美味しいコーヒー

「伊地知さんの淹れてくれるコーヒーってなんでこんなに美味しいんですかねぇ」

私は高専で待ち時間を潰していたら、そこにたまたま居合わせた伊地知さんがコーヒーをご馳走してくれるというので、ホイホイと補助監督の使う給湯室までついてきた。

「そうですかね?」
「そうですよ、なんならその辺のお店より美味しいと思います」

私の舌じゃ信用ならないかもしれませんけど。と言うと、伊地知さんは慌てたように両手を振る。
給湯室に隣接する簡易の休憩所みたいな場所は主に補助監督用のものだけど、新田さんとお昼を食べる時とかに何度か使わせてもらったことがあった。

「いやいや、ミョウジさんいつも良いもの食べてるんじゃないですか?」
「そうでもないですよ?まぁ七海さんのおかげで生活水準は爆上がりですけど、そもそも貧乏舌ですし…」

そう。建人さんと同棲するようになって、グルメな彼に合わせて良いお店だったり良い食材だったりに接する機会は格段に増えたけれど、それがそのまま私の味覚に反映されるかといえば、それは否だ。と思う。

「スーパーで買えるインスタントじゃないのは流石に分かりますけど、どこかのコーヒーショップのだったりするんです?」
「そこまで値の張るものではありませんが一応専門店で豆を挽いてもらっているんです」

なるほど。道理で香りが全然違うわけだ。
感心しながらカップを眺めていると、伊地知さんが戸棚から挽いた豆の入った紙袋を取り出してくれた。
クラフト紙っぽい見た目で、ラベルに英語と鳥のマークが入ってる。

「豆もいいんでしょうけど、やっぱり伊地知さんの腕ですよねぇ」

しげしげとラベルの英文を読みながら言う。
伊地知さんは少し照れくさそうに頬をぽりぽりと掻いた。時々、この人はその辺の女の子より女子力高いんじゃないかと思うことがある。

「麻布の店なんです、良かったら行ってみてください」
「えぇ…でも技術がない私が淹れたらインスタントコーヒー以下になりますよ…」

そう。インスタントコーヒーの素晴らしいところは、誰が淹れても均一に美味しいコーヒーが淹れられるというところだ。
そりゃあプロが豆から淹れたコーヒーには負けてしまうだろうが、下手に素人が豆から淹れるよりは絶対に美味しい。企業努力。

「コツを覚えれば簡単ですよ、何も焙煎から始めるわけではありませんし」
「そうですかねぇ」

出来る人は「簡単」という言葉をよく使うが、これはあくまで出来る側の人間の意見だ、と常々思う。

「もし時間があればお教えしますよ」
「えっ!本当ですか!?」

私の食いつきが予想外だったのか、伊地知さんは面食らって動きを止めた。
こんなに美味しいコーヒーを淹れてくれる人が教えてくれるっていうんなら、もうひょいひょい飛びつくに決まってる。
何せ、建人さんはコーヒーが好きなのだ。美味しいコーヒーの淹れ方を教わって、建人さんに朝の最高の一杯をお届けしたい。

そんな突拍子もないやりとりから1週間後、私は再び給湯室を訪れていた。
どこでレッスンをするのが最適か、という話になったのだけど、私の家は建人さんと同棲しているので許可なく人を上げられないし、さすがに伊地知さんの家というわけにもいかない。条件に合う場所は高専の給湯室が一番手軽だった。
昨日、仕事終わりに伊地知さんに教えてもらったコーヒーショップに行って買ってきた豆を手に、私は正式名称も知らないコーヒーにまつわる道具たち2組と対峙する。

「ミョウジさん、豆は中細挽きにしてもらってきましたか?」
「はい!コスタリカ産のやつを中細挽きでお願いしてきました!」

コーヒー豆の挽き方もひとつではないと初めて知った。
いちばん粒子の細かい極細挽きから、粗挽きまで、だいたい5種類。伊地知さんによると、挽き方によって適した抽出器具が変わるらしい。
中細挽きというのが最も一般的なものなのだそうだ。

「ではまず、器具を揃えます。今回は一番手軽なハンドドリップですので、ペーパーフィルターとドリッパー、それから抽出したコーヒーを淹れるサーバー、細口のドリップポットですね。あと、メジャースプーンもあるといいですが、これは普通のスプーンでも構いません」
「なるほど…あ、メモ取らせてください」

