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- ナノ -


  U−2




居間ではおじいちゃんがテレビで時代劇ドラマを見ていた。すこし離れた所から、おばあちゃんが台所でお茶の準備をしている音も聞こえてくる。穏やかな日常の壁一枚を隔ててあんな事をした自分への罪悪感が、益々膨れた。

冷静になりたくて、居間をそのまま通り抜けて洗面所へ向かい、顔を洗った。
冷たい水が額を流れ落ち、気持ちが落ち着く程、自分のした事が恥ずかしく、そして恨めしく思えてくる。

なんて事を僕はしてしまったんだろう。
ましてや寝ている状態の、無抵抗な女の子に−−−もはや、痴漢と一緒じゃないか。


彼女と恋人になったこの一年、本当はすぐにでもなまえちゃんの全てを自分のものにしたくてたまらなかった。だけど僕が手を繋いだり抱きしめたりといった以上の事をしてこなかったのは、単に会う機会が少なかったというだけではない。
彼女の事をすごく大切に想っていた。
だからひとつひとつ、ゆっくり前に進んでいきたかった。
それなのに。




タオルで顔を拭き鏡を見ると、そこに映った男はひどく情けない表情をしていた。おまけに顔が真っ赤で、耳まで染まっている始末だった。


「・・・寿くん?」
「っ、うわぁっ」


背後からなまえちゃんに呼ばれ、素っ頓狂な声が挙がる。振り返ると、僕の反応に驚いたのか瞳を丸くした彼女が立っていた。


「お茶入ったよって、おばあちゃんが・・・」
「そ、そう。わかった、今行くよ」


なまえちゃんの目が見れなかった。タオルで顔を拭く振りをして、顔が赤いのもバレないようにし彼女の後に続き居間へ向かった。

なんにも知らないであろうおじいちゃんとおばあちゃんが食事用の座卓を囲んでいる。テーブルの上には、僕が買ってきたモナカも皿に入れられていた。

なまえちゃんが僕等と一緒に食卓を囲むのは珍しい事ではなく、そんな時は決まって隣同士に座った。子どもの頃からなんとなく定位置みたいになっていて、なまえちゃんはいつもの “その位置”に当たり前のように座ったので、僕も隣の座布団に腰を下ろす。気まずいけど。ものすごく。


「それじゃあ、いただきましょうか」
「わぁ!このモナカ、シャチホコの形なんだ。ふふ、かわいい」


なまえちゃんはモナカを手の平に乗せ、おばあちゃんと一緒になってころころと笑ってる。かわいいな、買ってきて良かった・・・じゃ、なくて!なまえちゃん、キミはどうしてそんなにいつも通りなの?
・・・もしかしてさっきの事、気付いてない?いいや、そんなはず無い。


「寿くん、名古屋駅のどこで買ってきたの?」


真っ直ぐに僕の目を見て、そう聞いてきたなまえちゃん。

やっぱり、僕だけなんだろうか。
あんな事があった後で、意識してしまって目も見れないのも、会いたくて仕方なかったのも、曲がりなりにも君とキスができて舞い上がっているのも。

なまえちゃん。キミは、なんとも思ってない?


動揺を誤魔化そうと湯呑みを持とうとしたが、掴み損ねて、その拍子にお茶をこぼしてしまった。

「寿くん?だ、大丈夫?」
「・・・ごめん。ちょっと、疲れるのかもしれない」




心配したおばあちゃんに促され、自室で休む事にした。正直、あのままお茶どころでは無かったから、助かった。


「−−−寿くん。入ってもいい?」

僕が部屋に行ってから少しして、ドアの向こうでなまえちゃんの声がした。緊張が走る。一拍空けて、どうぞ、と返すと遠慮がちに扉が開いた。


「話したい事があるの」
「−−−うん。僕もだ」
「隣、いい?」
「いいよ」

自室に敷かれた二つの座布団、そのもう一つに彼女が腰を下ろす。ローテーブルを前に隣り合うようにして二人、座った。ふわりと彼女特有の香りが漂って、それはさっきキスした瞬間にも香っていたものだったから、僕の胸はひどく締め付けられた。

「・・・僕が話したい事っていうのは・・・その。さっきの、縁側での事なんだけど・・・」

彼女から話出させるのは忍びないと思い、僕は気まずい沈黙を破って切り出す。

「・・・うん、私もおなじ。ねぇ、寿くんあの時・・・」
「ごめん!!」

僕はなまえちゃんに勢い良く向き直り、頭を下げた。

「なまえちゃんにあんな事するなんて、最低だよ」
「・・・びっくりはしたけど」
「やっぱり、気付いていたよね。本当にごめん・・・ましてや、寝ているキミに勝手にするなんて・・・痴漢と一緒だよ」

僕がそう言うとなまえちゃんは吹き出して、痴漢って、と言ってくすくす笑った。

「ふふ、それは大変。巨仁の佐藤選手が痴漢なんて・・・明日の新聞の一面になっちゃうかも」
「もうっ、なまえちゃん!僕は真剣なんだよ。なのにキミときたら、さっきからどうしてそんなに普通なんだよ。・・・なまえちゃんは、何とも思ってないの?」
「・・・そういうわけじゃなくて。でも、謝るような事じゃないでしょ。付き合ってるんだし」

