あなたと生きる 後編

呪術師をしているうちは、結婚なんてしないだろう、と学生時代に思っていた。
呪術師をしているうちは、だったはずが、辞めてからも誰かと関わりを持つことそのものが億劫になってしまって、結婚はおろか恋人も殆どいなかった。
呪術師に戻ると決めたとき、それまでの深い関わりは大体精算したし、やはり学生時代のように改めて、呪術師をしているうちは結婚なんてしないだろう、と思うようになった。
恋人も、特別欲しいとは思っていなかった。彼女に出会うまでは。

「クォーターの子供ってなんて言うんですかね?」

多分、そういうことを意識して言ったわけではない言葉だっただろう。きっと単純な知的好奇心からくる質問だった。
けれど私はその話を聞いて「強いていうならワンエイスですが」なんて答えながら、彼女と私がもしも結婚したら子供はワンエイスになるのか、と勝手に思い描いていたのだ。

「ナマエさんは、ご両親とも日本の方でしたよね」
「はい。きっぱりばっちり日本人ですね」
「では、子供はワンエイスということになりますね」

そう言ってからスタスタと展望デッキのほうへ歩いて行ったのは、何も気にしていなかったからとかではなく、自分で言ったくせに呆れるほど自意識過剰で浮かれた言葉だと、恥ずかしくなったからだ。


ナマエさんの様子がおかしい。
誤魔化しているが、相当体調が優れないのか随分顔色が悪かった。普段なら喜んでくれるワインも、そのままワインセラー行きだ。
食事を作ったはいいが、それもあまり箸は進まないようだった。彼女はいつも行儀よく美味しそうに食事をするからかなり気がかりだ。

「風邪ですか?」
「いえ、そういうわけでは…」

言葉を濁されて、私も言及するのを躊躇う。ナマエさんは隠し事をするのが得意ではない。それに私に話してくれないことなんてよっぽどないから、そんなに言いたくないことなのか、と私はぐっと言葉を飲み込んだ。


翌日、朝早くからナマエさんは高専に用があると言って非番にも関わらず出て行った。なんとなく避けられている気がする。とは思ったが、一々束縛するような真似もしたくない。
彼女を見送り、昼前からの任務の前に少し寝室の掃除をしておこうと立ち上がる。ベッドが大体を占める室内の中、部屋の隅にチェストが置いてある。中には買い置きの電池やコットンなどが収納されている。そういえばリモコンの電池が切れかけていたんだった、と思って引き出しを開けると、ころんと白い棒状のプラスチックが転がり出た。

「…は?」

妊娠検査薬だ。実物を見たのは初めてだが、流石に見ればわかる。ここに転がっているということはナマエさんが使った物だろう。私はひょい、と取り上げて小窓の二つ並んだ表を見る。
「終了」と「判定」が書かれた両方に線が出ていた。これは確か陽性の時に線が出るのではなかったか。
私は一度フーッと息をつき、スマホで妊娠検査薬について調べる。やはりだ。判定に線が出ていれば陽性、つまり、ナマエさんは今妊娠をしている。

「一体いつだ…」

セックスのときは、必ずコンドームをしている。安全日だなんだという人間もいるけれど、そもそもお互いの安全のためや望んでいない状態で万が一にでも子供が出来ることを避けるために然るべき行為だと私は思っている。
しかし、コンドームの避妊は100%ではない。失敗した記憶はないが、そうでなければナマエさんが私以外の男と事に及んだということになる。それは避妊が失敗するよりあり得ない。
ナマエさんの様子がおかしかった理由はこれでわかった。任務を終えたらナマエさんと直接顔を合わせて話したい。
順序が逆になってしまうのは甚だ遺憾だが、彼女がひとりで悩んでいるのを放って置くわけにはいかない。
私は時計を見て、そそくさと任務に向かう準備をした。


