18 もう会えない女

灰原が死んだ後も、私たちは三年、四年と順調に進級した。
あれから何度かお互い死にかけ、何度も家入さんの世話になった。
何人か顔見知りの術師は死んだし、三人いたひとつ上の先輩は二人に減った。もっとも、そのひとりは死んだわけではなかったけれど。

「ねぇ七海、五年生になったら何するの?」

四年の終わり、ミョウジが手持無沙汰とでも言わんばかりに尋ねた。
開いていた本閉じて顔を上げると、思いもよらない近さに彼女がいて少しだけのけぞった。

「…私はまだ決めてません」
「えっ、意外。七海決めてないの?」

これは嘘だ。本当はもうほとんど決めている。けれど彼女に伝える勇気がなかった。アナタを置いて、呪術師を辞めるなんて。

「アナタこそ、どうするつもりなんですか」

私がそう言って話題を逸らすと、ミョウジは気づいているのかいないのか、嬉々として言った。

「私?私はねぇ、海外旅行に行ってみたい!」
「どこか当てでも?」

英語の授業が嫌いだと散々言っていたわりに、海外には興味があるらしい。
ミョウジはうーん、と考える素振りをして、ぽつりと「海がいいなぁ」と言った。

「海ですか?」
「うん。私、海が好きなの」

ミョウジは大きく目を見開いて、それからふっと目元を緩め柔らかな笑顔で笑う。
私はそこまで海に魅力を感じないが、彼女は随分と海が好きらしい。その証拠に、笑顔がいつもより柔い。

「私ね、いつか海辺の別荘買って日がな一日のんびり暮すのが夢なんだ。旅行はその下見的な?」
「海辺だと塩害が酷そうですね」

海辺の金属が片っ端から錆びてしまった街を思い浮かべてそう言うと、ミョウジはハァと大きくため息をついた。
それからビシ、と人差し指を立て、私にたいそうなことを説くような大仰さで言う。

「夢がないなぁ、七海は。そんな細かいことは気にしないの!朝起きて、今日はどうしよっかなーって考えながらご飯食べるの。スケジュール帳はまっさらで、何をするにもその日の気分次第!最高でしょ?」
「計画性というものの重要さをミョウジは理解してないな」
「えー!いいじゃん」

唇を尖らせ、ミョウジはぶすくれて抗議をした。
海辺は魚が美味しいだとか、水平線を昇る朝日は綺麗だとか、波音は安眠に効くとか、いくつも海の魅力をあれこれと並べ立てる。

「いつか七海と行ってみたいな、海」

ミョウジは聞こえもしない波音に耳を澄ませた。そんな彼女を見ていると、私まで波音が聞こえてきそうだった。
海には大して興味はない。日差しも強いし、燦燦と降る光で砂浜は眩しいくらいだ。けれど、ミョウジがいるのなら、それら全てが心地よく感じるのだろう。

「マレーシアとかどう?クアンタンってリゾート地がなかなか良いらしいよ」
「一緒にっていったって、なんでいきなり海外なんですか」
「えぇ、いいじゃん。夢はでっかく」

ミョウジは適当なことを言って笑った。たとえば私が「いいですね」と言えば、アナタはついて来てくれるのか、そんな遠いところまで。

「楽しみだなぁ」
「行くなんて言ってませんよ」

言う資格なんてない。私はあと一年で、アナタを置いていくのだから。


クアンタン、という地名を聞いて、私は一冊の本を思い出した。海のように真っ青な装丁の、美しい本のことだ。
マレーシアのクアンタンを舞台にした話で、なかなか面白かったことを記憶している。
私は寮室の本棚からそれを探し出し、ミョウジに貸すことにした。
「雨の観測者」は、特別これといった賞を取った訳ではない。作者もあまり知られておらず、同じものを書店で探そうとしてもそこそこの大型店舗でないと置いていないような、ひっそりとした名作だ。

「七海、本ありがとう!めちゃくちゃ良かった!」
「気に入りましたか」
「うん。海と雨の描写がすごいね、音になって聞こえてきそうだった」

本を貸してから二週間も経たないうちにミョウジはそう興奮気味に感想を話した。腕には「雨の観測者」が抱えられていて、彼女の胸の中に海が収まっているようだった。

「真ん中くらいでさ、女の子が遠雷の中で走り回って海の中に入るシーンあるでしょ。そこがすごい綺麗で感動しちゃった」

彼女がいうのは、物語の中盤に出てくるシーンだ。
陸には雨は降っておらず、沖でピカピカと遠雷が鳴っている。その中で果物売りの少女がはしゃぎまわり、荒れた海へざばざば入っていく。
腰ほどまで浸かり、そこでふっと振り返る。満面の笑みで笑って、男に向かって言うのだ。
『ずっと待ってる』
男は呆然として、その少女を見つめる。少女はそれに構うことなく、海の中をまるでダンスをするように泳ぎ回る。
その瞬間、男は少女への恋心を自覚するのだ。

「…それ、差し上げます」
「えっ、なんで?いいの?」
「はい」

私はその海を見つめて、ミョウジに言わなければならない言葉を覚悟した。
どのみち、もうしばらくでこの先どうするかなんて話はわかってしまうことなのだ。誰か他の人間から伝わってしまうよりは、自分で彼女に言うべきだろう。

