10話

 最善の策などありはしない。ただどうにかして練りだしたものを最善に運んでいくしかない。頭では分かっていた。いくら仮想空間でシミュレートしたって、現実ではほとんどが上手くいかない。
 だからだろうか、雲雀恭弥は綿密な計画を立てることには消極的だった。最終的な目標を決め、必要な箇所だけを抑えれば後の不安要素は都度消していくしかない、という姿勢だった。
『……彼は一番最初でいい』
 だからまさか雲雀が彼のことで口を出すとは思わなかった。正直入れ替えの順序について、雲雀や笹川、クローム髑髏以外に関してはさほど重要視していなかった。それぞれの役目があり、それを果たせば順番は後で決めればいいと思っていた。
『……どうして?』
『必要ない』
『そんなことは無いと思うけど。綱吉君が退場した後のまとめ役は彼だ』
『要らない』
『…邪魔、なの?』
 そう尋ねると雲雀は眼球だけ動かして入江を見た。いつもと同じ冷たく鋭い瞳だったが、どこか悲しそうだったのは見間違いだろうか。
『あれ以上傷つく必要はない』

死に至る愛 I

 人差し指で白い鍵盤を押す。久しぶりの感触だった。ボタンとも違う、キーボードとはもっと違う、ピアノの鍵盤独特の押し心地。Cの音は余韻を響かせ、やがて消えていく。
 果たして今の自分はちゃんと弾けるのだろうか。そもそも楽譜を読めるのだろうか。
 入江に頼んで持ってきてもらった楽譜本を開き、椅子に座りなおす。今の自分は恐らくブルクミュラーだって弾けはしない。基礎の基礎、幼稚園児が初めて弾くような本を開き、その簡素な楽譜にホッと息を吐いた。
 一曲ずつ、指の動きを確かめるように弾いていく。最初は指先が上手く動かない。そして慣れてくると手首のぎこちなさが目立ってくる。連符の形がまるで崩れているものだから、思わず笑ってしまいそうになった。
 しかし楽しいと感じるのはなぜだろう。手も動かなければ足もまるでダメ。ペダルが演奏の邪魔になるなんて、ちゃんと引けていたころの自分が知れば腹を抱えて馬鹿にするだろう。それなのに楽しい。
 一曲、そして一曲。短くて簡単で綺麗な曲を弾き連ねる。
 本当は好きだったのかもしれない。好きだと言えるものはこれだったのかもしれない。つい笑ってしまいそうになり、ハッと顔を上げた。ついでに集中していて気付かなかった気配を感じ、後ろを振り向く。
 少し離れたそこにあるのは一人用のソファ。いつもは空だが、知らぬ間に雲雀が鎮座していた。ハードカバーの本をいつものようにのんびりと自分の世界で読んでいる。
 突然昨日の晩飯でのことを思い出し、動揺で椅子に足をぶつけた。気まずさと、ピアノのおかげで忘れていた黒い靄がまた。
「…いつからいたんだよ」
 そう尋ねると、雲雀は少しだけ顔を上げて獄寺を見た。そしてすぐに視線を落とし、ページをめくる。
「今演奏している本を開き始めた頃」
「言えよ!」
「集中しているようだったから」
「くそっ」
「今弾いていた曲は何?」
 恥ずかしさと苛立ちからもうやめてしまおうと楽譜に手を伸ばしかけた時、雲雀が遮るようにぱたりと本を閉じた。そしてゆったりとした動作で立ち上がり、一歩こちらへ近づく。
「聞いたことがある」
「今、って…」
 手元の楽譜に視線を落とす。今さっき弾いていた曲は幼い頃より何度も弾いてきたものだった。流石に指が覚えていたのか、今日演奏した中では一番きれいに弾けたような気がする。
