その日を境に私は、箱根山の雪解け水のような勢いで、大涌谷を転がり落ちるような加速度で、真波くんにのめりこんでいった。 あの日に芦ノ湖で出会ったのは運命だったなぁと、短い高校生活の中で何度も思い返してはロマンティックな気分に浸った程だ。 真波くんと仲良くなるためには自転車の事を勉強するしか無い事は明白だったので、ものすごい熱量でロードバイクやレースについて調べまくっていた。 学んでいくうちに、私はロードを純粋に楽しいと思い始めていた。 何より、真波くんの好きな世界を知っていくという事が、私にとても幸せな気分を運んでくれた。恋というのは不思議だ。ロードレースという、それまでは全く興味の無かったものさえ、突然輝き始めるのだから。 しかし、中途半端な知識で話すのは、本気でその道を愛する人にとっては逆に不愉快な事もある。勉強を始めた後もしばらくは、私は真波くんの話の聞き役に徹した。 だけどそろそろ、この成果を小出しにしていっても良いのではないか....そう思っていた頃、隣の席から真波くんが自転車トークを繰り広げて来た。 「−−−でさぁオレ、こないだ久しぶりにママチャリ乗ったんだよ。色々あってね。そしたらさ、いつも乗ってる"ロードバイク"と全然違うんだもの!何が違うかって、」 「重さ、だよね?フレーム素材が、シティサイクル・・・ママチャリと、ロードじゃ全然違うもんね」 チャンスだと思った私は、覚えたての単語をドギマギしながら並べた。 真波くんは驚いたように一瞬、目を丸くした。 そして嬉しそうに瞳を輝かせた。 私はすこしホッとしながら、言葉を続ける。 「あと、タイヤも違うよね。太さと....えっとそれから、空気圧が」 「そう、そう!だから重さが全然違ってさぁ。わぁー、知らなかった。苗字さんて自転車詳しいんだ」 「ま、まぁ....実は興味があって、最近勉強してるんだ」 ごめん真波くん、コレは嘘。 興味があるのは自転車に、ではなく、真波くんに、だったから。 「うんうん、知れば知る程奥が深くて面白いよ!パーツやタイヤの選び方ひとつでどんなふうに走れるかが変わってくるしね。自分のイメージとピタッとハマるとさ、気持ちイイんだよね〜。苗字さんは、どんな自転車乗ってるの?」 「・・・え?!わ、わたしは・・・その。そろそろ新しくしようかなって思ってて」 これは、嘘じゃない。 調べてる内に、自分もカッコイイ自転車に乗ってみたくなったのは、ほんとうの事だった。 「え、どんなの?!」 「ロードバイク・・・乗ってみたいけど、でもどこに見に行ったら良いかなあ」 「じゃ、一緒に行く?」 「・・・え?」 −−−それは耳を疑う発言であった。 どんな美少女の誘いも容赦なく断ってしまう真波くんが、しかも彼の方から、私を誘ったのだ。 「こんどのオフの日、いっしょに行こうよ。オレも見たいのあったし丁度良いや」 「でっ、でも真波くん忙しいんじゃ・・・」 「え、べつに休みくらいあるよ。それに苗字さん、自転車見に行きたいんでしょ?」 信じられない事だが、私は真波くんとショッピングの約束をしてしまった。ああ神様、と、この日ばかりは天に感謝のお祈りをして寝た。 約束の日が来るまで毎日毎日、うれしくてうれしくて胸がいっぱいだった。 ◯ そして訪れたショッピングの日、私はおニューのワンピースを着て待ち合わせの小田原駅に立っていた。まだ彼氏なんて出来た事の無かった当時の私にとって、男の子とこんなふうに出掛けるのは初めてで、ましてや相手が王子様のような人だったが為に衣装選びは数日間に渡り難航した。 雑誌の情報、自分の好み、真波くんの好き(そう)な服・・・果たして何を優先して選べば良いのかとクローゼットの中身を総動員させた。 それでも納得いかず、結局新しい服を買った為その月の残りのお小遣いは2,020円となってしまったけど、服ひとつでこの先一生後悔よりはマシだと本気で思った。 東海道線改札口の上にある「小田原」とかかれた巨大提灯の下で待っていると、程なくして私の王子様は現れた。 Tシャツの上にカラーシャツを羽織り、下は淡いブルーデニムだった。シンプルだけど寒色系で爽やかにまとまっていた。 「おはよ、苗字さん。