08 無防備な女

蝉がじりじりと鳴き出した。
日中の日差しは厳しく、アスファルトは陽炎を生み出している。
この時期の非常に厄介なものは、突発性の局所的雷雨である。東南アジアのスコールを思わせる激しさで、その中では傘はあまり意味を持たない。
私は郵便局の軒先で溜息をついた。
母の遣いで郵便物を出しに来たはいいが、帰ろうとした矢先にざぁざぁと雨が降り出した。何とか帰れるかと帰宅を試みて飛び出したものの、目の前が煙るほどの雨にあえなく郵便局の軒先まで戻ったのだった。

「あ、七海ー!」

この煙る雨の中で、黄色い傘が見えた。何度か見たことがある。ミョウジさんの傘だ。
彼女は私を見つけるとこちらに駆け出し、郵便局の軒先まで辿り着いて傘を閉じた。

「雨やばいねぇ」

ミョウジさんは傘をさしていたというのに、そんなことは関係ないかのように足元から髪までずぶ濡れだ。

「この雨の中を傘でなんとかしようというのは無謀でしょう」
「あはは、やっぱり?」

ぴちゃん、と彼女の毛先から滴がしたたり落ちる。
Tシャツが体に張り付いて目に毒だ。私は自分の着ていたパーカーを脱ぎ、彼女の肩に被せた。

「ん?今日は寒くないよ?」
「そういうことじゃありません」

ミョウジさんは私がパーカーを貸した意図などわかっていないようで、こてんと小首をかしげている。
少しは自分がどんな格好になってしまっているかを自覚してほしい。

「七海は郵便局に用事?」
「はい。母の遣いで」

彼女の方を一度も見ずにそう言うと「偉いね」と褒めるような言葉が返ってきて、子供扱いされたようでむっとした。
言い返してやろう、と口を開いたとき、目の前の道を4トンくらいのトラックがざぁっと走り去っていく。それが泥を跳ね、雨宿りをしていた軒先まで容赦なく汚した。

「あちゃー、これは派手にやられちゃったね」

雨に濡らされていた服は、そろいもそろって泥だらけになっていた。
季節柄、ここまで濡れたところで寒いとは思わないが、汚れた服の感触はもちろん不快である。

「七海、うち行こ。服洗濯してあげる」
「は?」

ミョウジさんの突拍子もない発案に、私は間の抜けた声しか返すことが出来なかった。
彼女は私の返事など待たず、パッと手を引いて雨の中へ駆け出してしまう。

「ちょっと、ミョウジさん!?」
「あはは!気持ちー!」

ざぁざぁと煙る土砂降り。傘をさしたって意味はないだろうが、10代の男女がこんな雨の中を閉じた傘片手に走る姿は、さぞ奇妙に見えることだろう。
すれ違う車の中から、まさに奇妙なものを見るような視線を感じた気がした。けれど彼女が楽しそうに笑っているところを見ると、そんなことさえどうでもいいことのように思えた。

郵便局にほど近いとはいえ、あの大雨の中では彼女の家につく頃には上から下まで隙間なく濡れてしまっていた。下着が大して濡れていないことだけが救いかもしれない。
ミョウジさんはポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込みカチャンと回す。彼女の部屋はアパートの2階の角部屋だった。

「はいどうぞー。散らかっててごめんね」
「いや、ミョウジさん、流石にお邪魔するのは…」
「え、どうして?」

どうしてって。普通に考えたらわかるだろう。ひとり暮らしの女性の家にみだりに男を上げるなんて。
いやそれとも、彼女にとってはこんなこと普通だって言うのか。もしくはそんな対象だと見られてもいないとか。
そう考えていたらいつぞや書店で見かけたハイバラという男のことが脳裏に浮かび、勝手に腹立たしくなった。