「…メヌエット」
「めぬ…何? どういう意味?」
「は?! あ、いや…確か、ワルツみたいな?」
「ワルツ?」
「だから、その…三拍子で踊る…」
「さんびょうし」
「……いち、に、さん、ってやつ」
「ああ」
 指で三角を描くように説明してやるとようやく伝わったようで、雲雀はそれ以上尋ねてこなかった。まるで何も知らない子供に教えているみたいだ。たった一瞬だったのにひどく疲れた。しかし脱力したのもつかの間、再び雲雀の視線がこちらを向く。
「で、メヌエットはワルツなの?」
「ああっ、クソ…っだからァ! みたいなっつっただろ」
「違うんだ?」
「ワルツはもっと速いんだよ、テンポが。あとあれだ、作られた時代が違うっつーか」
「曖昧な違いなんだね」
「……じゃあ、オレが好きな方がメヌエット」
「そっちの方がよほど分かりやすい」
「区別付かねぇ奴がよく言う…」
 雲雀の冗談とやらは突然だから心臓に悪い。獄寺は大きくため息を吐き、楽譜のページをもう一枚めくった。次も素直な曲だった。どうせ雲雀には読めまい。それなのにどうして構ってくるのか。
「…興味ねぇなら無理して訊くなよ」
「なぜ興味が無いと思うの」
「なんも知らねーじゃん」
「弾ける曲ならある」
「嘘つけ嘘つけ。三拍子も知らないヤツが何を…」
「どいて」
「うわっ」
 押しのけられ、椅子から転げ落ちる。雲雀は黙って椅子の高さを調整し、ピアノの正面に座った。まるで弾き方を知っているかのような姿勢をする。
 白い鍵盤に指を置き、真剣な視線が手元に注がれる。そして雲雀が弾き始めたのは、
「……並中の校歌じゃねーか!」
 どこかで聞いたことあるメロディーと迷いなく弾く様子から紡ぎだされたのは並盛中学の校歌だ。毎回歌う機会があるたびに風紀委員の声ばかりが体育館や校庭に響く、あのむさくるしくてダサい曲。雲雀は着メロにしていたくらい好きだったのだから弾けるのは当然か、と妙に納得した。
 丁寧に二番まで弾き始めようとしているのを慌てて止め「わかったわかった」と頷く。このまま放っておくと弾き語りまで始めそうだから恐ろしい。
「分かった。お前なら弾けるだろうな」
「…? これは君から教わった」
「は? 知らねぇよ」
「並中にいた時」
「いやだから知らねえって」
「覚えていないだけだよ」
「…まあそういうことにしといてやるか…」
 今の自分ならまだしも、中学生の自分が雲雀に何かを教えてやるなんて想像もできない。話しかけられただけで睨んでいた覚えがあるくらいだ。雲雀もきっと違う誰かと勘違いしているのだろう。
「…はあ、頑張って練習したんだな」
「弾けるに越したことはないからね」
「校歌に対してそんなこと言うの世界でお前だけだろ…」
 何の話をしていたらこんな結果になってしまったんだっけ。どこかズレた感性の雲雀に着いていけず、頭を抱える。
 しかしなぜだろうか、会話を今すぐ切り上げたいという気持ちは無かった。話の通じにくい相手ではあるが、苦痛ではない。思わず笑ってしまいそうになり、俯いて口元を抑える。
「……変な奴」
「君の方が変」
「あ!?」
「続き、弾いたら?」
 雲雀が立ち上がり、獄寺に椅子を譲る。そしてあくびをしながら再びソファに戻っていった。
 また本を読み始める。まだ三分の一程度しか読んでいないようだ。
 BGM程度にはなれるだろうか、と考え直し、椅子を引く。ゆっくりと息を吸い、鍵盤を叩いた。



