02 平麺を食べる女

あの怪しい女と遭遇してから、二週間が経過していた。もちろん連絡はしていない。
けれど、あのヨレヨレの字で書かれたメモを私は処分できないでいた。
学校では三年生が卒業した。あと二週間もすれば自分たちが最終学年になる。
中高一貫校だったので卒業するころにはそこそこの寂しさなんてものもあるのかもしれない。今はまだ想像もできないが。

予備校のない学校帰り、参考書を買いに書店へ足を運んだ。目的のものを手に取り、それから何か面白い新刊が出ていないかと文学の棚に向かうと、そこで私はあの女を見つけてしまった。
今日は制服ではなく私服のようで、ラフなジーンズとカットソー姿だった。じっと文学の既刊の棚を見つめている。
あれだけ奇妙な出会い方をした女だ。何か面倒ごとに巻き込まれても厄介だな、と今日は文学の棚に立ち寄ることを諦めようとした。

「…何か探してるんですか」

はずなのに。
気がつくと私は彼女に声をかけていた。

「えっ…あ!七海!」
「声が大きいです」
「ご、ごめん」

振り返った彼女はびっくりした顔をして、あまりに大きい声で私の名前を呼ぶものだから嗜めると、慌てて自分の口を塞いでいた。

「それで、何か探してるんですか?」
「あ、うん。でもここにはないみたい。七海もなんか探しに来たの?」
「いえ、特には。何か新刊が出ていないかと思いまして」
「そっか」

変な感じだ。知らない女のはずなのに、するすると言葉が出てくる。
あれだけ怪しいと警戒しておいて、いざ目の前にするとそんな感覚は嘘のように思えてくる。
まるでこうして何の気なしに話す間柄のようなーー。

「七海?」

駄目だ、私は何を考えているんだろう。
私は「では」と適当に彼女との話を切り上げて、参考書の会計をしてしまおうとレジに足を向ける。すると袖をぐい、と引かれ、思わずよろけた。

「…なんですか」
「えと、あの、その…ご飯食べに行かない?」

彼女は言いあぐねるような、いくつも言葉を選んでいるようなふうでそう言った。
自分で引き止めたくせに、やっぱり変な女だ。

「…いいですよ」

どうして了承してしまう気になったのか、自分でも上手く説明ができない。
けれど私の言葉に「本当に?」と言って目をきらきらさせる彼女を見ると、どこか満たされるような妙な心地になった。
「店の外で待っててください」と言えば、彼女は嬉しそうに「うん、待ってるね」と笑った。


夕飯は友人と食べて帰る、という旨を母に連絡し、駅前のファミリーレストランに二人で向かった。
友人と言うのは方便だ。べつに彼女のことを友人と思っているわけではない。
2人がけのテーブル席に通されて、彼女は窓側に、私は通路側に座った。

「七海何にする?」
「…チーズハンバーグとアヒージョにします」
「ふふ、アヒージョやっぱ好きなんだ」

彼女の言葉に私は眉をぴくりと動かした。
まかり間違ってもそんなことは一言も言ったことがないはずだ。私の怪訝な雰囲気を察したようで、目の前の彼女の顔がサッと青くなるのが見えた。

「うそ!うそうそ!今のナシ!!」

彼女は両手をぶんぶんと振って自分の発言を取り消そうとする。
会議などで発言を撤回するのならばいざ知らず、聞いてしまったものは取り消せるわけもない。
しかし友人が言っていたように彼女がストーカーなどの類かというと、それは考え辛かった。それにしては、些か犯行が杜撰すぎるからだ。

「別にいいです。さっさと決めてください」

私の言葉にとりあえず彼女は両手を下ろし、メニューをぺらぺらめくる。
何度かページを行ったり来たりしてしばらく迷うと、パスタのページを開いて指をさす。

「私はフェットチーネのカルボナーラにしよっかな」

また平麺か。彼女と食の好みは分かり合えないな。
ーーまた?

「七海、店員さん呼んじゃうよ?」
「え、あ、はい。どうぞ」

彼女の声で意識が呼び戻される。
私は今何を考えていた?どうして彼女の好みに「また」なんて。
しばらくでテーブルに現れた店員に、それぞれ自分のものを注文する。アルバイトだろう店員の顔はどこかで見たことがあった。家の近くのファミレスだから仕方ないのかもしれない。

「七海はこの辺に住んでるの?」
「まぁ、はい」

「そうなんだ」と彼女は嬉しそうに笑う。
動揺して個人情報をさも当然のように答えてしまった。でもやはり彼女にそれを悪用してやろうとか、そういう雰囲気は読み取れない。

「…アナタは、この辺なんですか」
「私?私は引っ越してきたんだよ。春からこっちの大学に通うの」

私はこのとき、初めて彼女がひとつ年上だということを知った。
この前は制服だったから、勝手に同い年かとばかり思っていた。
それなら尚のこと、知り合いにはいそうにない。ひと学年上の女性なんて、親戚にも昔の付き合いにもないはずだ。

