17 たったひとりの女

私はミョウジを避けた。
合わせる顔がないと思うなら、本当はしっかりと別れを告げて会わないようにするべきなのだろうが、それも出来ずに中途半端なまま。
記憶を取り戻して、前世の縁というものの強さを強烈に感じた。クラスメイトに猪野君、後輩に伏黒君、予備校には夏油さん。
縁のあった人間ばかりが何か見えない糸のようなもので引き寄せ合うようにしているのかとさえ思える。
ミョウジと灰原もそうなのだろうか。そして、私とミョウジも。


図書委員の当番でカウンターの中に腰掛けているとき、不意に隣から心配そうな声が掛けられた。

「七海先輩、大丈夫ですか」
「…すみません、少しぼうっとしていたようです」

声の主は伏黒君だった。後輩に心配されてしまうほど、私はぼうっとしていたらしい。
んん、と咳払いをして、目の前の貸し出しカードに目を通す。

「最近、あまりスマホ見ないですね」
「そうですか?」
「はい。今までもう少し頻繁に確認していると思ったので」

伏黒君はそう言って、私が話すのを待った。話さないならそれで構わないといったふうな、気遣いを備えた様子だった。
その雰囲気に、思わず口が滑ってしまった。

「会いたいのに会いたくないひとが、いるんです」
「どうして、会いたいのに会いたくないんですか」
「…言いたいことがあって、けれど会えば傷つけるかもしれないからです」

何を言ってるんだ、伏黒君に言ってどうなるわけでもないのに。彼を困らせるだけだ。
忘れてください、と言おうとしたところで、伏黒君が先に口を開いた。

「俺なら傷つけるのが怖くて、会いに行けないと思います。けど、俺の友達は、きっとそんなことお構いなしで会いにくる」

伏黒君はそう言って、手元のハードカバーを意味もなく親指で撫でた。
伏せられた睫毛は長く、視線は何か大切なものを見つめるかの如く柔らかい。

「言いたいことが言えずに終わるのはもう嫌なんだって、いつも言ってます。なんのことかは…よくわかんないんすけど」

伏黒君にその言葉をかける友達というのは、一体誰なんだろうか。きっと、彼にとってどうしようもなく大切なひとに違いない。

「すんません、話逸れましたね」
「いえ、ありがとうございます」

話はそこで途切れた。私の中の答えは、その日も出ないままだった。


「七海、最近大丈夫かい?」

予備校のいつもの席で、夏油さんが言った。
記憶を取り戻してからミョウジに次いで対応に困るのが彼だ。

「はい、特には」
「そう?」

どうやら夏油さんは記憶がないようだし、今まで同級生として過ごした時間も長い。夏油さんと呼んでも夏油君と呼んでも、中々しっくりこない妙な心地になる。

「そういえば、ミョウジさんに会ったよ」

夏油さんはじっと私を見た。探るような、そういう温度だった。
切れ長の目がすうっと細められ、何か見えないものを探し当てるみたいな慎重さで私を観察する。
私はその視線に耐えかねて、つい口を開いてしまった。

「なにか…言っていましたか」
「…いや、別に」

夏油さんはそのまま視線を前にやって、私から目を逸らした。
私の態度に、ミョウジと何かがあったということは明白だっただろう。詮索しないで貰えるのはありがたいが、夏油さんに対して不誠実な感じがしてあまり居心地は良くない。

予備校の授業は少しも頭に入ってこなかった。このところずっとだ。取り戻した記憶からある程度の知識が戻ってきたのが不幸中の幸いだが、そういった知識と受験とでは性質が異なるのであてにはならない。
現に、この前の模試では判定が落ちた。

「何かあるなら聞くし、話したくないなら聞かないでおくけど」
「…今は少し、ひとりで考える時間が欲しいです」
「そう。わかったよ」

授業が終わって、夏油さんと私は連れ立って帰りの支度をした。次の模試までにはどうにか成績を戻さないとまずい。
センター試験まで日がない。記憶があろうがなかろうが、いまここでの私の人生も続いていくのだ。
むしろこっちのことを考えていたほうが、気は楽でいられた。

「七海、あのひとこっち見てるみたいだけど…」

夏油さんの言葉に外を見ると、予備校を出たところに男の人影があった。

「はい、ばら…」

スーツ姿の灰原は、いつも通りの人の良さそうな笑みを浮かべてひらりと手を挙げた。
無意識のうちに足がジリッと後ずさる。

「知り合いかい?」
「…ええ、まぁ。少し話して帰るので、今日はここで失礼します」

心配そうにこちらを見る夏油さんに軽く会釈をして、私は灰原へ一歩足を向けた。
会いたくなかったわけではない。むしろ逆だ。死に際に彼の幻を見る程度には未練があったし、話したいことも山ほどあった。
だがそれと同じだけの罪悪感があるのも事実だ。

「お疲れ、七海」

目の前まで歩み寄ると、灰原は迷わずそう言った。私を「七海くん」ではなく「七海」と。

「久しぶりです、灰原」

どんな言葉をかけたらいいのかと迷って、結局出てきたのはこの言葉だった。
灰原は「ちょっと歩こうよ」と提案して、私もそれに同意した。11月の空気はすっかり冷たく、また今日は一日中曇りで日中もろくに地面が暖められていないから余計にそう感じた。

「受験勉強どう?」
「まぁ、それなりです。油断は出来ませんが、第一希望はそう悪くない判定ですよ」
「さすが七海だなぁ」

実際は判定が落ちたのだが、それは伏せた。
私と灰原は、記憶が戻ったのかという問も、それ以外の問も投げかけないまま、どうってことない会話で歩き出した。
聞きたいことも言いたいこともたくさんあるはずなのに、私の口からは何も言えない。