・・・そ、そうだけどさ・・・。
でもだからって、笑う事ないじゃないか。
僕はムッと不貞腐れながらも、彼女の発した言葉に、ある事を思い返していた。

「そうだ−−−なまえちゃん。新聞といえばさ・・・僕の出てる記事、集めてくれていたの?」

楽しそうに笑っていたなまえちゃんが、ぴくりと身体を揺らした。そして恥ずかしそうに「...やっぱり、見たのね」と頬を染めた。
なんだかやり返してやったようで、僕はすこしだけ気分が良かった。

「あんなふうにスクラップしてくれてるなんて、驚いたよ」
「元々は集めるつもりじゃ無かったんだけど....寿くんが出てるの見つけたら、嬉しくて、つい。そういうのが、気付いたらどんどん増えてきちゃって」
「嬉しかったよ。教えてくれたら良かったのに」
「うーん。なんていうか....あーいうのって、すごく『絵に描いたような良い彼女』って感じがしない?だから、言いたくなかったの」
「絵に描いたような良い彼女だよ、キミは」
「....ううん、違うよ」

僕は誇らしくてそう言ったけど、なまえちゃんは寂しげに目を伏せた。それは、ただの謙遜には見えなかった。


「・・・私が、あのスクラップを見返す時はね」

僕がなにか聞こうとするのを遮るように、なまえちゃんが真っ直ぐに言った。

「寿くんに会いたくなった時なんだよ」
「・・・え?」
「いろんな記事を見返してたらね、あんな事もあったなぁとか、この時の寿くんすごく頑張ってたなぁとか....そういうふうに振り返ると、なんだか私まで一緒に頑張ってるような気持ちになれるんだ。寂しい時もあるけど....寿くんも今ごろ頑張ってるから、って思えるの。−−−だから今日はね、このタイミングで、会えて嬉しかった」
「・・・なまえちゃん」
「会いたかった」

不意打ちの言葉に射抜かれて、さっきまでの不安が一瞬で報われて、息が苦しくなる。
....なまえちゃんは、ずるい。
いつも、すごく丁寧なのに、掴み所が無くて。側にいるようで、すごく遠くて....
不安にさせるくせに、最後には僕が一番欲しい言葉をくれる。


「....僕も。会いたかった」

強く抱きしめてそう言った。彼女はゆっくりと頷いて、僕の背中に手を回した。

「....言ってよ、そういうの。僕ばかりが会いたがっているのかと思った。なまえちゃんからも甘えたり、わがままを言ってほしいな」
「うーん....私は、そういうタイプじゃないから....」
「だから良いんじゃないか。そういうキミが、僕にだけ甘えてくれたら嬉しいよ」
「ふふ、なるほど。確かに....私も、いっつも外ではしっかり者の寿くんが、私の前でだけ甘えてくれるのは嬉しいものね」

そう言って僕を見て、やさしく微笑んだ。
こうして、いつも流されてしまう。だけど、今日こそはという思いで食い下がり、なまえちゃんの両肩を掴んだ。

「じゃあ、なまえちゃんだって僕にわがまま言ってよ」
−−−なんだか既にこれも、僕のわがままなような気もするけど・・・。
なまえちゃんは、「粘るなあ」と言って観念をした。


「“わがまま”ね。・・・じゃあ、さっき縁側でしてくれた事・・・今度は起きてる時に、してくれない?」


“縁側でしてくれた事”−−−それは、キスの事を指すのだろう。僕は再びその事を思い出して、顔から煙が出るんじゃないかって程熱くなる。


「えっ!?えっ・・・と。いいの?」
「寿くんは謝ったけど・・・私はぜんぜん嫌じゃなかったよ。ただ、勿体なかったなって。寿くんがせっかくしてくれたのに」
「・・・ごめん」
「寿くんだけ、ずるい。・・・だから今度は、ちゃんと、して」

なまえちゃんが頬を染めて、僕の服の裾を引っ張った。心臓がうるさい位に高鳴る。この距離だったら、なまえちゃんに聴こえてしまうかもしれない。


「わかった。じゃあ、次の時はそうするよ。また今度、その時が来たら」


なまえちゃんの綺麗な瞳が、一度、瞬きをした。


「・・・、今度?」
「え?うん」


僕の答えに、「そっか、こんどか」と恥ずかしそうに呟いて、なまえちゃんは立ち上がった。


「帰るのかい?」
「ううん。そろそろおばあちゃんがお夕飯の支度を始めるはずだから、手伝ってくる。今日はね、寿くんの好きなものばかりだよ!おばあちゃんと一緒に買い出ししてきたんだ」
「それは楽しみだな」


二人で居間に戻ると、なまえちゃんは以前おばあちゃんが縫ってくれた手製のエプロンを着けて、台所に入って行った。


−−−縁側での出来事のリベンジをするチャンスを、なまえちゃんがわざわざ作ってくれた事に僕が気が付いたのは・・・だいぶ、後になっての話だ。
その時に僕が今日の自分をとんでもなく恨んだのは、もはや言うまでもないだろう。





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