「お邪魔します」

気がつくと、私は一歩進んで敷居を跨いでいた。斜め後ろでミョウジさんの暢気な声でもう一度「はいどうぞー」と聞こえる。

「七海、服脱ぐついでにお風呂であったまりなよ。洗濯その間にしとくし。あ、お風呂そっちね、着替えは…ちょっと探してくる」

ミョウジさんはトントンとそう言って、脱衣所からバスタオルを二枚引っ掴むと一枚を自分で、もう一枚を私に押し付けた。
待て、それはいくらなんでもまずい。

「あの、流石にそれは…」
「え?」

本当に何も考えていませんといった表情だった。それからいくつか間があって「あー、ごめん、昔の癖」と気まずそうに謝った。なんだ、昔の癖って…。

「じゃあ着替えるだけ着替えなよ。泥んこの服は洗濯して乾燥機かけるから。受験生が風邪ひいたら大変でしょ」

へらっと笑う彼女に「せめてアナタが先に着替えてください。風邪をひかれたら気分が悪い」と言い返した。
ぽかんとした顔になったあと「3分待ってて!」と言ってミョウジさんが玄関のそばの脱衣所に消えていく。
私はその間、頭にかけられたバスタオルで雨粒を拭っていた。

「ちっ…」

さらさらと衣擦れの音が聞こえる。濡れ鼠のまま上がるわけにもいかないし、彼女が着替えを終えるまでここを動くことは出来ないだろう。
単身者向けのアパートだからなのか、風呂は玄関のすぐそばだ。気を逸らそうとしても、想像をかき立てる音を意識せずにいることは不可能だった。
しばらくでごそごそと物音がしたあと、ミョウジさんがひょっこり顔を出した。

「はい、お待たせ、七海」

まだ濡れたままの髪にタオルを引っ掛け、上下はゆるく首元の開いた薄いグレーのスウェット姿だった。
どきりと心臓が鳴る。なんでこのひとはこんなにも無防備なんだ。

「さっき思い出したんだけどね、七海が着れそうなスウェットあったと思うから持ってくるね」

正直彼女の話はろくに聞こえて来なくて、私は生返事だけをして背中を押されるまま脱衣所に引っ込んだ。
数分で「ドアの前に着替えおいとくね」という彼女の声が聞こえて、足音が遠ざかったのを確認してから細くドアを開けて引っ張りこむようにして着替えを掴む。彼女の着ていたのと同じ、薄いグレーのスウェットだった。
雨の被害を免れた下着をつけ、スウェットの上下に体を滑り込ませる。メンズサイズなのか、丈は私の体でも充分に間に合った。

「すみません、着替えありがとうございます」

そう言って、明かりの漏れている奥へと進むと、ミョウジさんがローテーブルの前に座っていた。
部屋にはベッドとカラーボックスとローテーブル、それから小さいテレビがあった。
ローテーブルの上にはグラスがふたつ置いてある。

「いーえ。雨、止むまで雨宿りしていきなよ」
「…それじゃあ」

もうここまできて、しかも着替えまで借りてしまえば、雨宿りを断るもの変な気がする。と自分に言い訳をして、彼女の斜め右に腰をおろした。
というかなんでこんな、私が着れるようなサイズの部屋着があるんだ、と思い「これは」と誰のものか尋ねようとすると「通販でサイズ間違えたんだよね」と返ってきた。
よかった。これがもし誰か他の、例えばあのハイバラという男のものだと言われたら今すぐ脱ぎ捨てていたことだろう。
私はいつの間にか、あのハイバラという男をひどく意識するようになっていた。当然だった。私が知り得るミョウジさんの数少ない友人のようだからだ。

「水出しコーヒーだよ。なんかね、普通のコーヒーより苦みが少なくなるんだって」
「いただきます」

グラスに注がれていたのは、コーヒーらしい。ミョウジさんはガムシロップをひとつ入れた。
飾り気のない透明なグラスを持ち上げ、ごくりと口に含む。確かに、ホットで飲んだり氷を入れて冷やしたりするコーヒーよりすっきりとしている。

