もう一度会えたら 4
思い出したかのように口にした飲み物はもう、すっかり冷え切っている。
だけど胸の内には、ぽかぽかとした何かあたたかなものが膨らみはじめている。
「ねぇ、なまえちゃん。もし、嫌じゃなかったら...この街に来た後の事も教えてくれないか?まさか料理の仕事をしてたなんて、ビックリしたよ。しかも外国で」
「ええ?大した話は無いわよ。ただ、コツコツやってきただけで....きっと寿くんみたいに、華やかな話なんて何にも無いよ」
陽が落ちて来た事もあり、僕たちは街の中心部へ戻り、カフェにでも入って話そうかとなった。
道すがら、なまえちゃんはすれ違い様に色んな人に声をかけられていた。友人なのか、それとも店の客なのか・・・この国の言葉だからヒアリングできなかったけど、なまえちゃんはその度嬉しそうに話したり、丁寧にお辞儀したりしていた。
カフェに入って話した事はまず、なまえちゃんと別れてからの僕の話だった。日本でのプロ生活の後、メジャーに行った事。吾郎くんと同じチームに入れた事・・・。なまえちゃんは静かに聴いていた。時折、なにか眩しそうに瞳を細めて。
なまえちゃんの話も聴かせてもらった。
この国へ来る準備は、僕と付き合っていた頃からしていたというのだから、流石というか....僕の手落ちというべきか。
この店で働き始めた後、同僚がオープンさせたレストランに一度移って仕事をしたらしいが、トラブルがあってまたこの店に戻って来た。シェフという立場についたのは3年程前らしく、オーナーはまた別に居るのだという。
彼女の左手の薬指に、指輪は無かった。
調理師という仕事柄、着けていないだけかもしれない。
「なまえちゃんは....今はこの街で、一人で暮らしているのかい?」
――言葉を選びながら尋ねた。
聞く時、すこし、ドキドキした。
「ええ」
なまえちゃんは、そう短く答えただけだった。
別居婚とか、結婚はしていないけどパートナーがいるとか、あとは僕と同じように離婚しているだとかの可能性だってあるけれど・・・彼女の答えを聞いて、正直、胸に込み上げるものがあった。それは安堵のような、希望のような感情で。だけど、決して彼女に悟られてはならないと、一度ゆっくり目を閉じた。それから、「そうなんだ」と小さく返した。
「寿くんは今、ニューヨークで暮らしてるの?お子さんは・・・ええと、お一人だったかしら?」
「・・・実は、離婚したんだ。子どもも、向こうの方に着いたから、僕も一人暮らしさ」
なまえちゃんが、はっとした顔でこちらを見た。
それから一度、ゆっくりと目を閉じた。
そして「そうなんだ」って、静かに呟いた。
ひとしきり話し終えたら、夜はすっかりふけていた。
二人でカフェを出て見上げた夜空に、星が静かに輝いている。
色んな話ができた。
友だちだった頃のように、冗談すら言い合えた。
だけど、言おうと決めてきた事だけまだ言えずにいた。....伝えないまま、この国を出ようと思い始めていた。
―――君の事が好きだと、言おうと思っていたけれど。
僕が本当に好きだったのは、君だけだったから。
だけどそれは、過去の面影に抱いていた感情に過ぎないのだと思った。
それに....もしまた告白したところで、一緒いる事はできないだろう。
僕は有難い事に、来シーズンも球団との契約を更新する話が進んでいる。この街で暮らしていく事など叶わない。
かと言ってなまえちゃんを連れて行くという事も、そう簡単には口にできない。
この街の人々と話す彼女を見て、なまえちゃんが努力してこの国で生きてきたのだと分かった。そうして築いた人間関係や仕事を、僕の都合で断つ事など出来ないし、するつもりもなかった。
「寿くん、今日は本当にありがとう」
なにか吹っ切れたような清らかな笑顔が、月明かりに照らされた。
....もうお別れだなんて。
また、会えなくなるなんて。
胸が痛い程締め付けられるのは、この冷たい夜の空気のせいだろうか。
「なまえちゃん・・・。僕らまた、前のような幼馴染の二人には戻れないだろうか?」
彼女は少し考え混んでから、困ったように笑って言った。
「・・・寿くんが、そう言ってくれるなら」
「良かった、ありがとう。・・・また、会いに来てもいいかい?」
「うん。喜んで」
「あとは・・・そうだ!連絡先教えてよ。電話とかメールとか、時々してもいいかい?」
「それは・・・ごめんなさい。携帯電話、持っていないの」
遠回しに拒絶されているのかと思ったが、聞けば彼女はこの国へ来てから本当に携帯を使っていないらしい。ほぼ毎日仕事に出ているから、用のある人は店へ連絡なりをする。自宅も職場に近いから、となまえちゃんは言った。
「だからって、携帯を持ってないなんて....全く、キミって人は!」
この情報社会において、今時そんな人がいるとは....僕は呆れながらも、自分の携帯番号を紙に書いて渡した。そこには、自宅の住所、球団の所在地と電話番号、(なまえちゃんにとっては意味ないだろうけど)SNSのID、思いつく限りの連絡手段を書いた。
なまえちゃんも連絡先をくれたが、お店のショップカードに自宅の住所を書き加えただけ。それでも僕は、大切に仕舞った。
「いつまでこの国にいるの?ホテルは、この近く?」
しまった・・・考えなしに飛び出して来たから、ホテルなんて何の準備もしていなかった。
「ああ・・・ホテルは、確か近かったんじゃないかな。・・・ニューヨークへは、明日の朝帰るよ」
一拍間を空けてから、そうなんだ、と、なまえちゃんは目を伏せた。
その表情に、僕は胸騒ぎがした。
抱きしめたくなったけど、だめだと思い、自分の手のひらをぎゅっと握った。
「またね、なまえちゃん」
「うん、今日はありがとう。それから・・・本当に、ごめんなさい」
「ゴメンはもう無しにしようよ。・・・また来るよ。それから、また連絡する。電話するし、手紙も書くから」
「・・・ありがとう」
抱きしめる代わりに、握手をして、彼女と別れた。
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