13 鈍感な女
新学期が始まった。
夏休みも散々煽られては来たが、本格的に予備校の教室内に受験ムードが漂って来ている。とはいえ、勉強というものは日々の積み重ねだ。ナーバスになっても仕方がない、と、私は努めて平常心を維持することを心がけていた。
「七海、それオープンキャンパスの資料?」
「ええ、そうですよ」
「そこって文系の強い学校だろ?七海の滑り止めにしても理系で入るならちょっと違うんじゃないか?」
私は例のごとく、予備校のいつもの席で夏油君と並んでテキストを広げていた。
彼が目をつけたのは、テキストの下に積んであった大学のオープンキャンパスの案内だ。
確かに彼の言う通り手元のこの大学は文系に力を入れている大学であり、理系の偏差値でいうと正直私の求めるところとはかなり違う。
「もしかしてそこ、ミョウジさんの大学?」
隣の夏油君がにやにや笑っていることは、見なくても分かった。それに彼の読み通りなのだから、私に言える言葉などない。
「七海って案外わかりやすいんだな」
「引っぱたきますよ」
自分の第一希望の大学は、夏休み中にオープンキャンパスを行っていた。それにはもう足を運んでいて、これはついでというか、思い付きというか、そういうものであって。
私は頭の中で誰に聞かれているわけでもないのに言い訳を並べ立てた。
「私も行こうかな」
「やめてください。夏油君がいると女性に声を掛けられてろくに見学できませんよ」
「それは大げさだろ」
くすくす夏油君が笑う。大げさ、とは言いつつ、声を掛けられることに関しては否定しないのが彼らしい。
私はフゥーっと息をついて、これ以上いじられては敵わないと資料を鞄の中へしまった。
「いっ…」
不意に、鞄を支える左手に痛みが走った。何か傷でもあっただろうかと確認したが、とくに外傷らしいものは見当たらない。
「七海?どうかしたかい?」
「…いえ、何でもないです」
ミョウジさんとは、夏祭りのあとから会っていなかった。会う口実を探していたけれど、模試やら課題やらに阻まれて中々思うようにいかなかったからだ。
だからってわざわざ受けるつもりのない大学まで行くのか、と我ながら浅はかな計画だとは思う。
私は珍しく同級生の誘いに乗って、いつもは訪れない駅を訪れていた。繁華街の最寄りの、数本の私鉄と地下鉄の交差する賑やかな駅だ。
今日学校で行われた模試はそこそこ重要なもので、それを乗り越えた打ち上げとして数人連れ立ってカラオケに行こうと誘われた。まぁたまに顔を出すのも悪くないかと来てみれば、そこにはこちらと同じ人数の女子がいて、すぐに嵌められたことを悟った。
「帰ります」
「えっ、ちょ!七海!頼むから!」
ドアを開けた瞬間回れ右をすると、同級生にがしっと肩を掴まれた。
彼は廊下に出たところで手を合わせ、「頼む」のポーズをとって頭を下げる。
「猪野君、私はそういうつもりで来たわけじゃありません」
「わかってるって。でも七海のこと向こうの女子がかっこいいから連れてきてって言っててさぁ。お願い!なんとか!」
遊びと言えばボーリングにばかり誘ってくる彼がカラオケだなんて珍しいと思ったんだ。
嵌められたことは誠に遺憾だが、彼に根本的な悪意とかそういうものがないことはよくわかっている。私はフゥーっと息をついた。
「…一時間だけですよ」
私がそう言うと、猪野君は「サンキュー七海ぃ!」と私の肩をぶんぶんと前後に振った。やめろ、力が強い。
そんなことで参加するようになった合コンらしきもの。相手は近くの女子校の生徒。自己紹介をされたが正直興味がないからあまりちゃんと聞いていなかった。
歌わされることは何とか避けたい。そこは猪野君にも協力してもらわなければ困る。
彼の協力によって歌うことを回避しながら薄いアイスコーヒーを飲んでいると、隣に座った女子が声を掛けてくる。
「七海くん、歌わないの?」
「あまり人前で歌うのは好きじゃないので」
「えぇぇ、いいじゃん、一曲ぐらい歌お?ね?」
彼女はそう言ってぐっと距離を詰めてきた。
髪の長さも、色も、全然違うな。もっと言えば、ミョウジさんはこんな媚びるような香水の匂いはしない。シャンプーとかボディーソープとかの清潔な香りだけ。
「いえ。結構です」
女性を見ると、自然とミョウジさんを思い出すようになっていた。ここが違う、ここが似ている、きっとミョウジさんならこうする。ミョウジさんは多分こんなことは言わない。
勝手に頭の中でミョウジさんとそのほかの女性を比較し、やはりミョウジさんが良いと再確認する。自分でも何をやっているのかと思うが、もう癖のようになってしまったのだからどうしようもなかった。
しばらくして時計を確認すると、丁度猪野君と約束した一時間が経過したところだった。これで義理も果たせただろう。元々大きな音は好きではないし、適当な理由をつけて抜けさせてもらおう。
「すみません、この後用事があるので失礼します」
私が立ち上がると引き留めるような声が少し上がったが、猪野君が「七海忙しいのに来てくれたんだもんな!」と丸く収めるように言ったことによって、そう大したブーイングは起こらなかった。彼はこういうのが上手い。
まぁ元々彼に嵌められてここに来ているわけだが。そんな罠にいままで嵌りながらも彼の誘いに乗ってしまうのは、彼の愛嬌の成せる技かもしれない。
私は鞄を持ってドアを開ける。別の部屋から漏れ聞こえる歌は、概ね流行りのもの。時おり古いアニメソングが混ざっている。
