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- ナノ -


  もう一度会えたら 3


「はい、どうぞ」


穏やかな河川に向かい置かれたベンチに座っていると、湯気の出たカップをふたつ持って彼女は戻って来た。

座ろうか、とベンチへ促した僕に、ちょっと待っていてと彼女がどこかへ向かった時、このまま戻って来ないのではないかと一瞬過ぎった。そんな僕を見たなまえちゃんは、「大丈夫よ、もう逃げたりしないから」と情け無く笑った。思った事がそこまで顔に出ていては職業柄マズいんじゃないかと思ったが、彼女だから気付いたのかもしれない。

「ありがとう」
「この町のカフェオレは、すごく美味しいのよ」

一口啜るとその温かさが、身体の奥へと沁みる。この現状に、じわじわと現実味が広がっていく。
ベンチの隣に腰を下ろした君も又、少し気分が落ち着いたようだった。彼女がカップから離した唇から出た白い息は、初冬のように澄んだ空気へと溶けていった。
こうしてなまえちゃんと、並んでお茶をするなんて....昨日までは夢にも見なかった。否、夢でしか見れなかった情景だ。


「....この国へは、観光で来たの?ビックリした。まさか、貴方が現れるなんて」
「え.....あ、ああ」
「観光で来たのなら、ご家族も一緒?奥さまやお子さん、どこかで待っているの?」

彼女は僕がメジャーへ行った事や、結婚した事は知っているようだった。しかしどうやら、離婚については知らないらしい。この国ではニュースになっていないのだろう。

どの質問にも何と答えたら良いのか分からず、それになまえちゃんが普通に家族の話題に触れた事にも僕は動揺して、曖昧に言葉を濁した。
君に会う為だけに来た、なんて迷惑に思うだろう。それに居場所をバラしてしまったお母さんにも角が立ってしまいそうだ。ましてや離婚して来たなんて言ったら....困らせてしまうだけな気がした。

だけど、ひとつだけ言おうと決めている事は僕の中にあった。
君と過ごし別れ、結婚して....離婚して。月日の中で浮き彫りになった事。それだけは、言うつもりだった。


「....ねぇ。謝らなくていいって貴方は言ったけど....やっぱり、あの頃の"本当の事"、話してもいい?ここで貴方に謝る事もせず世間話なんかで終わったら、後で絶対後悔するから。相変わらずの自分勝手でごめんなさい。でも私、もう自分を嫌いになるような生き方は、したくないから」

穏やかに、でも芯のある言い方できっぱりと言い切った。
僕は頷く。なまえちゃんはカフェオレをもう一口啜り、静かに話し始めた。




僕が長年知りたかったはずの、キミの隠し事。
その話のはじまりは、僕がまだ小学生だった頃にまで遡った。

その日、キミは僕の母親に偶然出くわし会話をした。野球をしている僕を見てほしくてお節介をやいたのだと、キミは言う。そして逆上した母が言った言葉。....後日、僕だけが置いていかれたのを知り、幼かったキミは自分のせいだと思い込んだ。
置きざりにされた僕が心配で、側にいようと思ってくれた。だけど自分のための罪滅ぼしのようにも思えて、一緒に居る事が苦しくなっていく。

僕に対して言葉を選びながらも、けれどひとつの言い訳もせずキミは話した。

全て話し終えた後、キミはもう一度、「ごめんなさい」と静かに頭を下げた。


「・・・ばかだよ。なまえちゃんは、ばかだ」


キミのせいで、僕が置いていかれた?――――そんな話、母からも美穂からも聞いたことが無い。つまり....悲しいけれど、なまえちゃんの、ただの勘違いだったんだろう。

万が一、事実だったとしても、幼かったなまえちゃんを責める事はできない。そんな理由で、親が子を捨てて良い筈は無いのだから。

なまえちゃんだってそのくらい、分かるはずだろう。子どもの頃ならまだしも、年を重ねた後も気が付けなかったのは....キミもあの出来事に、すごく傷付いていたからじゃないか。


