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- ナノ -


  U−1


「ただいま」
「おかえり、としちゃん」
「寿也、おかえり。長距離の移動で、大変だっただろう」


約一週間振りに実家の玄関を潜ると、おじいちゃんとおばあちゃんが笑顔で迎えてくれた。
待ち侘びていた様子が手に取るように分かって、胸の底から嬉しくなる。帰宅して扉を開ける瞬間は、大人になった今でもすこし怖いから。

「この連戦も、頑張っていたわね。お爺さんと一緒にテレビの前で、はしゃいでばかりだったわ」
「観ててくれたんだね、ありがとう。プロ2年目の難しさを感じているよ。去年とはまた違った課題があるから」

はいこれ、お土産。名古屋駅で買ったモナカの小包を渡すと、おばあちゃんは「いいって言っているのに、いつも買ってくるんだから...」と言いながらも、嬉しそうに受け取ってくれた。


「としちゃん、お腹が空いているんじゃない?お夕飯までは時間があるし、このお菓子と一緒にお茶にしましょうね。ちょうど、なまえちゃんも来ているし」
「−−−なまえちゃん?」

その名前に思わず、脱ぎかけていた球団指定のウィンドブレーカーの手が止まる。

「なまえちゃん、来てるの?」
「ああ。ばあさんが買い物へ行くっていうから、付き合って荷物なんかを持ってくれたんだよ」
「どこにいるの。僕の部屋?」

縁側の方へ行ったと思うけど、とおじいちゃんが言い終わるが早いか、僕は玄関から上がって足早に室内へと向かう。「あらあら、あの子が脱いだ靴も揃えないで....」と、おばあちゃんが楽しそうな声で言った。




なまえちゃんとは、去年の今頃−−−僕がプロに上がった直後から、付き合いはじめた。僕にとって長年の片想いがやっと叶い、期待に胸を膨らませていた。
だけれど現実はそう甘くはなかった。シーズン中はほぼ毎日試合があり、そうでない日も移動やなんかに費やされる。シーズンオフだってトレーニングやメディアの仕事があったし、マスコミだとかファンの目があって自由に会う事さえままならなかった。
それは、仕方のない事だった。覚悟の上で飛び込んだ世界だし、むしろ望んで目指してきたのだ。
僕の毎日は充実していたし、この先に叶えたい夢も見つけた。

だけど・・・正直、なまえちゃんとの関係においては、不満が無いと言えば嘘になる。

なまえちゃんに好きだと伝えられた事、そして彼女もまた僕を好きでいてくれる事−−−それだけだって十分すぎる程に幸せだった。会えはしないこそ、去年ふたりで携帯電話を買ってからはいつだって会話もできるようになった。
でも直接会う回数とすれば、付き合う前の方が多い位だった。
中学まではほぼ毎日顔を合わせていたし、高校の時だって、科や学年は違えど会おうと思えばいつでも会えたから。

だから、なまえちゃんに、会いたかった。

それなのに、彼女はというと−−−寂しくないかと聞けばいつも、大丈夫、と言って笑った。「私の事よりも、野球を一番に考えてね。私は大丈夫。だけど寿くんが寂しいときは、いつでも言ってね」、と。
チームの先輩に言えば、理解のある彼女でいいなと羨ましがられる。
だけど僕からすれば、もっと甘えたりわがままを言ってくれたっていいのにとも思う。第一、なまえちゃんは僕に会いたいって思わないわけ?それともこんなに恋しくなってしまうのは、僕が年下だからなのか。
....なんだか僕ばかりが好きみたいじゃないか。
そんなふうに悩んでしまう事もあるけど、なまえちゃんの事だから心配をかけまいとそう言ってるんだ。くやしいから、僕はそう思う事にしている。



居間に着き、縁側に続く大窓を見る。だけれど室内から、なまえちゃんの姿は見えなかった。
庭にでも出たのか?
掃き出し窓を開けて、縁台に一歩踏み出す。すると、縁側の板敷状の通路の先に、腰掛けている彼女の姿があった。