音漏れのする廊下を経てエレベーターで階下に降りると、丁度会計を終えたらしいグループが店のすぐ外に見えた。
「…ミョウジさん?」
「あれ、七海?」
そこにいたのは男女4人。その中にミョウジさんがいる。
男女同数という、別にそうも珍しくない組み合わせのはずなのに、先ほどまで自分が合コンなんてものに参加させられていたせいで妙に意味深に感じる。
「お友達と来てたの?」
「ええ、まぁ…。ミョウジさんはその…」
私が語尾を濁すと、汲み取ったミョウジさんは「私もだよ」と言って、私はホッと胸を撫でおろす。
「三輪ちゃんと与くんと吉野くん。おんなじゼミなの」
ミョウジさんはわざわざ丁寧に彼らを紹介し、彼らにも私のことを「こちら七海くん。家が近所でお世話になってる友達」と当たり障りのない紹介をする。
時おり会って他愛もない会話をするくらいの仲なのだから、それ以上に形容できる関係性などないだろう。わかっているのに、祭りの日の華奢な指を思い出し、ひとりでもやもやとしたものを抱えた。
彼らは毎日のように大学で会うのだろう。そう思うと、たったひとつの歳の差がもどかしい。
「こないだゼミのグループ発表があってね、その打ち上げみたいな」
ね、と言ってミョウジさんが女性の、三輪さんに向かって笑いかける。うんうんとばかりに三輪さんが頷いた。
「受験生も息抜き?」と尋ねられ、私は答える言葉を詰まらせる。息抜きといえば息抜きだが、多分合コンといったほうが表現としては正しい。しかしそれをミョウジさんに知られたくはない。
「あの…」
「七海くん!」
上手く言い訳をしなければ、と口を開いたとき、後ろから女子の声で名前を呼ばれる。
誰だ、と思ったら先ほど隣に座っていた女子だった。何か忘れ物でもしていただろうか。と思っていると、彼女はこちらに駆け寄ってきて「よかったら連絡先交換しない?」と言った。
「あっ、私たちお邪魔だね?」
「そ、そうですね、ナマエ、行きましょうか」
私が「は?」と声を出すと同時に、ミョウジさんとその友人たちは空気を読みますと言わんばかりにぞろぞろここから退散してしまった。いや、決して邪魔などではないし、変な勘違いをしないでくれ。
早く引き止めないと、と思っていたら、目の前の女子が喋る気配がして動くに動けない。
「あの、これ私の連絡先なんだけど…」
そう言って、彼女はきっちりとした字で自分の名前とメッセージアプリのIDが書かれた可愛らしいメモを差し出した。
メモを持つ手は少し震えていた。
「すみませんが、そういうつもりで来たわけではないので受け取れません」
私が少しの間もあけずに断ると、彼女は「そっか、ごめん」とエレベーターのほうへ踵を返した。
流石にどういう意図で渡そうとしているのかわからないほど鈍感じゃない。その気がないなら受け取るだけ酷だろう。
私は振り返り、ミョウジさんを探す。追いかけて何を弁明するつもりなんだろうかとも思うけれど、なんだかこのままでは居心地が悪い。
この後どうするつもりなのかなんて聞けていなかったから、選ぶ道はあてずっぽうだ。
駅のほうかもしれない、とあたりをつけ、通行人を避けながら走って行く。
すると、しばらくでミョウジさんの後姿が見えた。友人たちの姿はそこにはなかった。
「ミョウジさん!」
「え、あれ?七海?」
肩を引いて呼び止めると、目をまん丸にしたミョウジさんがこちらを見上げている。
「何かあった?」と尋ねてくる彼女に、私は何を言ったらいいのかを考えた。本当に、何を弁明するつもりなんだろう。
「…連絡先、交換していないので」
口から出たのは、そんな格好悪い言葉だった。だから何だっていうんだと言われてしまっても仕方がないような、そんな要領を得ない言葉だ。
ミョウジさんは少しの間のあと「七海は真面目だね」と言って少し笑った。
「さっきのあの子知り合いじゃないの?」
「元々今日会って一時間隣に座っただけの女子ですから、知り合いというほどではないですね」
正直名前も覚えてません、というのは、言ってしまうと誠意に欠ける男になってしまう気がして言わなかった。が、覚えていないのが本当のところだ。
「私のときは受け取ってくれたのに」
「アナタあの時完全に霊感商法の不審者だったじゃないですか。長く話されるよりマシだと思っただけです」
ミョウジさんからメモを渡されたのが、もう随分前のことのように思える。たかが半年くらいしか経っていないのに、彼女の存在はその時間を懐かしいと思えるくらい深く私の生活に深く侵食している。
「はは、じゃあ私ラッキーだったんだね」
「まぁ、そういうことですね」
ミョウジさんは嬉しそうにふふふと笑った。
ミョウジさんの連絡先が書いてあるヨレヨレのメモは、こうして連絡を取り合うようになった今も引き出しの一番上に仕舞ったままだ。
「今更ですけど、ご友人は?」
「え?ああ、丁度解散するとこだったの」
「では、私の用事に付き合ってもらえませんか」
口から出まかせだった。用事なんてない。
彼女をもう少しだけ引き止めていたい。
「いーよ、どこ行くの?」
「書店に。気になる新刊があるんです」
アナタは私のこんな下心に、気づいているのだろうか。
気づいて欲しくて、でも気づいて欲しくない。くすぐったくてもどかしい。
「いいね。七海のおすすめ教えてよ」
ミョウジさんはにっと笑った。やっぱり彼女の笑顔は、私をひどく安心させる。
彼女のそばにいたい。彼女のそばには、私がいられたらいい。
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