二人で鍋を食べる話


【十二月六日】

「波江さん、今日は鍋がいいなぁ。」

臨也が急にそう呟いたのは午後六時を回った頃。
波江は何を言ってるんだ、とでも言いたげな顔をして後ろに立つ臨也を睨みあげた。たった今、晩御飯を作っているというのに何を言い出すのだろうかこの男は。そもそもお前が夜は肉じゃががいい、とか言うから仕方なく作ってやっているというのに。

「無理よ。もう作り終えたもの。」
「うーん、まあ肉じゃがもいいんだけどさ。やっぱ冬は鍋じゃない?」
「無理なもんは無理よ。」

波江は自然な動作でエプロンを取ると、それを臨也に押し付けて台所を後にした。

「じゃあ明日は?」
「明日はあなた夜まで出かけるんでしょう。さっき言ってたばかりじゃない。」
「あれ…そうだった?」

ヘラリ、と笑う臨也は相変わらず胡散臭いし腹が立つウザさだった。
波江は呆れたようにため息を吐くと少し笑ってみせた。

「この歳にしてボケが始まってるんじゃない?」
「やだな、怖いこと言わないでよね。」

それじゃあ、明日の午後。
そう言って波江は事務所を出た。







【十二月八日】

「一週間前に鍋食べたじゃん。」

ケロリとした顔で波江の手元をのぞき込む臨也をこれほど殴りたいと思ったことはない。その綺麗な顔に拳を入れてやろうかと波江は空いている左手を握り締めた。

「あなた二日前に何言ったか覚えてないの?あなたが食べたいって言ったのよ。いい加減にして。これ以上文句言うなら作らないし食べないわよ。」
「あれれ、そんなこと言ったかなぁ。」

クルクルと回りながら臨也は台所から出ていく。恐らく身の危険を感じたのだろう。流石平和島静雄と日常戦争紛いのことを行っているだけある。危機予知能力はあるらしい。
波江も波江でこの気まぐれで読めない上司にはいい加減慣れた。苛立つ気持ちをある程度抑えてリビングに向かう。

「ガスコンロどこいったのさ。」
「台所よ。そんなところにあるわけ無いでしょう。」
「冬は鍋やることが多いから机の下に置いといてって言ったじゃん。」
「そんなことしたら片付かないでしょ。」

ガスコンロを机の上に設置して鍋を置き、火をつける。臨也はソファに座った。

ふと、波江の頭に一週間前の晩飯のことが思い浮かんだ。そういえばこんなやりとりをその時もしなかっただろうか。

「…あなたからかってるの?」
「はぁ?なんでそうなるの。」

波江はじっと黙って臨也を見た。どうも素で分かっていないようだったからだ。

「もうそろそろいいかな。」
「いいんじゃないの。」

波江はミトンをはめて鍋の蓋を取った。中では中華なべが煮立っている。
臨也は水餃子を口に運ぶと嬉しそうに笑った。年相当の普通の若者の笑みだった。

「美味しいね。波江さんも食べたら?」
「あなたに言われなくても食べてる。」

また、一週間前と同じ会話をしていた。







【十二月十日】

その日はまた平和島静雄と遭遇した。遭遇、と言っても向こうから見たらの話だ。臨也はどうせまたわざと来たのだろうとその場に居合わせたセルティは思った。

「あっれー?シズちゃん。」

その一言から勃発する喧嘩は生易しいもんじゃない。一言でいうなら戦争。生憎止める術を持ち合わせていないセルティ
は、激情して周りが見えてるか見えてないか分からない静雄に一言言葉を打って仕事に戻ることにした。

後ろで自販機が飛ぶのは見なかったことにした。


*****



今日も今日とて酷い怪我だ。日常的すぎて逆に安心する。いや、そもそもこんな男に安心感や安定感を求めるのは間違っているのだが。

「動かないでちょうだい。」
「いたっ…波江さんもっと優しくやっ…痛い痛い!!」

唯一と言っていい端麗な顔も怪我をしてしまえばなくなる。せめてもの傷は残さないように丁寧に手当をした。

「全く、シズちゃんも野蛮だよねぇ。」
「あなたの言えたことじゃないわ。」

怪我の手当て中の臨也は大抵大人しい。
しかし今回はやたら痛がった。よっぽど酷かったのだろう。単に平和島静雄の機嫌が元から悪かったのか、喧嘩の最中に臨也が余計なことを言ってさらに激情させたのか。どちらにせよ波江は特に気にしなかった。聞こうにもどうせ覚えてないのだし、そもそもこんな男心配する必要はないのだから。

「波江さん、鍋食べたい。」
「一昨日食べたばかりよ。」
「鍋。」
「…。」

お前は駄々を捏ねる子供か、と突っ込んでやりたい。

「一人で食べれば。」
「俺にぼっち鍋をしろっていうの?さみしいなぁ〜」
「そもそも今日は誠司と食事をするの。朝にもそう言っておいたでしょう。」
「そんなこと聞いてないね。」