そんな君の気持ちを、あの頃の僕は見つけてあげることが出来なかったのだ。あんなに、側にいたのに。・・・何か隠しているのは、分かっていたのに・・・。

あの頃の君が、どんな気持ちで僕の隣にいたのか。
ずっと、自分を責めていたのか。そう想うと胸が苦しくなった。


「....言ってくれたら良かったじゃないか...」
「そう思うでしょ。でもあの頃は、その簡単な事が....どうしても、出来なかったの」
「....何故?」
「私が弱かったから。それから....こんな事言うのは、狡いかもしれないけど....今思えばあなたの事が、すごく好きだったから」

“好きだった。”
真っ直ぐな言葉は、僕の心に風のように吹き抜けた。その気持ちさえあの頃のなまえちゃんの“本当”だったなら、僕はそれだけで十分だ。苦しみの全てが報われたような気さえした。
色々な事情はあったが、僕らは互いに好きでいた....。すれ違って、別れてしまっただけだったんだ。


「好きだから離れたくないし、嫌われたくなかったの。でもそれって、自分の為でしか無いんじゃないか、とか....側にいようと決めたのは貴方の為だったはずなのに....なんて、自分自身を許せなくってね。あの頃の私、すごくごちゃごちゃと考え事ばかりしてた。今思えばそんなの、どっちだっていいのにね。一緒にいる理由なんて、『好きだから』ってだけで良かったよね」

話をする横顔に、僕は君の中の変化と、変わらない部分を見つけていた。
君は優しいだけじゃなくて、とても強くなったのだろう。
僕があの頃、恋焦がれた少女はもう、この街にはいないのだと気付きはじめている。
君の目に、僕はどう映っているだろう?


「―――なまえちゃんは、悪くないよ」
「....簡単に言わないで。どんな理由があったとしても、それが私が若かったせいだとしても、そんなの貴方には関係のない事でしょう。貴方を傷付けた事実は変わらないのよ」
「....そっちこそ、簡単に言うなよ。関係無いだって?人と人の関係が育ったり、壊れたりする上で、どちらか一方だけの責任という事は無いだろう」
「じゃあ、どうしろって?二人で互いの反省会でもする?....あなたが非を感じるのは自由だけど、最後に酷い別れ方をしたのは私でしょう。それにどんなに悔いても過去は変えられないのよ。だから、私は.....ただ、謝りたいだけ。許してほしくて言ってるんじゃない」
「キミって本当、自分勝手だね」

僕がそう言うと、なまえちゃんは瞳を丸くした。
自分を嫌いになる生き方はしたくない、と、さっき君は言っていた。僕も賛成だ。あの頃はこんな風に踏み込む事は出来なかったけど、自分が変わらなきゃ、きっと未来は変わらない。

「だってそうだろ?自分が悪者なだけの昔話にしようとしてる。終わらせてしまうならそれでも良いけど....僕は―――キミともう一度、分かり合いたいんだよ。過去は変えられないけど....自分が変われば、未来は、変えられるんだから」
「....分かり合いたいだとか....私はあなたにそんな風に言ってもらえるような人間じゃない....」
「僕だって悪いんだよ。キミが本当の事を言えなかったのは、僕が依存していたせいもある。それに....キミがなにか隠している事にも気が付いていたのに、ずっと聞けなかった。失うのが怖かったのは、僕も同じだ。僕だって、弱くて、嘘つきだったよ」

もう、二度と離したくはない。
君が変わってしまって、もう僕が好きだったあの頃の君じゃないとしても。
今のなまえちゃんを知りたい。恋人じゃなくていい。目に見える関係じゃなくていい。どんな形でもいいから、また君と生きていけたら。


「だから....ごめんね、なまえちゃん。僕たち、仲直りできないかな?」
「....としくんの、ばか。あなたって昔からそう....ちょっと、優しすぎだよ」


ゆびきりをしよう、と小指を出した僕を見て、なまえちゃんは困ったように笑ってくれた。
沈みかけた陽が、彼女の瞳からこぼれた涙を照らす。

としくん、と、やっと名前で呼んでくれたのが嬉しかった。




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