01 霊感商法の女

『七海、ねぇ見てよ』

なんですか、ちゃんと見てますよ。
どうせまたくだらないことでしょう。

『ちょっと、聞いてる?』

聞いてますよ、アナタこそ、私の話聞いてましたか。

『元気でね、死なないでよ』

当たり前でしょう。
どちらかと言えば、そういうのを気にしなきゃならないのはアナタの方だ。

『七海!』

なんですか。

『私、七海と同期になれてよかった!』

それは私の台詞だ。
アナタがいたから私はーー。


小さい頃から、何度も見る夢がある。知らない女性と話している夢。
顔はおぼろげでよく見えない上に、目が覚めると「話した」ということ以外の殆どのことを忘れてしまうのだから、会話の内容さえ未だにわからない。
けれど確かに私はいつもその女性と話をしている。
黒い、詰襟の学生服のような服装で、けれどこの辺で見たことのあるようなデザインではない。渦巻きのボタンが特徴的で、それが校章か何かかと思ったこともあるがそれもイマイチ確信は持てない。
とにかく夢はいつも柔らかく、じんわりと光の満たされるような感覚だけが残されていた。

「またこの夢か…」

この夢はひどく心地いい。
だから私は、昔からこの夢が恐ろしかった。


季節は春の始まり、三月。
私は都内の中高一貫の私立男子高校に通っている。
偏差値はそこそこ高く、自分で言うのも何だがいわゆる難関校である。

「おはよー、七海」
「おはよう」
「期末の試験範囲さ、古文だけやたら広くない?」
「確かに。暗記が苦手ならあの範囲はしんどいでしょうね」

次の試験の範囲、卒業後の進路、家に積んだまままだ読めていない文庫本をどうやって読むか。
悩みといえばそんなもので、家にも友人にも恵まれた私は特別不自由することなく平穏に暮らしていた。

「七海、今日放課後ボーリング行かねぇ?」
「遠慮します。予備校がありますので」
「なんだよ、またかよー」

来年度の受験に向けて、そこそこ忙しくしている。
こうして友人の誘いを断ることもままあるが、それが原因でクラスに馴染めないとか、そういうことは特にない。
私は一限の準備のために、教科書とノート、それから国語辞典を机の上に取り出した。
ふと窓の外を見る。麗らかな日である。
桜にはさすがに少し早いが、蝋梅のいい香りが教室まで漂ってきている。


私はその日の放課後、生まれて初めてひったくりを目撃した。
学校からの予備校へ向かうための、最寄り駅へと続く人通りの少ない道。
犯人は自転車に乗った三十前後の男で、被害者は腰の少し曲がったおばあさんだった。追いかけなきゃ、と反射的に思ったところで、私のすぐそばをものすごく速いものが通りずぎた。

「止まれーっ!」

それがセーラー服を着た女子高生だと気がついたのは、その人が犯人に素手で掴みかかったときだった。
彼女は自転車に真横から蹴りを入れ、バランスを崩した犯人は呆気なく地面に転がる。それに馬乗りになっておばあさんの鞄を取り返し、犯人が逃げないように絞め技をかける。
私はそれを見てやっと駆け出して、善良な女子高生に加勢すべく男の腕を後ろでひとまとめにした。
一連の騒ぎになんだなんだと近所の人間が家から出てきて、女子高生が「ひったくりです!通報して下さい!」と大きな声で言うと、そのうちの一人がスマホで警察に通報する。
犯人のほうはもうこの状況に諦めた様子で、大人しく地面に伸されていた。

「ご協力感謝します」

十分弱でパトカーが到着し、敬礼をしながらそう言うと「おばあさんに怪我がなくてよかったです」と女子高生が答える。
連行されていく犯人、警察に念のため聴取を受けるおばあさん。それらにすっかり取り残され、まぁここにいる意味ももうないか、と踵を返そうとしたとき、目の前の女子高生が不意に振り返った。

「君もありがとうね、後ろで押さえて貰ってて助かった!」

ありがとうもなにも、始めに取り押さえたのは彼女だったし、私は後から追いかけただけで大したことはしていない。
そう言おうと彼女の顔を見ると、ひどく驚いた顔でこちらを見ていた。例えばそう、幽霊でも見たみたいな。

「えっ…な、な、七海…!?」

彼女は私を指差して声をあげた。私の名字は確かに七海だが、知り合いにこんな女子はいただろうか。
いくつか該当しそうな記憶のページをめくったものの、やっぱりどこにも彼女の顔はない。

「…あの、どこかで会ったことありますか?」

私が正直にそう尋ねると、彼女は愕然とした表情のまま数秒動きを止め、うーん、と何やら唸ってからじっと私の顔を観察した。
不躾な行動にいつもならこのあたりで見切りをつけて立ち去るところだが、どうにも今日は不思議と歩き出すことが出来ない。
私は両足が縫いとめられたような感覚に陥った。

