04
寿くんに二度と会えないような土地を探した。野球のニュースからも遠い場所へと思っていた。
移り住んだ事は誰にも言わなかった。はじめは親にさえ住所を明かさず、飛行機に乗り込んだ。
国内じゃダメだし、アメリカみたいに野球が盛んな国でもいけないからとヨーロッパに決めた。
何年も前から準備は少しずつ進めていた。外国語を学び、大学で身に付けた栄養や食の知識ならば海外でも仕事としてやっていけると思っていた。
側にいない事が彼の為だなんて言い訳をしながら、本当はただ逃げたかっただけなのかもしれない。全ての事から。
この国に来て、気付けばもう15年になる。
何故そうまでして、そしてそこまで遠くへ行かなくてはならなかったのだろう。あの頃の私は、白でないものは全て黒なのだと思っていた。マルかバツでしか未来を選ぶことができなかった。それを、若さっていうのだろうか。
誰も知らない土地で、自信のあった外国語はネイティヴ達の中では何の役にも立たなかった。卓上の知識しか無い、ましてや言葉の通じない日本人が働けるような飲食店はなかなか見つからなかった。
たまたま面倒見の良いマダムがオーナーのレストランで拾ってもらって働いた。
15年、色々な事があった。悲しい事も嬉しい事もいっぱいあって、この街が愛しく思えるようになっていた。
働きはじめて10年が経つ頃、店の客が読んでいたアメリカの出版社のベースボール雑誌で、寿くんの「今」を知った。
寿くんの事を1日でも早く忘れようと生きていたのに、努力の甲斐も虚しく、表紙の写真が彼であることを一瞬で見つけてしまった事は我ながら情けない。
読んでいたのは常連さんで、私の様子がよほどおかしかったのか、この国でベースボールが好きなんて珍しいねと言って雑誌をくれた。
その日は仕事が手につかなかった。
ふわふわとした足取りで帰宅した後、胸を高鳴らせながら雑誌をめくった。
巻頭数ページを使い、"佐藤寿也選手"のインタビューがいくつかの写真と共に英語で綴られていた。
そこで知った、寿くんの事。私と別れた数年後、メジャーリーグで野球をしていた事。人気選手である事は雑誌の扱いを見れば明白だ。
写真として切り取られた"今"の寿くんの横顔は、知らない人みたいに遠くて、だけど笑ってる顔は昔のままだった。懐かしい。心がじんわりとあたたかくなった。
そして読み進めた記事の先で、寿くんが結婚していた事、子どもを授かった事を知った。
ショックを受けている自分に、ショックだった。
時が流れてわかった事が、いくつかある。
どうして好きになってしまったんだろう、と昔の私は悩んでいた。
だけどきっと、最初から、好きだったんだろう。
家族に取り残されてしまった寿くんの側にいたかったのも、自分のしてしまった事を打ち明けられなかったのも、好きだったから。
そして寿くんが私の隠し事に目を瞑ってくれていたのも又、私を好きでいてくれたからなのだろう。あれは彼の弱さで、そして愛だった。
きっと、私達はちゃんと両想いだった。
今になって思えば、寿くんのお母さんが、私なんかの言葉ひとつで彼を置いて行ったとは思えない。もしかしたら精神的に不安定な時ならば、引き金くらいにはなったかもしれないけど。
あの頃の私は子どもで、彼女の取り乱し様や寿くんの身に起きた事に動転して、自分のせいなんだってどうしてだか思い込んだけれど。
その事をずっと隠していたし、結局最後まで言えなかったけど、寿くんに打ち明けたところで大した問題じゃなかったかもしれない。
もし責められたって、それはそれで仕方の無い事で。...だけど、あの頃の私はそれがとにかく怖かった。寿くんに嫌われたくなかった。いつか終わると分かっていても、いつか嫌われるのだとしても、1日でも長く一緒にいたかった。
子どもだった。
結果、最後の最後になによりも寿くんを傷つけてしまった。
私が寿くんのお母さんに言ってしまった事よりも、その事を寿くんに言えずに過ごしてきた事よりも、彼とのお別れの仕方のほうがよっぽど残酷だった。
何も言わずに姿を消すなんて?
彼の生い立ちを想えば、それがどれだけ酷い事か。
・・・どれも全て、今さら言ったって、もう仕方のない事だけど。
「シェフ、お客さんが呼んでますよ」
店の事務所でぼうっとしていた私に、ウェイターの男の子が声をかけた。デスクの上に置かれた季節限定ディナーのメニューは、書きかけのままになっている。
こんな天気の良い日はつい、寿くんの事を考えてしまう。
なぜだろう?よく晴れの日に野球を見に行っていたからだろうか。彼からいつも、お日さまの香りがしたからだろうか。
「どなた、常連さん?」
3年程前から、店の厨房管理全般を任されるようになっていた。
はじめはお皿洗いから始めた私が、シェフなんて呼ばれるのはいつまで経っても面映ゆい。
この店で、紆余曲折あったけれど、今は店先に立つ事はほとんど無くなった。時折、昔からの常連さんに訪ねられれば顔を出すくらいだった。
「いや、自分は見た事無い人ですよ、日本人で・・・『ここに自分と同じ日本人の女の人が働いてるか』って聞いてきたから、ああシェフの事だと思って」
ああ−−−メニューを翻訳してほしいとか、そういった事だろうな。この店は観光ツアーのルートに入るような場所では無いが、時々観光客が流れ着く事がある。そういったお客さんに和訳をしてあげるのは、昔からの習慣で立場が変わっても私の仕事だった。
「また翻訳係?わかった、いま行くから待ってね」
「翻訳?いえ、そういうわけじゃなさそうですよ。流暢な英語だったし」
英語?
じゃあ、グルメ誌のインタビューか何かかな。口コミで噂を聞きつけた記者が、時折飛び込みでやって来る事もあった。
「まぁいっか、会えばわかるか」
白のストレートパンツの上からギャルソンエプロンを素早く身に付けながらそう言うと、ウェイターの彼は瞬きをして私を見つめた。
「どうかした?」
「この前オーナーが、『なまえは変わった』って言ってたんです。この街に来た頃は、こうしなくちゃいけない、こうあらねばならない、って何でも頑なだったって。自分は今みたいな『まぁいっか』のなまえさんしか知らないんで、想像がつかないなーって」
「ふふ、そう?・・・すこし、強くなったのかもしれないね」
「そういうのなら、優しくなった、って言いませんか?」
「そのふたつはひとつだよ」
その言葉に、彼は小首を傾げた。
私はちいさく微笑んで、事務所の扉を開ける。店のテラス席からの風が爽やかに抜け、鼻先を掠めた。
よく晴れた日特有のその香りは、遠い想い出と今を引き合わせるのだった。
「それで、私を呼んでいたのはどちらのお客さま?」
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