはは、そんなに堅苦しく考えないでよ。ただ、なまえちゃんが見てどう思ったのか聞きたかっただけだよ』
「そんなのでいいの?ええと....寿くんは今日も、」
“格好良かったよ”
思わずそんな言葉が溢れかけて、口を噤んだ。
子どもの頃はよく、試合後はそう言って寿くんを労った−−−けど、今は状況が違う。あの子はもう高校生の男の子だし、ましてや私は特別な気持ちを抱いてる。言える訳がなかった。
だけど気付いたのが少し遅く、寿くんは勘付いてしまっていた。
『え、何?』
「・・・ううん、何でも無い」
『嘘。なにか言いかけたじゃないか』
「寿くんは今日も頑張ってたねって」
『それも嘘だよね。その言葉なら、隠す必要が無いもの』
ああ、鋭い。それからシツコイ。
額からじりじりとイヤな汗が出てくる。逃げ道を探したけど、これ以上何をしたって墓穴を掘るだけだと思い、観念する事にした。
もう、いいや。こんなひとこと位・・・子どもの頃は言ってたんだし、普通に口にしちゃえば今更なんとも思われないよね。
「寿くん、かっこよかった」
受話器の向こうに、音が消えてしまったみたいな沈黙が流れた。
言い方がぎこちなくて、意味深に聞こえてしまっただろうか。それとも、稚拙な感想すぎて呆れさせてしまっただろうか。
「・・・なまえちゃん、今、どんな顔してる?」
実際には数秒だったのかもしれないけど、私には数分にも数十分にも感じるような沈黙のおわりに、寿くんは言った。心なしか、すこし声を弾ませて。
「べつに、どんな顔もしてない」
嘘、耳まであっつい。恥ずかしすぎて、涙すら出そう。ぜったいぜったい寿くんには見せられない。
『見たいな、どんな顔して言ってくれたのか』
「嫌よ、絶対」
『どうして?どんな顔もしてないなら、いいじゃない。ね、今度会った時、さっきの言葉を直接言ってよ』
「えっ!?・・・ヤダ、絶対に嫌」
『ふふ、たのしみにしてる。−−−ああ、宿題していたんだっけ?なら、もう切るから。じゃあね、約束だよ』
ちょっと待って、と言い終わる前に一方的に切られてしまった。
このごろの寿くんは、ちょっとだけいじわるだ。
思い返せばそれは、あの日を境にして始まったと思う。
◯
それは、高校2年のおわり頃の事だった。
クラスメイトの男の子に、好きだと告白をされた。狡賢い私は、チャンスだと思った。
寿くんへの気持ちを消す、きっかけになるかも。
相手の事を利用するみたいで申し訳ないけど....その人の事だって、一緒にいたら本当に好きになれるかもしれないし。
私は何年も、自分の中にある寿くんへの気持ちに見て見ぬ振りをしていた。
いっときの感情ならば、そうしてやり過ごすうちに消えてなくなるはずだったから。
いいえ、そうでなくちゃ困る。私にあの子の事を好きになる資格なんて無いのだから。
だけど未練なのか、良心なのか、すこしもその人への気持ちが無いのに告白を受けるのは気が引けた。返答に詰まっている私に、こんどバスケ部の練習試合を見に来てよ、返事はその帰りでいいからと言った。
バスケ部の試合の日には、同じく野球部も練習試合があった。私が寿くんの応援に行かなかったのは今のところ、その一度だけだ。
野球観戦というのは、ましてや球場によっては設備の整っていない高校野球というのは、夏は暑いし日に焼けるし、かと思えば春秋は震る程寒い日もあるし、虫は出るし(私は虫が苦手なので、これは意外と大問題だったりする)、応援するのだって一苦労であった。
一方、屋内競技であるバスケの観戦は、雨風も凌げる体育館で、そして距離感もすごく近い。それは新鮮な体験だったし、クラスメイトが一生懸命に打ち込む姿は純粋に、いいな、と思えた。
その人はすごくバスケットボールが上手で、周りの女の子達もカッコイイと言っていた。
でも・・・どうしてだか私は、すこしもそうは思えなかった。
それどころか、野球部の試合は今どのあたりまで進んだだろうかとか、寿くんは怪我や危険なプレーに巻き込まれてないかなとか、私の心はずっと体育館の外にあった。
バスケットボールならではの魅力だって感じたのに、ずっと、陽射しが恋しかった。
寿くんと過ごす日々の中に、息苦しさが増えてきた。
だけど、この世界に愛しいと思えるものも又、日々増えていった。
野球も、そのひとつだった。
はやくグラウンドへいきたい。バスケの試合が終わる頃にはもう、そんな事で頭がいっぱいだった。
「試合中、すごくつまらなそうにしてたね」
練習試合の帰り道、その男の子は言った。
二人で並んで歩くのがすごく居心地悪くて、なにか試合の感想でも言わなきゃと内心焦っていた時だった。
「そんな事は無いんだけど・・・ちょっと、考え事してたのかも」
ごめんね、と誤魔化すように笑うと、彼は矢継ぎ早に尋ねた。すこし、責めるような口調で。
「なら、今日の試合どうだった?」
「迫力あってすごかった。バスケ、体育以外で見たの初めてだったし」
「俺のことは、どうだった?」
かっこよかった、って、お世辞でも言えたら良かったのに。
寿くんにだって嘘ばかりついてるクセに、なにを今さらいいこぶっているんだろう。
言葉に詰まる私を見たその人の表情に、ああ、嫌われちゃったなと思った。
別れ際、嫌な事も言われたけど、それも仕方ないとおもった。
その後、私の足は自宅ではなく野球部のグラウンドに向かっていた。練習試合はもう終わっているだろうけど、この時間ならまだ、グラウンド整備や自主練なんかをしているはずだから。
一目で良いから、寿くんに会いたかった。
思った通り、あの子はまだグラウンドにいた。クールダウンなのか、仲間たちと笑い合いながら和やかにキャッチボールをする姿に、今日の練習試合も無事に終わったのだと分かって胸を撫で下ろした。
寿くんが投げたボールが、ゆるやかな弧を描いてチームメイトのグローブに収まった。そしてまた投げ返されたボールを、寿くんが迷いのない所作でキャッチした。
朱に染まり始めた空を、ボールの描く放物線が行き来した。
それはあの子が何年も、毎日繰り返ししてきた事のはずだった。なのに寿くんは、そのひとつひとつをすごく丁寧に扱った。
私はそれを、ずっと見ていたくなった。
かっこいい。
いろんな想いが込み上げたのに、ぽつりと零れたのはそのひとつだけだった。
見た目とか、そういう単純な事だけじゃなくて。寿くんの弱さも、強さも、その全てを私は特別大切に感じている。
私は気付いてしまった。
私がかっこいいと思う男の子は、この世界に寿くんだけだってこと。
寿くんのユニフォームが土で汚れていた。今日の試合もきっと、頑張ったんだろうな。私は、見に行けなかったけど。それは嬉しいようで、すこし寂しかった。
私がいなくても、彼の世界はまわる。
それでいい。
そうなっていけるように、応援しようと決めたはずだった。
なのに、いつから・・・−−−私の世界には、彼がいなきゃまわらなくなってしまった。彼を守りたいと思って側にいたはずなのに、いつしか、よりどころにしていたのは私の方だった。焦がれていた。誰よりも好きだった。私の世界で、たった一人の、男の子。
・・・本当はずっと前から、気付いていた。
空にはうっすらと月が昇りはじめている。その形は、昨日より少しだけ満ちていた。月の形が変わったんじゃない、見る位置によって、違って見えるだけなんだ。
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