恋に落ちる時は唐突に訪れた。 放課後、私は仲良くなったばかりの友人と二人で、明日の土曜日に芦ノ湖近くのカフェへ行く計画を立てるため、教室に居残っておしゃべりをしていた。 「ここのカフェ、ずっと行ってみたかったから嬉しい。明日が楽しみ」 「せっかくだからさ、登山鉄道やケーブルカーにも乗って行こうよ」 「いいね!芦ノ湖、地元だとむしろ行かないからねー。友だちと出掛けるってなったら小田原か、どうせなら横浜の方まで出ちゃうし」 「横浜といえばさ、隣のクラスの子がこの前・・・」 そんな調子で話題を飛び飛び話していたら、気がつけばすっかり時間が経ってしまっていた。 教室の窓の向こうには、オレンジ色の陽が沈みかけている。 まるで私が恋に落ちる瞬間までを数える、砂時計のようだった。 「わ、もうこんな時間なんだね。そろそろ帰らなきゃ」 慌てて帰り支度をし、教室を出ると辺りには人の気配が無かった。まだ部活に入っていなかった私は、そんな時間まで学校にいたのは初めてで、昼間とは別の場所みたいだと思った。 廊下のどこか遠くで、吹奏楽部の楽器の音がさみしげに響いている。 「いっぱいしゃべったから、お腹すいちゃった〜」 「こんな遅い時間まで学校にいたの、初めてだよ。うちら以外、誰もいないね」 下駄箱で靴を履き替え、笑い合いながら校舎を後にする。 校門に差し掛かった時、人の気配がした。複数の男子の声がして何となく見てみると、5、6人の男子生徒の姿があった。そして、人数分の自転車が壁に立てかけてある。 随分と体格の良い集団で、それだけですこし怯んでしまう。そして知り合いがいるはずも無いから、ろくに顔も見ず通り過ぎようとした。 「あれ・・・苗字さん?」 だけどまさか、その中の一人に名前を呼ばれたのだ。 顔を上げると、屈強な体育会系男子に混ざって、真波くんがいるではないか! 「え?真波くん!」 「やあ。キミ達、これから帰るの?」 「うん。おしゃべりしてたら、遅くなっちゃって・・・真波くんも、いま帰るところ?おつかれさま」 「え?ううん、まだ部活だよー。これから外のコース走りに行くから」 言われて見れば、確かに彼らは身体にフィットしたスポーツウェアを身にまとっていた。 え・・・自転車部って、こんな時間までやってるの? 「なんだ真波。入学したばかりでもう女子ファンができたのか?」 男子達の中の一人、カチューシャを着けたものすごく格好良い人が私達を指差してそう言った。イケメン....というか美人.....私は思わず見惚れながらも、でもそのカチューシャと、人を指差すというのは何なのだろうかとも思った。 っていうか、女子ファン? 私達は真波くんのファンだったのか?? 「ちがいますよぉ東堂さん。苗字さんは、オレのクラスメイトです」 「なんだそうだったか、それは失礼したな!ならば今日を機にこの美形のファンになってしまうかもしれんな」 ワッハッハと高笑いをするカチューシャのトードーさんの話を聞きながら、自転車部がこんな時間まで活動してる事に、内心驚いていた。 私達なんて夕暮れの学校が新鮮ではしゃいでたのに、真波くんはこの後もまだまだ練習だと当然のように言う。多分、毎日の事なのだろう。 いつも教室では可愛くて頼りない雰囲気だった、あの真波くんが、屈曲な身体の先輩達に囲まれてる。なんだか、驚きの連続だった。 ・・・真波くん、大丈夫なの? クラスにいると背の高い真波くんも、自転車部員の中に入ると、体の線が細くて華奢に見えた。 そんなひょろひょろで、そんなフワフワで・・・厳しい練習に着いていけるのかな。こんな時間までなんて、疲れちゃわないのかな。 ・・・まあ、でも、明日は土曜日で学校も休みだしね。 今日頑張ればお休みだから、無理しても大丈夫ってコトで遅くまで練習してるのかな。 「じゃあ、練習がんばってねー」 「ありがと、苗字さん」 そう言って笑顔で手を振った真波くんの姿が小さくなる頃、隣を歩いていた友人が興奮ぎみに「なまえちゃん、真波くんと仲良いの?!」と尋ねて来た。 「え、何で」 「だってなまえちゃんだけ、真波くんに名前で呼ばれてたよ〜!」 ・・・あ、そういえば確かに。「苗字さん」って、私の名前だけ呼んでたなぁ。 好きな事以外にはホントに無関心な人だから、今まで何回も聞き直されたけど、ようやく覚えたのか。 「ちがうよ、べつに仲良くないよ。隣の席なだけ」 「なんだ、そうなのかぁー。でもいいよね、真波くんの隣なんて」 「確かに目の保養になるよ〜」 笑い合いながら二人、家路へ向かった。真波くんが部活に着いて行けるか少し心配になった私だったけど、あれだけの自転車バカだし、それに明日は土曜日だし、きっと大丈夫なのだろう。 むしろそんなに好きな事に出会えるなんて、趣味も特技も無い私からしたら羨ましいくらいだ。 「おい真波よ。さっきの女子達・・・オレの事ばかり見ていたな?!」 「えー、そうですかぁ?」 ○ 翌、土曜日。 私たちは昨日の約束通り、芦ノ湖近くのカフェに行った。 店内の大きな窓から降り注いだ春の太陽が、私たちのテーブルに置かれたグラスや、食べかけのショートケーキをやさしく照らした。 中学までは友人とのお出かけといっても家や、近所の公園ばかりだった私にとって、こんな遠出はすこし大人になった気分だった。 高校生になるという事は、難しくなっていく勉強や将来の事などの悩み事も増える反面、自由な事も増えた。 端的にいえば、お小遣いが三千円から五千円にアップした。お小遣いが増える事、それはつまり行動範囲と選択肢が広がる事を意味する。ケーキだってドリンク付きのセットメニューにできるし、プリクラだって何枚も撮れるかもしれない。 大人になると色々大変らしいから、私は今のうちにエンジョイする事にしよう。まぁ真波くんほど何でも自由にとはいかなくとも、だ。 「なまえちゃん、部活なに入るか決めたー?」 「ううん、まだ。何か入りたいなとは思ってるんだけど....」 「やりたい事とかないの?昔やってた習い事の延長とかで」 「んんー・・・小学生の時、草野球ちょこっとやったけど・・・だからと言って、箱学のソフトボール部なんて無理だよ?!あそこ練習厳しいし、それに美人なセンパイ多くて恐縮しちゃうよー」 「あ!じゃあさ、自転車部のマネージャーは?」 チョコレートケーキをフォークですくいながら、目の前の友人が言った。あまりに脈絡が無くて、私は一瞬聞き間違いかと思った程だ。 「はぇ?自転車部・・・ってなんで?」 「だってなまえちゃん、真波くんといっつも自転車の話してるし」 「してない、してない!自転車トークは真波くんの完全な一方通行!!」 「えー。私、イイカンジだと思うけどな。昨日も名前で呼ばれてたし」 「やめてよー、真波くんのファンに殺される〜〜」 そこからは、じゃあどんな男の子がタイプか、とか、初恋はいつか、とかって二人で恋バナに花を咲かせた。 ケーキのお皿やジュースのグラスが空になった後も私たちはミネラルウォーターで限界まで粘り、気が付けば夕方近くになってしまっていた。 友だちとおしゃべりしてると、時間が経つのが早いなあ。 「でもさ・・・ホントに決めなきゃなあ、部活」 「そうだねぇ。なにか入るなら、そろそろ決めないといけないね」 話の続きをしながら、夕陽に染まる芦ノ湖を背にして、私達は帰路へ向かって歩き出した。 箱根は本当に坂道が多い。どこへ行くにしても、「歩く」というより「登山」である。 バス停を目指すだけで私達は、ハァハァとすこし息が上がっていた。 当時の私は、この町の魅力がてんで分からなかった。なんでこんな不便な土地に世界中から旅行者がやって来るのだろうと疑問に思っていた位だ。 坂だらけだし、道も狭いし、虫も多い。朝に響く鳥の鳴き声のけたたましさは、"さえずり"なんてカワイイもんじゃない。 生まれ育った町だから勿論、嫌いなわけじゃなかったけど、15年も生活していればもう特別な魅力も感じられなかった。むしろ嫌なところばかりが目についていた。 ようやくバス停の前に辿り着いた私たちは、疲れたねぇと笑い合いながら、次のバスの時間を確認しようとした。 その時・・・ 先ほど私達が歩いて来た芦ノ湖の方向から、何かの乗り物が駆け上がって来る音がした。 シャカシャカ、ゴォーゴォー、と、機械音のようなものが複数聴こえて来る。