『あった! そういう学校の七不思議』
 画面の向こうで沢田が口を開けてゲラゲラと笑っている。昔話、特段自分たちの青春であった中学高校時代の話をする時はいつもこんなテンションだ。沢田も山本も笹川も、みんなそう。獄寺は水をくいと飲み、なんとか中学時代を思い出そうと目を瞑った。
「ありましたっけ」
『えーっ、そういう話は獄寺くんの方が得意なはずなのに覚えてないんだね』
「10年も前のことなので……」
『一時期話題になったじゃん。夕暮れ時に音楽室からピアノで校歌練習する音が聞こえるって』
「あったような、なかったような…」
『んでさあ、音楽室覗きに行くとさっきまで校内巡回してたはずのヒバリさんが校歌弾いてるっていう』
「…あったかも…しれないっすねー…?」
『まあでもすぐ聞こえなくなったから記憶に残ってないのは仕方ないかも』
 逆に沢田はそんな些細なことでもよく覚えているものだ。その頃の沢田にとって雲雀は記憶に残すべき存在だったのだろう。恐れ怯えつつも大切な仲間の一人だったのだ。
 ふと昼間の会話を思い出す。雲雀は校歌の弾き方を獄寺から教わったと言っていた。あの時はまさかそんなことはあるまいと否定したが、それも獄寺が忘れているだけで本当は教えてやったことがあるのかもしれない。
「…覚えてないこと、色々ありそうっすね、オレ」
『獄寺くんにとって大切なことだけ覚えておけばいいんじゃないかなぁ』
「大切なこと…」
 思い返してみれば覚えていることの大半は沢田絡みのことばかりだ。季節ごとの行事とか、テスト勉強と称して集まったこととか、ボンゴレを巡った争いとか、いつも沢田がいて他の仲間もいた時のことばかり。今の獄寺はあの頃の思い出に支えられている。楽しくて尊かったあの日々。それ以前のことは曖昧にしか覚えていない。
『…獄寺くん』
「はい」
『話は変わるんだけど、この前言ってた正一くんの話』
「あっ、えっと、」
 考えていたことがぱちりと弾けて消える。思い出すのは昨日の朝よろよろと部屋に来て採血していった入江の顔だ。疲れているどころの話ではなく、ほぼミイラのようなものだった。掛けるべき言葉も出ず、カウンセリングの話などできずに見送るしかなかった。あんな状態の入江に頼むなんて鬼畜の所業以外の何物でもない。
 獄寺は慌てて手を振り、頭を下げる。
「あの話は忘れてください! 正式なものを受けますので…」
『話を聞くだけならいいよって』
「え?」
『ヒバリさんが』
「ヒッ、ヒバリが!?」
 思いもよらない単語が飛び出し、思わず声が裏返る。拍子に思い切り咳き込み、喉から変なものが出そうになった。聞き間違いかもしれない、と顔を上げるが、画面の向こうで沢田が再度『ヒバリさん』と繰り返す。
『まあでも獄寺くんは正一くんを指名したわけだし、ヒバリさんが代打ってのはちょっと違うよねぇ』
「いえ、あの…」
 疑問符が頭の中から消えてくれない。だって昼間はそんな素振りを見せなかったじゃないか。それともわざわざピアノを弾く獄寺の後ろで本を読んでいたのは、話を聞く真似事をしようとしたかったからなのだろうか。
 脳内の情報を整理するため、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。嫌な汗が額を伝う。
「な、なんでヒバリが?」
『昨日の夜正一くんと話してたらいつの間にかヒバリさんがいて…話すつもりは無かったんだけど、ごめん』
「いえ、それはいいんですけど…」
『あでもヒバリさん話聞くのは結構上手だと思うよ』
「……」
 情報量が多すぎて何も頭に入ってこない。いや逆に至極単純な話をしているのかもしれないが、最初の話が理解の範疇を超えていてそれ以降が何も分からない。
 獄寺は机に肘をつき、うんと項垂れた。カメラの画角から外れ、机に伏してしまいそうになる。
「……なんつーか、その…なんでかなって…思って……」
『うーん、なんでだろ。それはなんとも』
「そう、ですよね…」
 断ろうにも厚意らしくある分気まずさに阻まれる。だからと言って雲雀に心の内を話せるかというと、それは無理に近い。胃が締め付けられるのを感じ、案外繊細な身体をしているのだと知る。今まで人間関係を自分に都合のいい範囲にとどめてきたツケだ。
『……ああ、でも……白蘭倒す計画話してた時、』
「…?」
『その、三人で話したときね? 本当に最初の頃、ヒバリさん、オレの死亡偽装嫌がってたんだよね』
「……はあ」
 突然生え出た話題に気の抜けた相槌を打つ。沢田は一つ一つ丁寧に思い出すように遠くを見ていた。
『それが一番やりやすいから結局はそうなったんだけど、どうして反対したのかなってちょっと考えてて…』
「ハイ」
『偽装するんならさ、死んだところちゃんと見せなきゃダメだろ? そうなると君の目にも入るんだなって、多分分かってたんだと思う』
「…オレ、ですか?」
『オレが死んだら獄寺くんはとても…とても傷つくよね。申し訳ないけどそれでもオレはやるべきだと思った』
「あ、いえ…」
 申し訳ないのはこちらだ。感情に流されやすい自分の悪い癖だ。それが計画の足を引っ張っていたのなら最初に入れ替えてしまうのは道理だろう。
『…でもそれは、ヒバリさんにとっては重要だったんじゃないのかな』
「……ん?」
『ヒバリさんは、君が傷つくのがすごく嫌だったんじゃないかなって』
「……ちょっと、それは……分かんないっすけど…」
『え、分かんない?』
「分かんないっすね…」
 やはり話の繋がりを見いだせず、頭が混乱している。沢田としては論理的な話をしているようだが、獄寺の頭はそれを噛み砕くことが出来ない。
 なぜ獄寺が傷つくことにより雲雀に影響を与えるのか。
 そもそもなぜ雲雀が獄寺の事情を慮るのか。
 そしてなぜ、それが獄寺の話を聞くことにつながるのか。
「……よく分からないです」
『うーん』
「カウンセリング云々の件に関しては少し考えますので時間をください」
『あ、うん。全然いいと思うよ。獄寺くんのペースで』
 丁度会話が落ち着いたところで沢田の背後から声がする。恐らく笹川か山本あたりが呼んでいるのだろう。沢田は一言断りを入れ、通話を落とした。
 暗くなった画面に自分の顔が映る。毎日ほとんど休暇みたいなものだが、どうして疲れているのだろう。薄い頬と濃淡のない肌色。暗く沈んだ目を見つめ、ため息を吐く。何もかも、獄寺には分からないことばかりだ。

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