プラウの記憶

「星を見に行きませんか」

建人さんがいつにもましてロマンチックなことを言い出したのは桜が咲くにはまだ早い3月のこと。なんで急にそんなことを言い出したんだろう、という疑問はあったけれど、特別そこを追及することもなく、私は首を縦に振った。

「では三日後の夜…そうですね、20時くらいには」
「分かりました」

建人さんは昨日まで出張で任務に出ていた。詳細は聞いてないけれど、久しぶりにそこそこ長い出張だったと思う。それが帰るなりそんな話で、疲れたから癒されたい、というのとも少し違うような気がした。

「…建人さん…何かあったのかなぁ」

なんだかいつもと雰囲気が違っていた。怒っていたり苛々していたりするわけじゃないけれど、とにかく普段とは何かが違っていて、約束の日が来るまでの三日間をどうにも身構えてしまった。



建人さんが天体観測に指定したのは高専の裏山だった。私は勝手にどこかの展望台や星見の名所だと思っていたから、あまりの近距離旅行にちょっと驚いた。まぁ確かに、高専は驚くほど夜空が綺麗に見える一級品の田舎ではあるけれど。

「高専の裏山って……実技の授業でしか来たことないかもしれないです…」
「おや、私や五条さんの世代はわりと抜け出して探索しに行ったりしてましたけど、猪野君とはそういうことはしなかったんですか?」
「そうですね…猪野とはそういう遊びはしませんでしたね」

珍しく建人さんが自分の学生時代の話をし始めた。当たり前だけど建人さんにも学生時代はあって、でもそれを私が想像するのはかなり難しい。前に家入さんから建人さんと五条さんの学生時代の写真を見せてもらったけれど、あのモデルさんみたいな美少年の姿かたちで高専生生活を送っていたのだと思うと、なおさら想像は難しくなった。

「どのくらい歩くんですか?」
「あと十分くらいです。少し開けた場所があって、そこからよく星が見えるので」

建人さんのナビゲートに従って山道を歩く。夜の山なんか職業柄よく来るような場所だから怖くもなんともないが、目の前を建人さんが歩いているというのはなんだか新鮮だった。建人さんの言った通り十分くらい歩いた先で木々が開けた場所に辿り着き、おあつらえ向きの大きな石に二人で腰かける。裏山に入らなくたって高専は充分田舎で星が綺麗なはずで、だから毎日のように目にしていたのに、今日は特別綺麗に見える。

「わ、凄いですね。寮とかで見るより空が近く見える気がします」
「流石にそれは錯覚でしょうが、遮るものがないからよく見えるでしょう」
「はい。とても」

都心では見ることのできない小さな星々もここではきらきらと自分の存在を主張していた。3月だからまだ星の配置は冬に近く、スピカとアークトゥルスから北斗七星に繋がる春の大曲線は多分見ることが出来ない。代わりに南の空にオリオン座が見えて、ベテルギウスから冬の大三角を辿ることは出来た。

「ベテルギウスと、シリウスと…あとなんでしたっけ」
「こいぬ座のプロキオンですよ」
「ああそうだ、そうでした」

建人さんの言葉でその白い星の名前を思い出した。こいぬ座のなかで最も明るい星だ。建人さんの空に向けられていた視線が私に降ってきた。青とも緑ともつかない瞳が、夜だからか少しだけ暗く見える。

「ナマエさん、星に詳しいんですね」
「プロキオン出てこなかった私が詳しいと名乗る資格はないと思いますけど…有名な星座なら見つけられます。小学校の時に地域の天体観測同好会みたいなのに母と行ってたんですよ」

建人さんが珍しいものを見たとでもいう顔をした。確かに自分でもこんな感じで星座をあれこれ知っています、というのはイメージと違うだろうという自覚はある。

「イメージと違いすぎて笑っちゃいますよね」

私が少しだけ自虐を混ぜて言った。べつにそこまで本気じゃない自虐で、だからどうということもない会話のひとつのつもりだった。だけど建人さんはそうは受け取らなかったのか、私の右手をとってぎゅっと引き寄せる。

「笑うなんてことしませんよ。ナマエさんの意外な一面を知ってますます好きになりました」
「け、けんとさん……」
「本心です」

私が恥ずかしい、と抗議をしようとしたのなんてお見通しで、建人さんが緩やかに口角を上げる。建人さんって本当にお手本みたいなことをさらりとしてくれる。くすぐったくて恥ずかしくって、だけど嬉しくて心地いい。
見上げた先のオリオン座の間を飛行機が通り抜けていく。ちかちかと明滅する光は、思いのほか高度の低いところを飛んでいるのではないかと思わされた。西からふたご座、かに座、しし座。いわゆる星座占いでいうところの夏の星座が夜空に上がっている。星がたくさん見えるから、流れ星も街にいる時よりは何倍も目にすることが出来た。綺麗だな、と思うと同時に、どうしてここで星を見ようなんて言い出したんだろうか、という疑問が頭をもたげる。私はそっと口を開いた。

「……建人さん、どうして急に星を見ようなんて気になったんですか?」

建人さんは一瞬だけ小さく息をのみ、視線を星々に向けた。顔を背けられた、のとは少し違う気がする。黙ったまま建人さんの言葉を待っていると、いつもよりささやかな声で建人さんが話し始めた。

