06 雨が嫌いな女

同期のミョウジは雨が降ると、目に見えて覇気をなくす女性だ。

「あー、今日も雨ぇ?」
「梅雨だからね」

高専の教室で座学の授業の時間を待つあいだ、私は先週買った本を開いていた。
私は比較的雨の日というものが好きだ。
雨粒によって音が遮断され、外界から隔離されたような感覚になれる。すると不思議に集中力が上がり、積んでいる本をすいすいと消化できる。
ぐっと目の前が影になり、ミョウジがこちらを覗き込んできたのだとわかった。
大きな目がじっと本の背表紙を観察する。

「七海、また本読んでるの?」
「いいでしょう。またって何ですか」

また始まった。私が本を開くと、読書に興味のないらしい彼女はいつもこうして邪魔をする。灰原も後ろでにこにこ笑うだけで止めようとしないのだから始末が悪い。

「アナタも少しは本を読んだらどうですか」
「えぇぇ…活字って見てるだけで眠くなっちゃうんだもん…」
「あはは、ミョウジが本読んでるところ見たことないもんね」

灰原は笑ったが、そういう彼だって活字にはめっぽう弱かったと記憶している。
二人はどことなく波長が似ていて、人の良さそうな顔で笑い、社交的で、多少短慮なところはあるがそれがまた愛嬌でもあった。

「七海、おすすめ教えてよ」

七海のおすすめなら読めるかも。と、ミョウジは調子のいいことを言った。
私ははぁ、とため息をついて、彼女にも読めそうな本は何かなかっただろうかと考えをめぐらせる。
読みなれていないなら、きっと私が普段読んでいるものよりもテンポよく読めるもののほうがいいだろう。

「今度何冊か持ってきます」
「ありがと、七海。待ってる」

そう言って、ミョウジは嬉しそうに笑った。彼女の笑顔は、いつもどこか私の心を安らげる。同じ笑顔でも、これだけは灰原と違うところだ。
私は「ちゃんと読んでくださいよ」とあしらう振りをして、ミョウジのきらきらした視線から逃れた。

数週間後、ミョウジは貸した本を片手に嬉々として私に言った。

「七海!貸してくれた本読んだよ!」
「寝ずに読めたんですか?」
「うわっ、辛辣」

彼女に貸したのは、比較的読みやすそうな日本人作家のミステリだった。
恐らくこうして本をあまり読まない人間には、映像を自らの想像力だけで想像するよりもなにか分かりやすい見本があったほうが良いと思い、映画化されているものを選んだ。
この本が原作になっている映画を見たかと尋ねたら、予告しか見たことがないと返ってきた。おあつらえ向きだ。

「すっごい面白かった!まさかミキさんが犯人なんて思わなかった!」
「ラストのトリックは見事ですよね」
「うん!すっかり騙されたよ!」

ミョウジは嬉々として本の感想を語った。
私が貸した本はどうやらお気に召したらしい。勧めたものを気に入ってもらえることは存外心地よかった。

「七海、また本貸してよ、七海のおすすめ読みたい」

ミョウジがにこにこ笑う。今度はどんな本を勧めようか。私は寮室にある自分の本棚のラインナップを、頭の中で右から順番に見直した。


初めての繁忙期が終わった一年の夏、あまりの暑さに何を思ったか、灰原が打ち水をしようと言い出した。
ミョウジは透けないようにとジャージを着て、灰原と私は半袖のTシャツにハーフパンツ姿だ。この時点で、打ち水といいつつそれだけでは済まないだろうことは確定したも同然だった。

「灰原ー!水出すよー!」
「オッケー!」

灰原がホースの先を持ち、ミョウジがホースの繋がれた水栓の前に立っていて、まさに蛇口を捻ろうとしているところだった。
ミョウジが蛇口を捻り、だらんと伸びたホースの中を水が通っていく気配がする。あっという間にホースの先端に水が辿り着き、どっと勢いよく吹き出た。

