- ナノ -






この町に来たのは、いつ振りになるのかな。






ここ小田原は、箱根山のふもとに位置する街だ。
よく来ていたのは、高校生の頃までだった。

私が通っていた箱根学園の周りにあるのは、ただただ広がる大自然と、温泉宿ばかりだった。
女子高生が放課後におしゃべりができるようなカフェもファストフードの店も無かった。だから放課後どこか寄っていこうかとなれば、足をのばすのはこの町・・・小田原が多かったのだ。

社会に出て働きはじめてからというもの、神奈川に帰る事すらなかなか叶わなかった。
転勤のある職に就いて、様々な土地を転々としていた。

久しぶりの帰省は、高校時代の女友達の結婚祝いのためだった。
今夜のお祝い会(兼、女同士の同窓会)のために、実家に前乗りして着替えて来たワンピースを翻しながら、懐かしい小田原の駅前アーケードを歩いた。目的の店を目指す道の途中、流れる景色を見ていると青春時代が蘇って来るようだった。



−−−私の高校生活といえば、ひたすら恋愛に身を焦がしてた。

それ以外の記憶を思い出せないってくらい、すごく好きだった人がいた。

・・・だけど結果は、3年間ずっと、片想い。

いま思い返すと笑ってしまうような執念深さ・・・もとい、一途さだけれど、当時は真剣だった。一生懸命に恋をしてた。

あの男の子とはすごく仲が良かったし、自分じゃイケそうな気がしてたのに、最後に勇気を出して告白した卒業式で見事にフラれてしまった。悲しくって、めちゃくちゃ泣いたっけなぁ。





・・・あの子が住んでいたのも、小田原だった。





もう何年も昔の話だ、今さら思い出しても胸が傷む事はなかった。
というかむしろ、良い青春の思い出だとさえ思えるようになった。
だって、本当に素敵な男の子だったんだもの。大人になった今思い出したって、そう胸を張って言える。
女子高生時代の私よ、なかなか見る目があるぞ。

だから私にとっては、あの子と仲が良かった事も、失恋した事も、一生忘れられない大切な思い出になってる。








−−−その時。
商店街の店先から、懐かしい香りが漂って来た。

香ばしい、小麦の香り・・・
わ・・・ここって、もしかして。
放課後にあの子と来た、パン屋さんじゃないかな?


私は嬉しくなって、お店のガラス窓越しに中を覗きこむ。
窓のすぐ横に、おいしそうなパンがころころと並んでいる。
パリ風の、おしゃれで可愛い店内には、テーブル席もいくつかみえた。
間違いない。高校時代に、あの子と来たパン屋さんだ!うわぁ、まだ有ったんだ・・・嬉しいっ。
このイートインコーナーで放課後、パンを買って食べたなあ・・・ふふっ、懐かしいな。





−−−その時だった。

パン屋さんの扉が開いて、中から人が出て来た。





ガラス窓を覗き込んでいた私は恥ずかしくなって、咄嗟に身を起こす。
何気なく、その人の姿を見る−−−この少し寂しい商店街には似合わないような、爽やかで華のある男の人だった。
ただ背が高いというだけじゃなくて手足も長くて、まるでモデルさんみたい−−−そしてその整った顔には、見覚えがあった。







「・・・・真波くん・・・・」






間違い無い。

間違えるはずも、無かった。

真波山岳くん−−−それは高校時代、ずっと好きだった男の子だったから。





「わっ、久しぶり!卒業以来?うわぁ、懐かしい〜〜!真波くんってまだ小田原に住んでるの?あ、それとも私と一緒で、帰省してたとか?」


まさか会えるなんて夢にも思っていなかった私は、興奮して彼に話しかけた。
目の前にいる真波くんは、すっかり大人になっていて。そりゃそうか、私だって年を重ねたし、周りにはちらほら結婚するような同級生だっているような年齢だ。

真波くんの顔立ちは、少年らしさの残る高校時代と比べると、精悍な大人の男の顔へと変わっていた。
だけどその瞳が、あの頃のままだった。
真っ青な波を重ねた海みたいな彼の瞳が、ぱちくりと、私を見て瞬いた。
・・・そして次の言葉に、私は息を呑む。




「えーと・・・。ごめん、誰だっけ」




きょとんとした表情で真波くんは言った。

−−−え、と言葉になり切れなかった声が、空気のように私の唇から漏れた。




「わあ、降り始めたわね」



すれ違った見知らぬ主婦が、カバンから折り畳み傘を取り出しながら言った。


天気予報通りの雨だった。

しかもこの雨は今日を境に何日も降り続く長雨になると、朝に実家のリビングで見たニュースで言っていた。
そういう長い雨を、霖雨(りんう)というのだとも。





"一生忘れられない思い出" だったのは・・・どうやら私だけだったみたいだ。

真波くんと仲良くしてた事を未だに誇らしく思っていた事も、あの頃の夢をついこの間も見た事も、フラれた事さえ青春時代の宝物って思って大事に大事に持ち続けていたのも−−−どうやら全部、私だけのようだった。

・・・そっか。
そうよね。





今思えば、止まない雨のような恋だった。

だけど、それは恋に落ちた時からだったから、私は雨の中にいる事を最後まで気づけないまま高校3年間をすごした。
いつから降ってたのかも、晴れる事など無いのだという事にも・・・。

ねぇ、真波くん。
あなたはもしかしたら、気づいていたの?

だけど優しいから、最後の最後まで教えてくれなかったの?







告白した卒業式の日、彼が言った言葉を、私はもう一度思い出す。
その言葉の意味が、今になって身体に染み込んで来る。
パン屋の前のレンガ調ブロックに、水たまりができはじめていた。




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