「・・・なまえちゃん、っ−−−」


声をかけながら近付いて、ハッとする。どうやら彼女は、うたた寝をしてしまっているようだった。

会ってすぐにでも話がしたかったから、拍子抜けしてしまった。だけどその寝顔があまりに清らかで、思わず顔が綻ぶ。
僕は起こさないようにそっと、彼女の隣に腰をおろした。

ふと視界に、なまえちゃんの太腿の上に置かれた本のようなものが目に入った。

見てみればそれは、プラスチックのバインダーファイルにルーズリーフが幾重にも重なって入れられているものだった。

開かれているページには、昨日のスポーツ紙の一部が貼られている。どうやらなまえちゃんが切り抜いたものらしい。僕がボールをミートする瞬間の写真に添えられた、“佐藤寿サヨナラ弾 黒星脱出”という大きな見出し。そしてチームや僕個人への評価が書かれた文字が並んだその記事を、一文字も漏らす事なく、丁寧に切り取って貼られていた。
わざわざ切り貼りしてまで、おじいちゃん達から見えないようなこの場所で読んでいたのかな?
僕は多少の照れ臭さと、だけどそれ以上に嬉しくて、胸が締め付けられた。会えない間も、こんなふうに応援してくれていたんだ....。

随分と厚みのあるそのバインダーが気になって、彼女を起こさないようにそっとページをめくってみる。なまえちゃんが大学で使っているものだろうか?

しかし、どこまでページをめくってもそこには、新聞記事がスクラップしてあるばかりだった。それも全て僕にまつわるもので、僕が映っていればどんな小さな記事でも行儀よくそこに収まっていた。日付や対戦相手、球場名までも彼女の字で添えられて。
・・・ひょっとして、僕がプロに入ってからのものを全部取ってあるのか?−−−だけど僕のそんな予想は、遥かに裏切られていく。

“佐藤寿 プロ入団会見”
“海堂高校 春夏連覇”
“海堂佐藤 連続HR”
−−−そして一番最初のページには、横浜リトル時代の記事。切り抜きの下に書かれた日付は随分と幼い字体で、後から纏めたのではなく彼女が当時から切り貼りしたものである事が分かった。

こんなものを作っていたなんて−−−僕には、一度も教えてくれなかったじゃないか。
昔からずっと、集めてくれていたの?

どんな気持ちで、これを作っていたのだろう。
僕が試合に勝つ度、ゲームで役目を果たす度、自分の事のように喜んでくれた彼女の姿を思い出す。僕の活躍を嬉しく思って、作ってくれていたのかな。


庭の木々からこぼれた光の粒が、幼いなまえちゃんが書いたルーズリーフの上の文字を宝石のように照らした。
すこし離れた場所から、小鳥の歌うような声がきこえる。
僕は、なまえちゃんのきれいな髪や、白い頬に落ちた睫毛の影を見つめた。
春風がふたりを優しく包み込む。美しい午後だった。

言葉にできない感情が、陽だまりみたいに胸の中に広がっていく。
幸せってこんなふうに、じんとする事だろうか。

心にせり上がった想いが、身体をひとりでに突き動かすようだった。
僕は、彼女の顔にそっと近付く。そして神聖な誓いでも立てるかのように、唇に触れるだけのキスをした。
それは、僕たちにとって、はじめてのキスだった。




「・・・ん・・・?」


彼女が小さく身じろぎをして、僕もハッと我にかえる。

−−−僕は今、一体何を・・・・

「・・・とし、くん?」
「、なまえちゃん」

慌てて身体を離す。
なまえちゃんは、瞳を丸くして僕を見た。

彼女が指先で自分の唇に触れた。まるでなにかを確かめるようにそうした後、もう一度こちらを見る。二人、無言で、真っ赤になって見つめ合う。


「寿くん、今・・・」

「−−−ご、ごめんっ!!!」


・・・とんでもない事をしてしまった。

初めてキスをした。

しかも、寝ているなまえちゃんに、勝手に。

その上、彼女も確実にその事に気がついている・・・。


自分の全身から血の気がサァッと引いていくのを感じた。
逃げるようにして縁側を後にし、居間へと戻った。身体中が心臓になったみたいに脈打っている。・・・どうしよう。とんでもない事をしてしまった。

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