「美味しいですね」
「気に入った?」
「はい」

よかった。と言ってミョウジさんが笑った。
「洗濯機回してくる」と断り、ミョウジさんが立ち上がる。私は不躾と思いながらも、そろりと視線だけで部屋を見回した。
年頃の女性の部屋というものに足を踏み入れたのは初めてのことだったが、想像していたよりもなんというか、ごちゃごちゃしていないんだなと思った。
この狭い空間に生活用品のすべてを詰め込んでいるのだから、自分の部屋よりはよっぽど物は多いが、ぬいぐるみだとか可愛らしい柄のクッションだとか、そういうものは見当たらない。
カーテンは少し冷たい黄色で、ラグは翡翠のような青みがかった緑色だった。

「ごめんごめん、お待たせー」

そうしているうちに、ミョウジさんが脱衣所の洗濯機から戻ってきて、また同じ場所にぽすんと座る。ここが彼女の定位置らしい。
ミョウジさんはグラスを持ち上げ、ごくんとひとくちコーヒーを飲む、喉が上下に動いた。

「雨、意外に止まないね」
「そうですね。普段ならすぐ止むところですが」

薄暗い窓の外ではざぁざぁと雨が降り続いている。
不意に、ピカッと空が光った。七秒ほど遅れて、ゴロゴロゴロと雷が鳴った。

「ありゃ、雷まで鳴りだしたねぇ」

まだ昼間だというのに、悪天候のせいで外は暗く、電気のつけられた室内は夜のようにも感じられた。
また外が光り、少し遅れてゴロゴロと雷の音がする。

「七海は雷苦手じゃないの?」
「まぁ、特には…。ミョウジさんも平気そうですね」
「うん。怖くはないかな」

ピカッ。外が光る。ゴロゴロという音は先ほどより大きく、また光と音までの間隔は狭くなっている。雷雲が近づいている証拠だ。
ミョウジさんはグラスを持ちながら窓の外を眺めており、本当に少しも怖くはないようだった。

「…ミョウジさんは、何か怖いものとかあるんですか?」
「私?」

自分でも何故尋ねたのかよくわからない質問だった。ミョウジさんも少し驚いたような顔をしている。
ピカッ。外がまた光る。ゴロゴロという音は、間近で大太鼓を叩かれるような振動を伝える。「そうだなぁ」と言ってミョウジさんが考えている間に、また外が光り、今度はその光りと殆ど同時にけたたましい音が鳴り響いた。

「私が怖いのはーーー」

雷鳴がミョウジさんの言葉をかき消し、部屋の電気がばつんと切れた。停電だ。近くに落ちたのだろう。

「停電だね」
「そうですね。ブレーカー見てきましょうか」
「あ、一緒に行くよ」

ミョウジさんはスマホのライトをつけ、足元を照らしながら廊下に向かう。私もその後ろをついて歩いた。
ブレーカーは玄関のそばにあり、ミョウジさんに明りをもらいながらカバーを開ける。落ちているレバーを順にあげると、ちかちかと予備動作があってから電気が復旧した。

「ありがとー。七海は背が高いから踏み台もいらないね」

ミョウジさんがへらりと笑う。手元を照らしてもらっていたために思いもよらない近さにミョウジさんがいて、私は少しのけぞった。
彼女は少しも気にした様子はなくて、踵を返すと部屋のほうへ戻っていく。
ミョウジさんには、怖いものなど何もないように思えた。

「七海、コーヒーのおかわりいる?」
「…いただきます」

こんなに強いひとに怖いものがあるのなら、それはきっと相当に恐ろしいものなのだろう。
ミョウジさんのことを知りたいと思うのに、ますます解らなくなってしまう。
洗濯機が乾燥を終えて止まるまでの二時間、私はミョウジさんの部屋で緊張しながら居心地悪く過ごし、轟く雷鳴が遠ざかっていくのをじっと数えていた。

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