波江は右腕に絆創膏を貼ると、乱暴に服の袖を直して手当てを終えた。そしてソファに座ったままの臨也を見下す。

「部下の予定くらい覚えておいたらどうなの。」

そう言って、残りの仕事に取り掛かった。



「…やらかした…。」

臨也が漏らした言葉は波江の耳には届かなかった。







【十二月二十日】

久しぶりに外に出て池袋の街を歩く。情報によれば平和島静雄も今日は出歩いていないようなので鉢合わせはないだろう。悠々と街の人間たちを観察しながら臨也は1つスキップをした。
この街並みは好きだ。見渡す限り昼も夜も人がいる。それも様々な人がいる。学生や社会人。フリーターやバリバリの営業マン。デート中の男女もいれば別れ話をしている夫婦もいる。

「さぁて、次はどこだっけ。」

臨也はコートからメモを取り出すとそれを眺めた。そこには今日やるべきことが並んでいた。しかし全てチェックが入っていた。終わったということだ。
普段ならこんなことはしない。この習慣を始めたのはつい最近だった。
自分は異常かもしれない、と自覚し始めたのは一月ほど前だった。最初は小さな物忘れ程度に考えていたがそれが何日も続いたときは流石に焦った。医者には行っていないから確信を得たわけじゃない。しかしこれは自分の体だ。よくわかってるつもりだった。

「…帰るか、な。」

メモの端には『波江、晩御飯』と小さく書かれていた。あれ以来メモには波江の予定も書き込むようになった。もう二度と忘れてしまわぬように。

臨也は踵を返すと一歩を踏み出した。
しかし、ピタリとその場に止まる。

「…あれ…?」

瞬間、自分の頭を疑った。そして立ち往生した自分の足を見つめる。だが足は動いてくれない。

「……どっちだっけ…?」

その言葉が自然に口から出た途端に頭からサッと熱が引いた。珍しく足も震える。
まさか帰り道を忘れるとは思わなかった。池袋のことなら余さず知っていると思っていたのに今は何もない。頭の中は空っぽだった。
ポケットから携帯を取り出してアドレス帳を開く。お気に入り登録してある波江のアドレスを開いて電話をかけようと指を伸ばして、ふと止めた。
電話をかけたとして、自分の今の状況をどう説明する?まさか迷いましたなんて言えない。それになにより波江にだけはこのことを知られたくはなかった。
混乱してくると何もかも思い出せなくなる。今まで何していたかも、これからどこに行くのかも。手の中のメモに書かれた『波江、晩御飯』の意味さえ思い出せなくなっていた。











【十二月二十一日】

「随分と遅い帰りじゃない。」

波江は目の前に立つ男に向かって仁王立ちをした。随分と待たされたものだ。昨日の昼に『今日の晩御飯は一緒に食べるからね!』と念を押して出ていった男が朝帰りとは。
しかし臨也は何も言わずに玄関で立ち尽くしている。さすがの波江もいつもと違う臨也の様子に訝しげに顔を歪めた。

「…エアコンみたいな……ああ、そう…竜ヶ峰帝人と会っててさ。」
「遅くなるのなら連絡を入れて。あなたのために無駄な時間を費やしたくないの。」
「うん…ごめん。」

臨也はやけに素直に謝った。それに怯んだ波江が一歩退く。

「…波江さん、ご飯。」
「台所に置いてあるわ。…じゃ、私は帰るから。」
「待って。一緒に食べてよ。」

帰る支度をして出ていこうとする波江の腕を掴む。波江が露骨に嫌そうな顔を見せると臨也は力なく笑った。そしてそのまま波江を引き寄せて抱きしめる。

「お願い。」
「私お腹すいてないの。」
「いてくれるだけでいい。」
「…終わったらすぐ帰らせてもらうから。」

そう言うと波江は臨也の胸板を押して体から離れた。

「ご飯、なに。」
「鯖の味噌煮。」

波江の作った鯖の味噌煮の味が自然と思い出される。ちょっと薄目の味噌の味は好みに合っていたんだ、そういえば。

まだ覚えてる。それだけで安心したような気がした。

【十二月二十五日】

なんでクリスマスまであなたといなくちゃならないのかしら。

隣で食材を選ぶ波江が呟いた。
臨也はヘラリと笑って大げさに肩をすくめる。

「これも仕事のうちだよ。君が望んだことだ。」
「こんな我侭な王様とクリスマス一緒に食事だなんてとんだブラック企業だわ。」

街はもう夜だ。なぜ夜になってから晩御飯の食事を買いに来たかという理由は臨也にある。
夕方、その日の仕事を終えて帰ろうとしていた波江に突然臨也が『鍋食べたい』と言い出したのだ。
『もう帰るところだけど。』と言うと『今日予定ないんでしょ。』と引き止められて今に至る。
誠司は張間美香とクリスマスデート中だ。そう考えると妙に粟立って仕方ないから紛らわせるためだ、と自分に言い聞かせて臨也についてきた。