今日の任務は猪野君と同行だった。二級呪霊と準一級呪霊の祓除任務を2件。どちらかというと猪野君メインで、私はサポート程度だ。

「七海サン、今日いつもより調子いいっスね」
「そうですか?」

猪野君に言われるほど、私は態度に出ていたらしい。妊娠を機に仕事を辞めることを勧めるべきか、いや、そもそも彼女の出産の意思を確認しなければ。
私としては産んで欲しいが、こればっかりは二人でよく話し合うべきことだろう。それに関係もきちんとしたい。
そう言えば、彼女の結婚願望については聞いたことがなかったな。

「猪野君は、結婚願望はありますか?」
「へ?あぁ…まぁ好きな子いたら結婚したいなーとか思う程度っすけど」

七海サン珍しいですね、と猪野君が続ける。

「七海サンはやっぱまだ結婚願望ないんスか?」
「いえ、今は変わりました」

昔、猪野君には結婚願望はない、と話をしたことがあったな。
あのころとは随分違う。誰とも深く関わらないと思って生きてきたが、今はそばにナマエさんがいる。
玄関のドアを開けると部屋は温かく、心安らぐ笑顔でナマエさんが迎えてくれる。

「大事なひとと一緒に生きていけるのは、幸せなことだと」

私がそう言うと、猪野君は少しきょとんとした後に歯をニッと見せるような顔で笑った。
それから「いいっスね」と言って、私も「そうですね」と返事をした。


順調に任務を処理し、もう1件だけとなったとき、業務用のスマホが着信を告げる。失礼、と断ってディスプレイを確認すると相手は五条さんだった。
猪野君が「どうぞ」と言うので私は何事かと思いながら通話ボタンを押した。

「はい」
『あ、七海?』
「今任務の移動なんですが。手短にお願いします」

このひとのことだから暇つぶしにかけてきたなんてことも大いにあり得るが、万が一緊急事態の可能性もある。仕方なく話を続けると、珍しく茶化すような声音ではなくて思わず構える。

『さっきミョウジが倒れた。高専の医務室で今から硝子に診せるとこ』
「…は?ナマエさんが…?」
『ミョウジ、妊娠してるかもしんないらしいから、それで体調悪いんじゃない?』
「何でアナタがそんなこと知ってーー」
『まーまー。任務終わったらさっさと来いよ。多分おまえに会いたいだろうから』

じゃあね、と五条さんは一方的に通話を切ってしまった。何で五条さんがそんなこと知ってるんだと言ってやりたかったが、切られてしまってはどうしようもない。
詳しい容態や事態を省いたということは恐らく命に別状はないのだろうと推察す流けれど、そういう問題ではない。
私が電話口でナマエさんの名前を呼んでいたのを聞いていた猪野君が心配そうにこちらを見上げる。

「ナマエさんが倒れたらしいです。ひとまず家入さんが診察してくれるのだと連絡が入りました」
「え、大丈夫っすか、あいつ」

猪野君が心配そうな顔をするから、私は「ですので」と続けた。

「…猪野君、巻きで終わらせます」
「っす!」

任務の想定所要時間は1時間。猪野君には申し訳ないが、サポートの領分を超えさせてもらう。


呪力制限も解除して任務を巻きで終わらせて、私は急いで高専に戻った。
補助監督への挨拶もそこそこに、全力で高専の中を走る。途中見知った顔がいた気もするが、もう構っていられなかった。
ばたばたと辿り着いた医務室の引き戸を乱暴に開ける。室内には家入さんがおり、私に「早かったな」と声をかけた。

「ミョウジならそこのベッドだよ。貧血だと思うが、念のため点滴だけしてある」
「ありがとうございます…」

私は指さされたベッドのそばに行き、白いカーテンを静かに開ける。外傷はなく、今は静かに眠っているらしい。

「すみません、ナマエさんはどこで倒れたんですか?」
「高専の中庭だってさ。丁度五条が一緒にいたらしくてアイツが運んできたよ」

そうですか。と返し、ナマエさんを見つめる。体調が優れないとは思っていたが、まさかここまでとは。妊娠初期は辛い時期もあると聞くし、彼女もそうなのかもしれない。
私はベッドの隣に置かれた丸椅子に腰かけた。青白い顔を手の甲でそっと撫でる。すると、彼女が小さく身じろぎをした。