「…呪術師を、辞めます。だからそれは餞別に」

想像よりも何倍も情けない声は、張りのない糸のような無様さで床に落ちていった。ミョウジが息をのむような音をさせる。

「…七海には、そっちのが似合うよ」

彼女のあまりに平静な声に顔をあげると、穏やかな顔で私を見つめていた。
そしてそれからなんでもないような、たとえば今日の夕飯の相談をするような声音でミョウジは「大学編入?」と尋ね、私はそれを肯定した。
ああ、これで道が別れてしまったのだと、私は静かに理解した。


それからはあまり話さなかった。私が顔を合わせづらいと言うこともあったし、単純に目的が変わってやるべきことが別々になったというのもあった。
ミョウジは呪術界に残っている五条さんと一緒にいるところをよく見かけるようになって、昔のように牽制できるようなはずもなく私はそれを黙って見ていた。
モラトリアムの五年生はあっという間だった。私は大学編入の準備に明け暮れ、ミョウジは呪いを祓い続けた。
3月、卒業式というほど大層なものでもない高専のそれを、たった二人で迎えた。

「七海、ねぇ見てよ」
「なんですか、ちゃんと見てますよ」

どうせまたくだらないことでしょう。そう言ってはみたが、ミョウジの考えなどこの時は既にもう分からないくらい遠くなっていた。
ミョウジが私の少し前を歩く。二人で話すのはひどく久しぶりのように感じた。
少し痩せたかもしれない。任務がやはり厳しいのだろうか。いや、私が何かを言える立場にあるわけがない。

「向こうに逆さの虹が出てる!」

そう言って、彼女は筵山からの景色を見渡せる高台に駆け寄った。奇しくもここは火葬場の近くの、あの日二人で月を見上げた場所だった。
駆け出したミョウジが「なんで逆さの虹なんだろう」と言うから、それは環天頂アークといって朝か夕方に見られる大気光学現象のひとつだ、と説明したのに、空に夢中になっているミョウジは私の話を聞いもせず「綺麗だね」だとか「色が普通のと逆だ」などと喋り続けている。

「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてますよ、アナタこそ、私の話聞いてましたか」

数歩で彼女に追いつくと、そこで不満げな顔のミョウジが振り返って言った。彼女がなんでと言ったから説明していたのに、なんとも遺憾な表情だ。
けれど私もミョウジも、本当のところ会話の内容なんてものはどうでもよかった。
ミョウジは不満げな表情からぱっと笑って、喝を入れるかのように拳を突き出した。

「元気でね、死なないでよ」
「当たり前でしょう。どちらかと言えば、そういうのを気にしなきゃならないのはアナタの方だ」

かけられた言葉の後半は、これから一般人になる私にかけるべき言葉じゃない。今日も明日も命の危険と隣り合わせで居続ける、アナタにかけられるべき言葉だ。
私の返答を聞いてミョウジは突き出した拳を下げると、すぅ、と深く息を吸い込む。

「七海!」
「なんですか」
「私、七海と同期になれてよかった!」

なにを言うんだ。私の方こそ、アナタがいたからここまで来れた。灰原を失って、どうにかなってしまそうだと思ったあの日も、アナタがいたから私は折れなかった。
卒業まで、この高専にいる事ができた。

「ミョウジ、私もです。アナタがいて、よかった」

それが、私がミョウジの顔を見た最後の日になった。
4年後私が呪術界に戻ったとき、彼女は既に死んでしまっていたからだ。


私が術師に戻ると決めて、一番最初に連絡を取ったのは五条さんだった。ミョウジには逃げた以上合わせる顔がないと思ったし、謝るにしても少しだけ心の準備が必要だと思っていた。
加えて、このひとなら何も気にせずいられるし、万が一にも死んでいることはないだろうと踏んだ。
アポイントをとって向かった高専の門前で出迎えられ、五条さんの隣を歩く。

「おかえり七海」

楽しい地獄になりそうだね。と五条さんがへらへら笑った。
絵に描いたような軽薄は腹が立つが、このひとが相変わらずで少し安心した。

「五条さん、ミョウジは…」

そこまで言って、五条さんの顔を見れば答えなんてすぐにわかった。声が喉の奥で絡まって、言葉のひとつも出て来やしなかった。
そうか、アナタはもういないのか。

「ミョウジは死んだよ、二年前。諏訪の山奥で等級の高い呪霊に当たって、首を切られて即死だった」
「そう…でしたか…」

頼んでもいないのに、五条さんはそのあともミョウジの任務がいつ、どんなところで、そしてどんなふうに死んでいったかをひとつずつ説明してみせた。
話は聞いているはずなのに、なにひとつ理解できなかった。私が立ち尽くしていると、五条さんが「ミョウジの墓、高専の霊園にあるよ」と言った。
術師は特殊な身の上が少なくない。天涯孤独であったり、家族にさえ公表できない死を遂げた術師は死後、高専の霊園で供養されることがある。
私はその日のうちに花屋でなるべく明るい色の花ばかりを購入し、五条さんに教えられたミョウジの墓に足を運んだ。

「ミョウジ」

物言わぬミョウジは、霊園の隅で冷たい石になっていた。私は跪き、花束を握りしめた。
なにが死なないでよだ、なにが同期になれてよかっただ。
私はアナタに、別れさえ告げられないままなのに。

「ミョウジ…」

私はこの世界から逃げた。だからミョウジをひとりで死なせた。
肺が破れて、空気が漏れ出しているのかと思った。それは私の、みっともない慟哭だった。

back

- ナノ -