だけれどバイクとも車とも違う音だった。 不思議に思って坂の下の方を見た。 どうやら友人も同じだったようで、私たちは二人でそちらへ目線を送り、"その正体"が現れるのを待った。 そしてそれは、ほどなくして現れた。 だけど、"見えた"なんて思っている内に物凄いスピードで近付いて来て、あっという間に私たちの目の前に現れた。 それは、箱根学園自転車競技部だった。 まさかこの山道を自転車で走って来る人がいるとは思っていなかった私は、その選択肢だけは無かった。でも確かに、何かが回転するようなあの音は自転車の車輪だったのだろう。 10人程度の自転車部員達が、私達が歩くのもやっとだった激坂を滑るような速度で駆け上がって来る。私は信じられない気持ちで見つめた。 そして、何よりビックリだったのは−−− その集団の先頭にいたのは、なんとあの、真波くんだったのだ。 はじめ、それを真波くんだとは気付けなかった。 だって別人みたい、というか完全に別人だったからだ。 だからその"先頭の男の子"に目が奪われたのは、クラスメイトだと分かったからじゃなくて、その人にひときわ特別な気迫があったからだ。 後に続く部員達だって皆、身体も大きかったし速かった。一人残らず凄い人の集団である事が、雰囲気だけでも分かった。 だけどその先頭の彼は特別な存在感だった。 まるで飛ぶように軽くペダルを漕いで、ここが山道だなんて忘れさせる程に速かった。 ・・・しかも、笑顔だった。 それが真波くんだとようやく気付けたのは、ヘルメットの隙間から覗く青い髪が、いつも隣の席でみていたものと同じだったからだ。 −−−あれが、真波くん? 私は彼の事を、部活に着いていけるかなぁなんて心配してたのに・・・それどころか一番前を走ってる。 そして、誰よりも、楽しそうに。 自転車部の集団はあっという間に私達の目の前まで来て、そして一瞬で過ぎ去って行った。 真波くんがこちらに気付くかなと思ったけど、目が合う事さえ無くて、それがますます彼を遠くに感じさせた。 真波くん、笑ってた。 真波くんだけが、笑っていた。 それも、私が今までに見た彼のどの笑顔とも違っていた。 綺麗な瞳をこれでもかってくらい輝かせて、楽しくて幸福で仕方ないっていうのが、身体中から伝わって来た。 私が飽き飽きしていたこの箱根の自然が、私には何が楽しいんだか分からなかった自転車が、真波くんをあんなふうにさせているのだ。 「・・・びっくりした。あれ、真波くんだよね?」 自転車部が通り過ぎてから数秒経った後も、私たちは圧倒されたままのようだった。 友人の声に、ようやく我にかえる。 「う、うん・・・なんか、すごかった。自転車部って、こんな山道も走るんだね」 「そりゃそうだよー。自転車部って超厳しくて、軍隊みたいらしーよ」 ・・・すごいな。真波くん、そんなトコにいるんだ。 楽しそうではあったけど、きっと身体はキツイんだろうな・・・ それとも、もしキツくないんだとしたらそれ以上の努力をしてるって事だ。 ・・・どっちにしたって、すごいよ。 昨日だって、夜遅くまで練習してたんじゃないのか。 私はあんな時間まで学校にいたの初めてだったのに、真波くんは、当たり前みたいなカオして部活してた。そして、その後もまだ練習だって言ってた。 ・・・今日は土曜日だから、おやすみなんだと思ってたのに。 だけど違った。 私が放課後におしゃべりしてる間も、カフェでケーキ食べてる間も、真波くんはずっと、がんばってたんだ。 『真波くんみたいに、好きな事だけ自由に選ぶ生き方って楽で良いな。私だって、好きな事だけして生きていけたらどんなに良いかな』 −−−昨日まではそんなふうに思ってた、真波くんの事。 だけど、違った。 "好き"を選ぶには、覚悟と、努力が必要なんだ・・・。 「・・・かっこいいな」 ぽつりと呟いた私の言葉は、友人の耳には届かなかったようだ。 私の足元に茂った紫陽花のツボミ達だけが、うなずいたみたいに、そよ風に揺れた。 それは、私もクラスの女の子も知らない真波くんの努力を、ここでずっと見てきたからだろうか。 △ back ▽ |