「これからご近所さんだね」

また嬉しそうに彼女が笑った。
にっと笑う顔にはどこか見覚えがあるようで、まるで思い出せない。

「あ!ストーカーとかそういうのじゃないよ!」
「わかってます」

そんな話をしているうちに注文した料理が届き、二人で手を合わせて食事を始めた。
「美味しいね」と彼女が言って、まぁ確かに、誰かととる食事はいいものだな、と私はぼんやり考えた。
彼女はぺろりとカルボナーラを平らげた。行儀のよい食べ方に悪い気はしなかった。

「はぁー美味しかった!ここのファミレスレベル高いね」
「そうですね。学校にも近いですし、学生には便利ですよ」

食事を終える頃には、彼女と私は普通に話すようになっていた。
元より彼女は気安い様子だったけれど、それがもっと自然になったように感じる。

「七海の家はこっち?」
「はい。アナタは?」
「私はたぶんこっちの…アレ、郵便局がある大通りの向こうの…コンビニのほう。だから多分こっち方面だと思う」

越してきたばかりだという彼女はこのあたりには土地勘がないらしい。郵便局の方角というなら私の家とは反対側だ。しかも、近所と言うには恐らく些か遠いだろう。

「郵便局の方なら反対側ですよ」
「え、うそ」

そう教えてやると、彼女は慌ててスマホを取り出して自分の家までのマップでも見ているのか、右に左に画面を動かした。
「私はこれで」と言って踵を返せば、背後から大きな声で名前を呼ばれる。

「七海!」
「…なんですか」

今日、平然と声をかけた私に、どうして連絡くれなかったの、と、会ってから彼女は一度も咎めなかった。
言われたって別に元々連絡してやる義理もないのだから、と咎められたときのこと考えていたのに、言われなければ言われないで収まりが悪い。

「…今日は会えてよかった!またね!」

またね。なんて連絡先も知らないくせに。
私は咄嗟に彼女の腕を引いていた。彼女はひどく驚いた顔でこちらを見ていた。

「…連絡先の紙を、無くしました」

気がつくと、私は嘘をついていた。
あの紙は今も捨てられずに机の一番上の引き出しに仕舞ってあるというのに。

「もう一度聞いても?」

彼女は驚いた顔のまま、次第に頬を緩めて笑った。その笑顔に、わけもなく私は安堵した。
彼女はよく笑う女だ。


翌日の放課後、予備校で授業前の自主学習をしていると、どさ、と隣の席に荷物が置かれる音がした。
顔を向ければ、いつもの友人の姿があった。

「や、七海」
「今日は少し遅いですね」
「あー、学校の後輩に告白されてさ。呼び出されてたんだよね」

それで。と友人は簡潔に理由を述べる。
彼の通う高校は共学で、しかも彼はよくモテるようだから、こういう理由は少なくなかった。

「相変わらずモテますね」
「そうでもないさ。七海は?学校にいい子いないのかい?」
「私が男子校だって知っているでしょう」
「はは、冗談だよ」

私はフゥーと大きく息をついた。そういうことに偏見があるわけじゃないが、私はストレートだ。知っているくせに変な冗談はやめて欲しい。
私は参考書に向き直り、今日の予習を再会する。友人も隣で筆記用具やノート、テキストなどを用意し始めた。

「そういえば、昨日七海のこと駅前で見かけたよ」
「君の最寄ですか?」

彼とは同じ予備校だが、駅で数えると数駅離れている。昨日はファミレスに行った後真っ直ぐ家に帰ったから、彼の最寄だというなら人違いだろう。
彼はにっと笑った。

「七海の家のほう。駅前のファミレスで女の子と一緒だっただろ?」

見られていたのか、と別に悪いことをしているわけではないのに気まずさを覚える。
私が通路側に座っていたから、外から見たとしてもきっと丸わかりだったはずだ。

「あの子は?七海の彼女かい?」
「違います。ただの知人です」
「へぇ、七海がただの知人とあんなに楽しそうに食事をするなんて知らなかったよ」

クソ。ああ言えばこう言う。この友人はいつもそうだ。
悪いやつじゃないのは確かだが、普段の素行に反してひとをからかうのが好きな側面がある。

「これ以上からかうのはやめてください、ひっぱたきますよ」

眉間を押さえながらそう注意をすると、悪びれもせず愉快そうに笑った。

「七海って前からモテるだろう?なのに女の子の影っていままで全然なかったから。ちょっと気になったんだよね」

なにをいけしゃあしゃあと。今日も告白をされていたのはそっちじゃないか。

「夏油君に言われたくないです」

自分だって告白をこと断り続けているくせによく言う。
隣でまだにやにやと笑う夏油君との会話をそこでぶった切って、私は自分の参考書に戻った。

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