「理系?文系?」
「理系です」
「やっぱり。昔も数学得意だったもんね」

すぐそばの車道を車が一台、二台と通り過ぎた。通行人の会話、それから自転車の車輪の音、散歩する犬の鳴き声。ささやかな音に私と灰原の言葉も過不足なく溶け込んでいく。
駅とは逆に歩いた。どこか目的地があるわけでもない。
しばらくして、灰原が切り出した。

「…七海さ、昔のこと、思い出したくなかった?」
「そんなこと…」

ザザ、と頭の中で昔の記憶がフラッシュバックする。入学式、たった三人きりの同級生、変わり者ばかりの上級生、面倒な任務、身に余る術式、斃れる仲間、諏訪湖、産土神、灰原。

「灰原こそ、思い出したくなんてなかったんじゃないですか」
「そんなことないよ。そりゃ、怖い思いも痛い思いも死ぬほどしたけどさ、七海とミョウジがいたから」

泣かなかったミョウジ、自分の選択、逃げて、戻って、彼女はもういなくて。
私の思考とは裏腹に、昔を振り返る灰原は穏やかだった。今は実際に年上というのもあるが、それとは別の次元で大人びて見える。あの頃の灰原なのに、あの頃とは違う。
灰原はじっと私を見た。

「ミョウジも、おんなじこと言うよ」

真っ直ぐな目だった。優しい面立ちなのに、意思の固そうな、そういう目をしていた。

「…随分と、ミョウジのことをわかってるな」
「そりゃね。ずっと、七海のこと探してたから」

私からこぼれ出たのは情けない言葉で、声になってしまった瞬間から後悔した。嫉妬しているみたいだ。そんな資格もないくせに。
灰原はミョウジと塾の講師と生徒として再会したこと、それから一緒に私を探そうとしていたこと、地元では中々当てもなく随分と手こずったことなどを話した。

「結局、人探しならきっと東京がいいだろうってミョウジ、東京の大学受験してさ。七海に会えた日、すごく嬉しそうに僕に言ったんだよ。灰原、七海生きてたよ!って」

馬鹿だな。私を探すためにわざわざ進学先を選んだのか?
「前世の記憶ない?」なんて不審者丸出しの声の掛け方をして、探していたんならもっとあっただろう。
私があの日振り払ってでも立ち去っていたら、どうするつもりだったんだ。

「灰原も聞いたかもしれませんが、私は一度呪術師から逃げたんです。ミョウジを置き去りにして、ひとりで死なせた」

立ち去っていたら、なんて、本当はそんなことは出来なかったはずだ。私の足は縫い止められ、無視をして立ち去ることも出来なかった。
ミョウジがヨレヨレの字で連絡先を書いたメモを、私はずっと処分できないままだ。

「…ミョウジに会わせる顔が、ありません」

会いたいという気持ちと、会えないという罪悪感が胸の内で渦巻いて、泥のように混濁していく。もうどうすることが正しい選択なのかもわからない。

「七海って、ミョウジのこと好きだよね」

私の話などお構いなしの灰原がそう言って、横目でじとりとその表情を確認すれば、先ほどにも増してにこにこと笑っていた。

「灰原、私の話聞いてましたか」
「聞いてたよ。だから七海ってミョウジのこと好きだなぁって再確認してたんだ」

4トン程度のトラックがすぐそばを通り抜ける。その振動がコンクリート伝いに足を震わせる。
それからマフラーに改造を施したバイクが轟音で走り去り、その音が鳴りやむのを待ってから灰原が言った。

「不器用だよね、七海もミョウジもさ」

遠くで犬の鳴き声がした。仲間を探すような遠吠えだった。あるいは、不安を感じて寂しいと鳴くような。
住宅の壁に反響しているのか、どのあたりから聞こえてきているのかもはっきりしない。

「迷いもしますよ、彼女をあんなふうに死なせてしまった」
「でも今は生きてる」
「それは…そうですが…」

灰原はいつになく強気で、粛然としている。昔から、彼はこういう男だ。
普段は人の良さそうな朗らかな顔をしていて、ときおり驚くほど静か。そしてそういう時は大抵言い訳のしようもない正しいことを言ってのける。

「七海は、終わらせる?」

灰原の言葉に、身体がぴしりと固まった。
終わらせる、ということは、ミョウジと別れて話もできないようになって、そしてミョウジともう会えなくなるということだ。
それでいいのか、そんな終わり方で、私は。

「…嫌です」
「だよね」

私の返事などお見通しと言わんばかりに灰原が笑う。
いつの間にか遠吠えは止んでいた。

「僕応援するよ、何か協力出来ることある?」

昔も、同じ言葉を聞いたな、とあんな些細な会話を覚えていた自分に少し呆れる。

「結構です」

あの時とは違う。自分が何もしないからじゃない。自分ですべてやるからだ。
私は私の言葉で、ミョウジに伝えなければいけないことがある。

「呪いもなんにもない世界なら、ミョウジに言えない言葉なんてないはずですから」

私のセリフに、きっと昔のことを覚えていただろう灰原は目尻を下げた。
そうだ。ミョウジの笑顔を見ていると、胸の中心がやわらかくなって、わけもなく安心できる。くだらない話をしているだけで、どこか心穏やかになれる。
明日も明後日も、その先もずっと、毎日会いたいと思う。

「行ってきます」

私はぴたりと立ち止まり、灰原を見据える。灰原も私に向き合って、私の背を押すように微笑んだ。

「行ってらっしゃい」

私は踵を返して駅の方へと駆け出した。
今言わなくて、いつ言うんだ。私は生まれ変わってもアナタが好きだと、もう失いたくないと、私の気持ちも伝えないまま逃げるなんて、そんな終わりでいいわけがない。
走れ。一分一秒でも早く。彼女のところへ。

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