私は手のひらサイズのメモ帳に伊地知さんの説明を書きとる。
私がメモを書き終えたのを見計らって、伊地知さんが説明の続きを始めた。

「コーヒー二杯分だとだいたい豆は20グラムくらい使います。ペーパーフィルターの底の接着している部分を外側に折り、側面の接着部分は内側です」
「こう、ですか?」

伊地知さんの手元を見ながら手順を真似る。
そうですよ、と言ったあと、伊地知さんは説明を加えながらドリッパーに軽く押さえつけるようにしてフィルターをセットした。
そのあとサーバーの上にドリッパーを乗せ、私も自分のサーバーにフィルターをセットしたドリッパーを置く。

「コーヒー粉は先ほども言いましたが20グラム程度なので…まぁ、このくらいですね」
「了解、です」

伊地知さんのフィルターの中の粉の量を慎重に確認しながら、私も自分のフィルターに同じくらいのコーヒー粉を入れる。
「ムラなくお湯を注げるように、粉の表面を平らにしてくださいね」と言われ、私は返事をしながらドリッパーを軽く振る伊地知さんの真似をした。

「コーヒーを淹れるコツは蒸らしです。単純ですが、丁寧にやるのとそうでないのは随分変わりますからね、見ていてください」

伊地知さんはそう言って、沸いたばかりの熱湯の入った細口のポットを手に取ると、少しの量のお湯を乗せるみたいな慎重さでコーヒー粉に注いだ。
「だいたい20秒くらいが目安です」と説明が加えられたので、メモ帳にすかさず控えた。サーバーにポタポタと何滴かのコーヒーが滴り落ちる。

「コーヒー粉が膨らんで来たでしょう?これはコーヒーに含まれるガスが放出されていて、こうすることでお湯の通り道が出来るんです」

そのあと伊地知さんは腕時計で20秒の経過を確認すると、コーヒー粉の中心にのの字を書くようにしてお湯を数回に分けて注いだ。
すごい滑らかな動きで、月並みな感想だけど、プロっぽい。

「この時、フィルターにお湯をかけてしまわないことがコツです。コーヒー粉の中心で小さくお湯を回しかけます」

ちょっと見てください、と言って、伊地知さんはフィルターの中を見るように促した。真ん中に向かって円錐状に凹み、表面には細かい泡が残っている。

「この細かい泡はアクなんです。なので、こうして表面に泡が残っていれば、雑味のないコーヒーが抽出されている証拠なんですよ」
「なるほど…解説すごくわかりやすかったです。伊地知さんコーヒーショップの人みたいですね…」
「はは、下手の横好きですが…」

そう言って、伊地知さんはまた謙遜をした。
私も同じようにしてコーヒー抽出に挑み、結果4杯分になったコーヒーはその日勤務だった補助監督さん達と飲んだ。やっぱり私が入れたのは伊地知さんとは味が違う。
けど、きちんと丁寧に淹れたコーヒーは、いつも自分が淹れるものの何倍も美味しく感じた。


2日後、遅めの朝、私は一緒に寝ているベッドからそろりと抜け出し、コーヒーの準備を始めた。
今日は二人とも一緒に休みを取っていて、特にこれといった行き先は決めていないけれど、デートをする日。ただ建人さんは夜の12時近くまで任務に出ていたから、まだ眠りが深いようだった。
大体建人さんが先に起きるか、それでなくても私が動くと目を覚ますことが多い。今日はその気配がないので、相当お疲れらしい。
これは美味しい目覚めの一杯を提供するしかないだろう。

「えっと、まず器具を揃えてお湯を沸かして…」

私は一昨日伊地知さんに習った通りペーパーフィルターやらドリッパーやらの準備を進めていく。底は外側、側面は内側。オッケー。
二杯分のコーヒー粉を入れ、お湯ももうすぐ沸きそうだ。さて、準備ができた。

「建人さーん、もうそろそろ朝食にしませんか?」

建人さんは結構休日の寝坊は良しとしない方なので起きてきそうなものだけれど、まだ起きてこないなんて珍しい。そう思いながらベッドルームに戻ると、建人さんはまだすやすやと眠っていた。
私はベッドの端に腰掛けて、そのきれいな寝顔を見つめた。
寝ているときは意外とあどけない。普段の沈着な様子が窺えない状態だと、建人さんは結構年相応に見える。

「朝ですよ」

普段はどうしたってばっちりくっきり大人の男の人って感じで、まぁ実際そうなんだけど、こういう無防備な姿を見せられると、途端に可愛らしく思えてくる。
あ、眉間のしわ。
私は指先でそっとしわを伸ばすみたいに眉間に触れる。何度か撫でると建人さんが目を覚ます気配がした。