「ミョウジ!水の勢い強すぎない!?」
「こんくらいでちょうどいいって!」

ミョウジは灰原のもとに駆け寄って、とくとくと流れる水に手を浸す。「冷たい!」と当たり前のことを大きな声で言った。

「はしゃぐのも良いですが、少しは落ち着いたらどうですか」
「七海が落ち着きすぎなんだよ。ねぇ、灰原」
「そうそう。七海もこっち来てよ!」

私はフゥーっと息をついて、はしゃぐ同級生二人に歩み寄る。
あと1メートルほどの距離になったところで、ミョウジが手のひらに溜めた水を「えい」と私に向けて放った。

「あはは、気持ちいいでしょ?」
「…ミョウジ…」

私が凄むのもお構いなしでミョウジがカラカラと笑った。その奥で灰原も同じようにして笑っている。
クソ、どうせこうなるだろうとは思っていたが、いの一番にやられたことが気に入らない。
私はずんずんと二歩で灰原まで近づき、ホースを奪い取ると迷わずミョウジ目掛けて放水した。

「うわっ!ちょ…七海ぃ!?」
「先に仕掛けたのはアナタでしょう」

ばちゃん、と大げさな音を立てて水がミョウジにぶつかり、逃れようと走り出したからすかさず追った。灰原は私の隣で大笑いしていて、君も同罪だ、と灰原にも水をひっかけた。

「わ!僕も!?」
「当たり前です」
「ははは!灰原びしょびしょじゃん!」

どの口が言うのか、と言ってやろうと思ったが、今度は灰原がホースを私から奪い主導権を握ったためにそれは叶わなかった。
ホースを手にした灰原がミョウジを追いかけ、ミョウジがぎゃーぎゃー大声を上げながら逃げる。

「七海!」
「灰原…!」

少し離れた場所で傍観しようとしていたら、灰原がそれは許さないとばかりにホースをこちらに向けてきた。
頭からどっぷり水を浴びて、髪の先からぽたぽた雫が滴り落ちる。

「これで三人お揃いだね」

ミョウジがそう言って、ふと顔を上げると逆光の中でミョウジが笑っていた。
時間が止まったようだと思った。

「あー、水浴び最高」
「すっかり打ち水じゃなくなってるね」
「でもほら、こんなにおっきい水たまり作ったんだからきっと効果抜群だよ」

一連の水の掛け合いで生まれた大きな水たまりを、ミョウジがひょいっと跳んで避けた。
水滴がきらきらと陽光を乱反射する。そのひとつひとつが彼女を飾り、一等輝かせて見せる。
まるでプリマドンナのようだ、と、自分でも呆れてしまうほどキザなセリフが浮かんで気恥ずかしくなった。

「七海?」
「…なんでもありません」

どくんどくんと心臓が鳴った。夏の暑さがどんどん水分を蒸散させていく。
だというのに、私の胸に宿った熱は一向に冷める様子を見せることはなかった。


私はミョウジが好きだ。
夏だったか、秋だったか、いつ頃からそう思い始めたかは正直よくわからない。いつの間にか彼女は私の心の中に棲みつき、目が離せないようになってしまっていた。
それを知っていたのは、灰原だけだった。

「七海って、ミョウジのこと好きだよね」
「…気のせいでしょう」
「あ、やっぱり」

一年生の冬、二人で派遣された任務終わりのホテルで灰原が言った。
灰原はにこにこひとの良さそうな笑みを浮かべる。
見透かされていた羞恥心と、今更誤魔化せないだろうという諦めで私はフゥーっと息をついた。

「僕応援するよ。何か協力出来ることある?」
「…結構です。もとより言うつもりはありませんから」
「え、告白しないの?」

しませんよ。と灰原の言葉を被せ気味に断ち切ると、不思議そうにこちらを見る。

「なんで?」
「なんでも何も、こんないつ死ぬかもわからない身で誰かを好きだなんて言えるわけないでしょう」

呪術師は、常に死と隣り合わせの場所にいる。
朝なんでもない顔をして挨拶を交わした相手が、その日の夕方には跡形もなくなっている、ということも珍しくない。
そんな人間同士が特別に想い合うなんて、どんな結末になるかは想像に難くない。