「何鍋にするの?」
「キムチ鍋。…それ取って頂戴。」
「血のクリスマスってこと?いいね。」
「ぶん殴るわよ。」

臨也は豚肉を取ると波江に渡した。波江は値段を確かめて籠に入れる。

「キムチは?」
「一番辛いの」

波江は髪を耳にかけてサッサと先に進んでいく。臨也はふと立ち止まって波江の背中を見つめた。いつも見ているはずの背中が一瞬誰だか分からなかった。なんの区別もないただの女性の背中に見えてしまった。

「…何やってるの。」
「…ん、今行くよ、

言葉が出てこない。
誰だったかな。

「 」

その背中はもう景色と同化して見えた。





【一月三日】

十二月にずっと感じていた違和感が具現化して波江の手に落ちた。





「どちら様?」

ドアを半分開いたまま、こちらを探るような目で臨也が見た。まるで予約にない客を相手するかのように波江とのあいだに壁を作っていた。

「…ふざけてるのならやめてちょうだい。」
「残念だけど素性も知らない人は入れられないなぁ。」

波江はため息をついて臨也に背を向ける。向かうところは一つだ。岸谷新羅、折原臨也の級友であり医者のところだった。しかしその時、

「…波江?」

振り返ると臨也は苦しそうに波江を見つめていた。




*****



「…辞めたら?」

向かい合って座る臨也はふいに口を開いた。波江がその目をじっと見ると臨也も見つめ返した。

「何様のつもり。いきなり年始めから職失えっていうの。」
「今月分くらいなら払うよ。」
「…。」

口を開いて反論をしようとすると臨也は牽制するように封筒を机に出した。

「…そう。」

波江は封筒をそっと手に取ると荷物をまとめて玄関へ向かった。もう履くことも許されなくなったスリッパでパタパタと音を立てて歩く。そして玄関先で綺麗に揃えて勢い良く外へ出ていく。
その様子は傍からみればまるで喧嘩別れした恋人の家を出ていく女のようだった。現実はそんな簡単な感情の話ではなかったが。

部屋に残された臨也はついさっきまで波江が座っていた空間を見つめる。いつもの通り緑のセーターにスカートだった。ロングのストレートの髪も鮮明に覚えてる。けれどどうしても顔の部分だけ白い靄がかかったように曖昧で見えなかった。

「……何してたんだっけ。」

窓の外では朝日が昇り始めていた。

















【一月二十七日】

岸谷新羅はそうかもね。と呟いた。

臨也が零した弱音。

「…辞めた方がいいかな。」

何を指しているのかは言わずとも新羅には伝わった。新羅は回転椅子に座り、くるりと一つ回ってみせると少しだけ笑った。

「まぁ、一種の記憶障害だからこれからどうなるかなんて定まってないんだ。ある日突然今までのこと全部忘れてただの折原臨也になるかもしれないし、今みたいにまちまちの記憶のままこの先ずっと生きていくことになるかもしれない。完全な予防策や治療法なんてものは残念ながらこの世にはない。それは君もよく知っているだろうけどね。」
「はは…それはほんとに楽しそうだ。」

臨也は自虐的な笑みを浮かべた。これからのことが想像つかない。元々想像つかない、日々変動する毎日を送っていたことには変わりないのだが妙に不安を掻き立てられた。

「…そのためにも自分の記憶になってくれる人がいるんじゃないかな。」
「記憶ねぇ…。」
「それだけでも安心感は全然違うと思うけど。」

真っ先に頭に浮かんだのはだいぶ前に出ていったきり姿を見ていない彼女の顔。今頃どうしているか、なんて考えもしなかったけど一度考え始めると頭の中は彼女の事で占められた。

「俺が言えるのはそれだけかな。」
「ああうん。充分だよ。」

臨也は立ち上がってコートを着ると玄関を向かおうとして立ち止まった。

「えっと…?」
「そこを左にまっすぐ。」
「…それじゃ。」

友人の家の構造も忘れてしまうだなんて恐ろしいことだ。



*****



先日帰り道を忘れてしまった時からは地図を持ち歩くようにしていた。短い散歩であれば忘れないようだったが、今回のように長い外出だといざ帰ろうとするとスッポリと帰り道が抜け落ちてしまう。臨也は地図を取り出して恐る恐る一歩踏み出す。この一歩を踏み出す度に少しだけ惨めで情けない気持ちになった。