「…前世の記憶、ない?」
「霊感商法ならお断りです」

…待って損した。
とんだ霊感商法女じゃないか。私はずり落ちた鞄を抱えなおし、貼り付いた足を踏み出す。

「待って待って待って!!」
「…何ですか」

私のブレザーを彼女は勢いよく掴んで、反動でぐいっと戻される。
どこにこんな力があるのか、全く馬鹿力じゃないか。
私が舌打ちをして、その手を払おうと腕に力をこめようとしたとき、彼女の情けない声がはっきりと吐き出された。

「私、ミョウジナマエ!ずっと君を探してた!」

何だ、何だって言うんだ。
いつもならこんな不審者取り合わない。無視をして、さっさと予備校に向かうだろう。でも今日は、彼女は、どうしてだかそれが出来ない。

「逃げませんから、放してください。服が傷みます」
「あっ、ごめん」

解放され、シワのよったブレザーをパタパタはたいて整える。
目の前の彼女の顔をもう一度確認したけれど、やはり見覚えはなかった。

「私はこれから予備校があるんです。用事があるなら手短に」

そう言うと、彼女は目をきらきらとさせて自分の鞄からメモ帳とボールペンを取り出す。
何事かそこにペンを走らせると、私に向かってずいっと差し出した。
そこには彼女の名前と、メッセージアプリのIDらしき数字が並んでいる。

「また会いたい。連絡ちょうだい」

私はフゥーっと大きく息をついて、彼女のメッセージアプリのIDが書かれた紙を仕方なく受け取った。
急に名前を呼んで、前世だなんだと怪しいことを言って、また会いたいだなんて、なんなんだ、この女は。

「わかりました。受け取るだけ受け取っておきます」

電話番号でも住所でもあるまいし、受け取ってしまった方がここは得策と思えた。
別にこんなものは後から捨ててしまえばいい。
ここで話が長引くほうがよっぽど面倒だ。

「私、ずっと待ってるから」

ざぁ、と春特有の強い風が吹いた。
目の前が一瞬霞む。彼女のセーラー服の襟がひらっとめくれて、瞬間、それが詰襟に変わって見えた。
何故、と思って瞬きをしたら、見間違いだったのか、彼女は先ほどまでのセーラー服のまま、こちらに笑いかけている。

「またね、七海」

初対面だというのに、なんなんだその気安さは。
少し腹が立って、でもへらりと笑って手を振る彼女を見ていたら、なんだかどうでも良くなってしまった。


結局予備校への到着は、遅刻はしなかったものの授業開始のギリギリになった。

「あれ、七海、今日遅かったね」

予備校に着くと、いつもの席に他校に通う友人が座っていた。テキストを机の上に出し、長い足を持て余しながら頬杖をついている。
私は隣の席に座り、鞄から急いで参考書を取り出す。
いつもなら授業前に少し自主学習をしているのに、今日はそんな余裕が無い。

「変な女に絡まれました」
「何、ストーカー?」
「いえ、そういう雰囲気ではなかったですが…」

友人はストーカーかと尋ねてきたが、本当にそういう雰囲気ではなかった。と思う。
そもそも何故名前を知ってたのだろうか。勢いに流されすぎて確認するのを忘れていた。

「突然名前を呼ばれて、ずっと探してたと言われて、最終的にメッセージアプリのIDを渡されました」
「それってナンパじゃないのか」

友人の言葉に、私は否定の意味を込めて首を横に振る。
ナンパのようには思えない。名乗る前から名前を知られていたし、ナンパにしてはあたふたと格好がついていなかった。

「で、七海は連絡するのかい?」

友人は頬杖をついたまま、細い目をさらに細めて、にやにやと口元を歪める。
彼は概ね真面目だが、存外悪乗りが好きなところもあるので、おもちゃにされては敵わない、と私は溜め息をついた。

「…しませんよ」
「それは残念だな」
「面白がっているだけでしょう」

バレたか、とでも言いたげな表情で友人は笑う。
そのうちに講師が教室に入ってきて、私と友人は話を辞めて前を向いた。
私はポケットに手を突っ込み、彼女の渡してきたメモをこっそりと覗く。

『七海へ ID:73×××× 連絡ちょうだいね。ミョウジナマエ』

急いで書いたヨレヨレの文字が、簡潔に用件だけを伝えている。
あんな怪しい女に、連絡なんてするわけがない。

「七海、次の問題解いてみなさい」

講師の声に、はっと意識が呼び戻される。いけない、なんでこんなことに気を取られてるんだ。集中しなければ。
私はその日の夜も、いつものあの夢を見たのだった。

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