「いつ死ぬかもわからないからこそ、じゃない?」

灰原は、静かな声で言ってみせた。
その声があまりに普段と違うように聞こえて、私は思わず息を飲んだ。灰原は、時々恐ろしいくらいに粛然たる空気を放つ。
だからと言って、この考えを譲るつもりはない。

「灰原の意見も一理ありますが、こればっかりは譲れませんよ。気持ちはありがたいですけど、余計なことはしないで下さい」

私が持論を述べ釘を刺すと、灰原は不服そうに唇を尖らせた。16歳にもなって男のする顔か。

「えー、じゃあ七海はもし呪いもなんにもない世界だったとしたら、ミョウジに好きって言ってた?」
「そんなタラレバは無意味でしょう」
「いいからいいから」

灰原に乗せられて、私はそんな意味のないタラレバに思いを馳せる。
例えば呪いもなにもない世界で、私とミョウジはただの学生で、少なくとも常日頃から命を危険にさらすようなことはない、そんな世界だったなら。

「…言うと思いますよ」

言えるものなら言いたい。ミョウジの笑顔を見ていると、胸の中心がやわらかくなって、わけもなく安心できる。くだらない話をしているだけで、どこか心穏やかになれる。
明日も明後日も、その先もずっと、毎日会いたいと思う。
そういう気持ちを燻ぶらせているのだと、打ち明けてしまいたい。


「七海、灰原、おかえり!」

三人で任務に当たることもあったが、私と灰原が二人で出ることの方がどちらかと言うと多かった。
高専にミョウジが残った日は、必ずと言っていいほどミョウジは門のところで私たちを出迎えた。

「ただいま!ミョウジ」
「ただいま」

ミョウジと三人並んで寮を目指す。
別に取り決めたとかそういうわけではないけれど、私たちは三人で揃って食事をとることが多かった。先輩たちも何かと三人で行動することが多いようだし、同級生が少ないこの環境ではある種当然のことなのかもしれない。

「ミョウジは今日待機だったっけ?」
「そのはずだったんだけどさぁ、五条さんに呼び出されて一日中コキ使われた」

あの先輩は、やたらとミョウジに構いたがる節がある。今日は一体何に巻き込まれたかはわからないが、どうせくだらないことに決まっている。
私は買出しに使われるミョウジを勝手に想像して勝手にイラついた。

「ミョウジはいい加減ちゃんと断ることを覚えたらどうですか」
「えぇぇ…でも五条さんの無茶振り断るって至難の業じゃない?」

それはそうだろうが、彼女はもとより断るという気がないようにも見える。
まさかああして絡まれることを嫌だと思っていないのか?だとしたら状況はもっと最悪だ。

「大丈夫だよ七海!僕は七海を応援するから!」
「灰原…」

私は思わず眉間を押さえた。「どうしたの?」とミョウジが言って、流石に灰原は一から十まで説明するような真似はしなかったが「なんでもないよ!」と言い訳をする姿は充分に何でもある。
言うつもりがないと知ってるのだから、バレてしまいそうな危うい真似は辞めてほしい。

「今日は鍋パーティーだよ!ふふ、美味しい鶏団子のレシピ見つけてきたから楽しみにしてて!」

ミョウジが深追いをしなかったおかげで、なんとか難は逃れた。
それから灰原の部屋に集まり、三人で鍋を囲んだ。ミョウジが見つけてきたという鶏団子のレシピは大葉をたくさん使うらしく、いつもと違った風味で三人ともすぐに気に入った。
冬の間はそうして何度も鍋を囲み、春になるころミョウジは「来年も冬になったら三人で鍋しようね」と言った。
私たちは三人で過ごすなんでもない時間を、とても大切にしていた。
口では「いつ死ぬかもわからない」と言いながら、私はこの時間が、いつまでも続けばいいとずっと思っていた。

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