学校以外で会うの、なんかヘンなカンジだね〜」 「ま、真波くんおはよう!きょ、今日はよろしくお願いしますっ」 「よろしくー。じゃあ、行こっか」 まるでデートのような会話を交わし、真波くんと肩を並べて歩き出す。それだけで私は舞い上がってしまう。 真波くんと付き合ったらこんな感じなんだろうか。二人は、周りからカップルに見えるんだろうか。そう思ったら、ただ隣を歩いているだけでドキドキした。 「・・・・苗字さんは、ホントに好きなんだね〜」 「え?!な、なんで?!なにが?!」 「自転車。買いに行けるのが、そんなに嬉しいんでしょ?さっきから、ずーっとにこにこしてるもん」 まさか真波くんの事を好きな事がバレているのかと焦ったがそうではなく、良い具合に勘違いをしてくれたようだ。た、助かった....。 「女の子なのにロードが好きなんて、珍しいよね」 そう言った真波くんの声が心なしか弾んでる気がして、隣の彼を見上げる。そこにあった表情に胸が詰まって、私は思わず顔を背けてしまった。 「ま、真波くんこそ、なんでそんなニコニコしてるの....」 「え?だって嬉しいもん、こーゆーの」 こーゆーの、とは何の事を指すのだろう。自転車バカの真波くんの事だから、サイクルショップへ行ける事がだろうか。普通に考えれば、それ以外ありえない。 だけど、万が一・・・私が感じている嬉しさと、同じ理由だったら?・・・いやいや、そんなのはあるわけが無いけど。 自分に都合良く考えるのはやめようと思ったのに、真波くんは依然として春のお日さまみたいな笑顔で私の事を見つめていて、この勘違いを加速させるには充分だった。 好きな人にそんな顔で見られるのは、あまり心臓に良い事では無かった。というかむしろ、ものすごい破壊力で、私は息が出来なくなる程ドキドキした。 「どんな自転車が待ってるかな。苗字さんが好きになれるヤツに、出会えるといいね」 並んで電車を待っている間、真波くんはまるでこれからお見合いにでも立ち会うかのように言った。 「そうだね....でもまさか、真波くんがショップまで着いて来てくれると思わなかった。自転車部員が一緒なんてめちゃくちゃ心強いよ」 「そう?けどオレ、自分の好きなのしか詳しくないかも。苗字さんはどんな・・・・」 言いかけて、真波くんは言葉をつぐんだ。そして少し考えるような仕草をした後、何か思いついたのか嬉しそうに私を見た。そして突如、衝撃の単語を言い放った。 「なまえちゃん」 ・・・・え?! な、名前呼び?!さっきまで「苗字さん」だったじゃん、何で急に?! 「あれ?違ってたかな、下の名前・・・苗字なまえちゃん、じゃなかったっけ」 「あ、あ、合ってるけど、どどどどうして突然、」 「『苗字さん』より、キミと近い感じがするかなーって。でさ、なまえちゃんはどんな自転車に乗りたいの?」 私が目を白黒させているのも気にせず、真波くんは顔色ひとつ変えず話の続きをはじめる。 「ちょ、ちょっと待って真波くんっ。『キミと近い感じがする』って......な、なんで、その方が良いと思ったの.....?」 「え?なんでって....仲良くなりたいからだよ。もしかして名前で呼ばれるの、嫌?」 心配そうに顔を覗き込まれ、至近距離の真波くんに私の心臓は飛び跳ねる。 一瞬、ふわっと良い匂いがした。....さすが王子様。 「い、嫌じゃない....です」 「そっかー良かった。かわいい名前だよね〜」 「か、かわっ....!?」 「なまえちゃん。オレのことも、名前で呼んでいいよ」 「えぇっ!?」 「『さんがく』ってさ。オレ、自分の名前のが好きなんだ。『山』って入ってるし」 「............さ、さんが...........イヤイヤやっぱ無理、恥ずかしい!」 「えー、ケチ」 真波くんはそう言って口を尖らせてから、あははって楽しそうに笑った。 ・・・・な、なんだこれは・・・?!幸せすぎるんだけど・・・・! 心臓の鼓動が収まらない私と、相変わらず呑気な真波くんを乗せた電車は、乗り換えなしの快速で1時間弱の道のりを進んで行く。 真波くんの発言の意図は、考えたってわからなかった。だけど、ただでさえ暴走しがちな恋する乙女脳に勘違いをさせるには、もう充分な言動であった。 △ back ▽ |