「建人さん、おはようございます」

建人さんはまぶたを緩慢に動かし、何度が小さく瞬きをすると、そろり瞼を持ち上げる。
焦点の合ってないぼやっとし視線が私の方を向く。

「ナマエさん…おはようございます…」

そう言って一度グッと目を閉じ、今度は焦点の合った視線が私を見つめ、建人さんが上体を起こす。

「今日はアナタの方が早起きでしたか」
「ふふ、今日は美味しいコーヒーがあるんですよ」

ちょっとだけ意外そうな顔をしている建人さんを残し、私は「朝食の仕上げしちゃいますね」と言ってキッチンに戻った。
コポコポお湯の沸くドリップポットを手に取ると、コーヒー粉に乗せるような丁寧さで少量のお湯を注ぐ。
20秒待って膨らんだそれに、今度はのの字を小さく書くように2、3回に分けて抽出のためのお湯を注いだ。
フィルターからぽたぽたコーヒーが抽出されていく。

「よし、今のうちにクリームチーズとラズベリージャム用意しちゃお」

今日の朝食はライ麦のバゲットにクリームチーズとラズベリージャム、それからヨーグルトと半熟卵。
切ったバゲットをプレートに乗せて、そのほかはそれぞれ小さいお皿に用意してからトレイで食卓へ運ぶ。
二往復したところで、サーバーの中のコーヒーがいい具合の量になった。

「ハンドドリップですか?」
「あ、建人さん。そうなんですよ、伊地知さん御用達のお店の豆です」

顔を洗ってきた建人さんが今度こそしゃんと起きた顔になってダイニングに顔を出す。「もうすぐなんで座っててくださいね」と声をかけて、私はサーバーの中のコーヒーを二人分のコーヒーカップに注ぐ。
それを最後に食卓に持って行き、いただきます、と朝食が始まった。

「美味しいですね…なるほど、一昨日伊地知君に習っていたのはコーヒーだったんですか」

えっ!なんでバレてるの!?御用達のお店とは言ったけど、教わったとまでは言ってないよね!?
わかりやすくドギマギした態度をとっていると「高専で伊地知君と連れ立って歩いているところを見ましたよ」と言われた。普通に見られていたらしい。でもそれだけで教わってたことまで見抜かれてしまったのは、なんと言うか、さすがだ。

「あの…ごめんなさい。私、建人さんをびっくりさせたくて…」
「別に怒ってませんよ」
「本当ですか?」
「本当です。さすがにそこまで狭量ではありません」

建人さんはそう言うけど、黙ってたのはやっぱりよくなかったよなぁ。猪野との距離が近いとか、虎杖くんとの距離が近いとか注意されたこともあったし。
そりゃあもちろん他意はないんだけど。

「まず、伊地知君は紳士ですからね。私は伊地知君を信頼していますし、適切な距離感を保っていると思っていますので、そこまで目くじらを立てるつもりはありません。そもそも、術師は男社会ですから、男女で二人きりになるなと言うのは横暴でしょう」

建人さんはそう言って、コーヒーカップを置くと、身を乗り出し、その指で向かいに座る私の耳元を撫でた。
あまりに自然な動作だったから私は無防備にそれを受け入れ、撫でる指先の感触に背筋がぞくりとする。

「…それとも、嫉妬して欲しかったんですか?」

緑とも青ともつかない色の瞳が柔らかく細められ、私の心臓は多分一瞬動きを止めた。
指はそのまま耳のふちをなぞり、耳たぶの感触を確かめるように何度かふにふにと摘むと、名残惜しげな熱を残して離れていく。

「い、いや、身が持たなさそーなので大丈夫です…」
「そうですか。それは残念だ」

建人さんの嫉妬とやらがいかに熱烈で心臓に悪いかを、私は普段から身をもって知っている。
私はしれっとバゲットを口に運ぶ建人さんをじとりと見つめた。

「今日はどこに行きますか?」
「建人さんどこか行きたいところあります?この前は水族館連れて行ってもらいましたし、今度は建人さんの行きたいところにしましょうよ」

これ以上見つめたってしょうがないか、と半ば諦め、私もバゲットにクリームチーズとラズベリージャムを薄く塗る。このクリームチーズは珍しく建人さんではなく私チョイスのものだ。

「そうですね、伊地知君行きつけのコーヒーショップに行きましょうか」
「建人さん本当は怒ってますよね?」
「いえ、あの伊地知君御用達となれば単純に興味があります。豆を買って、帰ったら私に美味しいコーヒーの淹れ方を教えて下さい」

建人さんそれくらい知ってそう、とは思いながら、建人さんに頼られるなんて滅多にない機会に少し浮き足立ったような気持ちになる。
ふふ、と口元の緩みを隠さないでいると、向かいでじっと私を見つめる建人さんと目があった。
さっきまでのあどけない表情はどこにもなくて、視線だけで私を蒸発させてしまいそうな、いつものどうしようもなくかっこいい建人さんになっていた。
部屋にはコーヒーの香りが、心地よく漂ってる。

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