「…昔、同期の友人が急に天体観測をしようと言いましてね」

遠くを懐かしむような声だ。あまり聞いたことがない。建人さんのいつもの優しい声とも違う。落ち着く声音のはずなのに、どこか胸の奥がざわざわする。建人さんは空を見つめたまま続ける。

「そのときは夏で、友人はオリオン座くらいしか分からないって言って必死にオリオン座を探してたんです」
「え、でもオリオン座って冬の星座じゃ…」
「ふふ、そうです。私ももちろん夏だから見られるはずがないって言ったんですけどね」

右の人差し指を空に掲げ、建人さんの指先がオリオン座をなぞっていく。オリオン座は日本じゃ冬に見られる星座だから、春先ならまだしも夏は見ることが出来ない。昔、というのはいつのことだろう。ここにいる建人さんは確かに私の知っている建人さんなのに、まるで知らない誰かのような気になった。

「結局北極星を探して、なんとかおおぐま座の北斗七星を見つけて説明したんですよ。それが精一杯で。七海、冬にリベンジしようねって」

建人さんの指が今度は北斗七星の方へと動く。昔天体観測をした場所というのは、きっとここなのだろう。建人さんにとって思い出の場所で、だからこそ建人さんはどこでもなくここで星を見ようと提案した。大事な思い出で、きっと大事なひと。可能性がよぎる。もしも、もしもそうだったら。ああ醜い嫉妬だ。

「ナマエさん、どうかしましたか?」
「えっ…いやぁ…あの…」
「寒かったですかね…それとも何か気になることでもありましたか?」
「えっと、そういうわけじゃ…」

思考を読むようなタイミングで建人さんが私に尋ねる。どうやって言い訳をしようかと頭の中でぐるぐると考える。昔の友人との思い出に対して、それが異性かどうか、それが特別な、有り体に言えば恋愛感情があったかどうかと邪推するなんて愚かなことだ。最低だ私。はくはくどうにか口を動かして、だけど上手い言い訳なんて思い浮かぶはずもなかった。建人さんに嘘をつくのも嫌で、私は観念して本当のことを話した。

「ご、ご友人って女の人だったり、するのかなぁって、思っちゃって…」
「ああ、そんなことでしたか」
「すみません、程度の低いことを…」
「構いませんよ。ついでに友人は男です」

私の心配とは裏腹に建人さんの声はいつも通りになってた。邪推してしまって恥ずかしい、という気持ちは消えるわけじゃないが、建人さんが怒っているわけじゃないのはとりあえず良かったと思う。

「彼と私は二人きりの同期でしてね。アナタも経験があると思いますが、そんなだから任務も授業も寮での生活もずっと一緒だった」

うっとうしい、とでも続きそうな言葉を並べたけれど、そんな言葉には相応しくない優しさを孕んでいる。建人さんの同期。その話を聞くのは今日が初めてだった。同期が呪術師として活動をしているのなら狭い業界なんだからどこかしらから話を聞く機会もありそうなものなのに。

「良くも悪くも嘘がつけないタイプで、そういうところが好かれてましてね。面倒見も良くて、伊地知君のこともよく構っていました」
「…素敵なひとだったんですね」
「素敵…そうですね。気持ちのいい男ですよ」

星がひとつ流れる。建人さんはいつも以上に饒舌で、星を通じて過去と話していた。写真で見た学生時代の線の細い建人さんの姿が浮かんで、隣に座る建人さんに重なる。

「真っすぐで人懐っこくて…動物にたとえるなら絶対犬ですね」
「犬?」
「ええ。小型か大型かは少し迷いますが」

くすり、と建人さんが少しだけ笑う。重なっていた学生時代の建人さんの姿が浮かび上がって、ふっと夜空の向こう側に吸い込まれていく気がした。

「多少短絡的なのが玉に瑕ですが、他人の長所を見つけることが得意な男ですから、彼を嫌いという人間は少ないでしょうね」

だから今度あなたにも会ってほしいんです。と、建人さんならそう言うかと思った。けれど建人さんはそうは言わなかった。単純にそう思わなかったのか、会わせたくなかったのか、会わせることが出来ないのか。…私たちは呪術師だ。

「…夏にも、また星を見に来ましょうね」
「ええ、賛成です」

なんとなくだけど私は建人さんがそう言わなかった理由を理解して、だけど声に出すことは出来なくて、彼の美しい横顔をただ見つめた。十六夜の月はしし座のレグルスの傍に並ぶ。きっとこの星空の下で、私が建人さんにしてあげられることなんてひとつもないのだろう。東の空に一粒の星が流れた。建人さんが私の手を握る。私も目いっぱいの力で握り返した。

「建人さん、北斗七星の思い出に、私も入れてくれますか?」
「もちろん。だからアナタと見に来たかったんです」

あとから聞いたことだけれど、建人さんの出張先での任務は産土神にからむ一級案件だったらしい。どういうふうに関係しているかはわからないけれど、きっと同期の彼を思い出すようなことがあったのかもしれない。

「ナマエさん、今日は付き合ってくださって、ありがとうございました」
「私のほうこそ、ありがとうございます」

私は建人さんの肩に頭を預けた。このひとを連れて行ってしまうのは、もう少し待ってほしい。なんて、空にいもしない建人さんの同期に、祈るように心の中で語りかけた。

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