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- ナノ -


  彼を待つ、この部屋で


 読んでいた本を閉じ、顔を上げると、カーテンを開け放していた窓の向こうは静かに夜が更けている。膝の上のブランケットを外して、クッションのきいたソファーから立ち上がる。

高い天井まで続く大窓の前に立つ。空は暗いが、地上を見下ろせば東京の街は眩しい程に明るい。
ニューヨークも大都会だったけれど、自宅はここのようなタワーマンションではなかったから、夜景を一望するような事は日常ではなかなか無かった。

高層階という防犯上の安全面にも甘えて、私は陽が落ちてもしばらくはカーテンを開けている事が多かった。この景色を見ていると、ああ、本当に日本に帰ってきたのだと、何年経っても思うのだ。
どの国の夜景とも違う。華やかなのにホッとして泣きたくなるのは、どこまでいっても結局は私が日本人だからなのだろうか。


 現役を退いた寿くんと一緒に日本に帰国して、数年が経つ。
選手でなくなったからといって、彼の多忙さは変わらず、というかむしろ忙しそうだ。
球団がスケジュールを管理してくれていた頃とは違い、今は野球解説や取材など、1日の中で仕事が立て続いてしまう日もある。

時計を見上げると、もう随分と夜が進んでいる。通りで、あの本も最後まで読み終えてしまったわけだ。


「……寿くん、大丈夫かしら」


 今日は仕事が終わってから、久しぶりに海堂時代のチームメイト何人かと食事をして帰るという事だった。
このところ忙しかったし、ゆっくり羽を伸ばしてきてほしい。…けど、これは遅すぎやしないかしら。

車を出して、近くまで迎えに行った方が良いかな。まさか、飲みすぎて潰れてるなんて事は、無いと思うけど。いい年した大人なんだし。それに、あの寿くんだし。


その時、インターホンの呼び出し音が響いた。
この時間に来客というのも考えにくい。けれど、寿くんなら自分の鍵で入って来られるはず…。

モニター画面を覗くと案の定、そこには寿くんの姿があった。ましてや、部屋の前ではなくマンション入り口のオートロックから。まさか、酔って鍵でもなくしたの?
はい、と応えると、僕だよ、ただいま、なんて何やらご機嫌なご様子。

これは…。寿くん、酔ってるなぁ。
眉を下げて笑いながら、解錠ボタンを押す。

帰国して良かった事のひとつに、寿くんがこうして友人と気軽に会えるようになった所もある。
NYにも知り合いはいたけれど、学生時代の友人はまた違うだろう。
甲子園でプレーし、そしてレギュラーのほとんどが共にプロの選手になった。共通の話題が尽きず、盛り上がったんだろうな。


「ただいまあ」


声がして、私は玄関に向かう。なんだ、やっぱり鍵持っているんじゃない。


「おかえり、寿くん」
彼のカバンを受け取りながら言う。
「楽しかった?どうしたの、下のインターホンを鳴らすなんて」
「ん、楽しかった。なんか、家に帰ったらキミがいるのが嬉しくて、鳴らしてみちゃったんだ」
靴を脱ぎながら、言葉通り嬉しそうに言った。
何言ってるの。やっぱり、結構酔ってるなぁ。
そんな風に思っているところに、靴を揃えた寿くんは振り返って、ぎゅっと私を抱きしめた。

「ただいま、なまえちゃん」
「おかえり。ふふ。寿くん、苦しいよ」
「待たせてごめんね。最初は4人で飲んでいたんだけど、途中から他のヤツも来れる事になって、それで盛り上がっちゃって…」
「楽しかったのなら、良かったわ。随分飲んだでしょう?言ってくれたら迎えに行ったのに」
「いや、大丈夫だよ、タクシーで帰ってきたし。それに、キミが夜に出掛けるのなんて危ないから…あぁでも、来てくれたらもっと早くなまえちゃんに会えたのか」

もう何年も毎日会ってるのに何言ってるの?
笑いながらそう言うと、寿くんは大きな右手で私の左頬を包んだ。そして、熱に浮かされたような瞳で、私を見つめた。
酔っているせいもあるけど、再会して以来寿くんはいつも、こうして初恋みたいに真っ直ぐ私を見つめてくれる。


「かわいい。なまえちゃん、今日もかわいいね」

もう。やっぱり、今日はあまりに酔ってる。

「…さ、中に入って。お水か何か飲む?それとも、先に着替えたほうがいいかな」


いつまで経っても初恋のように見つめてくれるし、見た目はずっと青年のような彼だけど、中身は酔っ払いの大人なので。私は彼に背を向け、手をとって長い廊下を進む。これだけ酔っているなら、お風呂には入らないで寝かせた方が良さそうね。そんな事を考えながら。


「……なまえちゃん」

「、わっ」

突然、今度は後ろからぎゅっと抱きしめられる。びっくりして思わず、持っていたカバンを落としてしまった。振り向こうとしても、力強い両腕はびくともしないし、寿くん?と呼びかけても、返事もない。


「なまえちゃん」


どうしたものか、腕の中で身じろぎしていると、私の首元に顔を埋めた寿くんが言った。




「帰り道、幸せだなと思ったんだ。野球を続けて来られたお陰で出会えた友だちと、たくさん話ができて。そして、家で待っていてくれる、家族がいて」




……寿くん。
家族、という言葉に、胸が詰まる。
あなたにとって、それがどんな意味を持つのか。私だってわからない訳じゃない。

ふわ、と、彼の腕の力が緩む。私もいっぱい抱きしめてあげたくなって、振り返ろうとすると……。あろう事か、寿くんは私にもたれかかって、今にも眠りそうに瞼を閉じているではないか。

「もう!寿くん!」
「わ、ご、ごめんごめん」

慌てて目を覚ました寿くんが、恥ずかしそうに眉を下げた。そんな姿が可愛くて、思わず吹き出す。

「ちょっと…笑いすぎだよ」
「だって、こんな寿くんってなかなか見れないし」
「こんな、って…」
「うーん。気の抜けた、ってこと」


もう、まいっな、って寿くんは頭を掻きながら、クローゼットの方へ歩む。

“家族”の前で、安心しきってる、ってことだよ。ーーー現役時代よりはすこしだけ小さくなった、大好きな背中にむかって、胸の中で呟いた。

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