「まさかこの街で迷子になるだなんてね…。」

いっそのこと引退して悠々自適にどこかのどかなところで暮らしてやろうか。と冗談混じりに考えて、止めた。今の生活を投げ捨てるだなんて真似は絶対にできない。考えられない。なんの凹凸もない生活をするくらいなら死んだほうがマシだ。

「…鍋食べたいなぁ…。」

呟いた言葉は宙に浮かんで消えた。








【一月三十日】

その男から電話が来たのは突然だった。

画面に映る『折原臨也』の文字に波江ははてなマークを浮かべた。
あの部屋に行かなくなってからもうすぐで1ヶ月経つ。なんの音沙汰もなかったのにどうして急に。

「…はい。」
『波江さーん?なにやってんの?無断欠業は減給だよ?』
「は?あなたが辞め……いえ、」

波江はふと言葉を止めた。
臨也の口から明確に聞いたのではない。しかし波江は何となく気づいていた。臨也の物忘れや記憶違いはわざとではないのだと。

「…今から行くわ。」
『じゃあ鍋の材料買ってきてよ。食べたい。』
「何鍋にするの。」
『なんでもいい。波江さんチョイスでさ。』

プツリ、と電話が切れると波江は携帯をしまってホテルを出た。

馬鹿な男だ。自分から遠ざけておけたならアドレスを消すくらい徹底すれば戻ることもなかったのに。



*****



持ったままだった合鍵はまだ使えるようだった。わざとか否か本人にしか分からないことだが、この事例に関しては本人だって曖昧な記憶なまま生きているのだから仕方が無い。

「…波江さん…。」
「朝に急用が出来て来れなかったの。トマト鍋でいいかしら。」
「なんでいるのさ。俺が呼んだわけ?」
「仕事よ。」

ああ、覚えてないのか。つい三十分ほど前のことだというのに。臨也の痴呆がどれほど深刻かは正確には分からなかったが良くはないのだということを痛感した。

「…何鍋?」
「トマト鍋。」
「この間食べたばっかじゃん。」
「そうね。でも食べたいの。私が作るんだから文句言わないで頂戴。」
「嘘。…嘘だ。この前食べたのは去年のはずだ。」
「そうだったかしら。覚えてないわ。」

波江は淡々と作業を始めた。机に置いてあるファイリングされた書類を手馴れた要領で揃えていく。臨也はその横で呆然と立ったまま波江をただ見ていた。

「…戻るの?」
「そうね。」
「嘘つかないでよ。」
「嘘じゃないわ。」
「違う。これからのこと。」

臨也は倒れ込むようにソファに座った。ぐらりと上体が揺れながら波江を見る。
波江は一旦手を止めて黙って臨也の言葉を待った。

「分かってるとは思うけど俺こんななの。自分じゃ情けなけどさぁ、一旦分からなくなったことがウソかホントか分かんなくなっちゃうんだよね。だから波江さんには本当でいて欲しいんだよ。」
「…私を信用してるってわけね。」
「それしかないからね。」

そういうと臨也はいつものいやらしいような笑顔を見せた。腹立たしい表情の筈なのに久しぶりに見るせいか懐かしく感じた。

「で、今日何鍋?」
「トマト鍋。さっきも言ったわ。」
「あっそう。楽しみにしてるね。」

臨也の声がワントーン上がった。









♀♂









【三月四日】

味噌煮込みうどんが土鍋一杯に入ったのを覗き見した臨也は嬉しそうに笑った。

「なになに、今日は味噌煮込みうどんなの?これ鍋って言う?」
「うるさいわね。鍋に入ってればなんでも鍋になるのよ。」
「変なところで雑だよね、波江って。」
「そんなこと言ってると帰るわよ。」
「あっ、それは何よりも酷い仕打ちだ。」

セリフとは裏腹に恍惚とした表情をする臨也を無視して波江は土鍋を持ち上げた。そして食事場へ運ぶ。

「あれ、ガスコンロは?机の下に置いておいたろ。」
「それは四ヶ月以上前の話。台所。」
「冬場は鍋が多いから机の下に置いとく方が楽だって。」
「もう冬も終わりよ。今日で鍋は終わり。」
「えっ、そんな!最後の鍋が味噌煮込みうどん?そりゃあないよ。」
「文句言うなら食べなくていいのよ。」
「いっただっきまーす!」

臨也は波江の横に腰掛けると菜箸で器用にうどんと具を取り皿につけた。波江は妙に距離が近い臨也に嫌そうに顔を歪めながらも何も言わなかった。そして自分もとりつけ始める。

「美味しい。」
「そうね。」
「次は何鍋にする?」
「言ったでしょう、これでしばらく鍋は休みよ。」
「熱っ…そうだっけ。残念。」

本格的に春になるのはもう少し後の話。


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