「ん、あれ…けんと、さん?」
「ナマエさん…」
「えと、私なんで医務室に…?建人さん、その、任務は…?」

ナマエさんは混乱しているようで目をパチパチまたたかせた。ナマエさんが高専で倒れたこと、それを医務室まで五条さんが連れてきてくれたらしいこと、それから私がそれを聞いて急いで任務を終わらせてきたことを順に話せば、ナマエさんは「すみません」と言って視線を泳がせた。

「五条さんから聞きました。妊娠のこと。それから寝室で検査薬も見つけました」
「あ…えと…その…」
「正直驚きましたが、君が産みたいと言ってくれるなら、私は産んで欲しいと思っています」

ナマエさんは驚いてぐっと上体を起こし、急に動いたせいでめまいがしたのかこめかみを押さえる。私は支えるように肩を抱いた。

「自分が父親になる姿というのは想像できませんが、なるべくいい父親になれるよう努力しますので」
「で、でも建人さん結婚願望ないって…」

ナマエさんにその話をした覚えはないが、猪野君と仲の良い彼女のことだ、何かのタイミングで彼から聞いたのかもしれない。
そう結論付け、私は続けた。

「昔は、呪術師をしているうちは結婚はしないとずっと思っていました。こんな仕事だ、いつ死ぬかも分からない身で家族に責任を果たすなんて出来ないと思っていたからです」

呪術師というものは、いつも死と隣り合わせだ。昨日まで笑い合っていた友人が突然物言わぬ肉塊になるなんてことはよくあることで、任務に出る以上、私もそうならないとは言えない。
だから昔の私はずっと、誰か一緒に生きていくような、そんな人を作るのが恐ろしかった。昔のように失ってしまうんじゃないかと思ったし、相手に失う苦しみを与えてしまうんじゃないかとも思った。

「でも、ナマエさんに会って、一緒に過ごすようになって、大事なひとと一緒に生きていけることがどんなに幸せなことかを知りました」
「建人さん…」
「順序が逆になってしまって申し訳ないと思っています。ですが、アナタと一緒に生きていきたいと思うのは、責任だとか仕方なくだとか、そういうものじゃない」

バラバラになっている言葉を何とか繋げたような格好の悪いセリフだった。けれどナマエさんにどうにかして、私の心の深い部分を伝えたいと思った。

「わ、私…産みたいです…建人さんとの子、産みたいです…」

ナマエさんがそう言って、はらはらと涙を流した。普段ほとんど涙を見せない女性なのに、もう溢れて止まらないといった様子だった。
私が親指で彼女の涙を拭ったが、それくらいでは足りないほど彼女は涙を溢れさせた。

「あー、君たち、それなんだが」

家入さんの声が突然割って入って、私とナマエさんはぴたりと動きを止めた。
ついプライベートな話を続けてしまったが、ここは医務室で当然だが家入さんがいる。すっかり忘れていた、と私は少し気恥ずかしくなった。

「結論から言う。ミョウジ、君妊娠してないぞ」
「え?」
「は?」

妊娠してない?
家入さんの言葉を頭の中で反芻する。いや、五条さんの証言のみならまだしも、寝室の引き出しに隠されていた検査薬にはちゃんと線が出ていた。どういうことだ、と首を捻ると、ナマエさんも状況が分かっておらず「検査薬が陽性だったんですけど…」と家入さんに申告した。

「いや、五条からナマエが妊娠してる可能性があるって聞いたから点滴する前に念のためエコー検査をしたんだが、内膜の肥厚もないし胎嚢も見当たらない」

家入さんの言葉に、私とナマエさんは揃ってナマエさんの下腹部を見下ろす。
さっきまで勝手に存在を感じていたのに、どうやらここには誰もいないらしい。

「あの…でもずっと気持ち悪くて、生理も遅れてて…」
「ホルモンバランスの乱れだろうな」
「えっと、市販の妊娠検査薬が陽性は…?」
「まぁそれも、ホルモンバランスの乱れだろうな」

ナマエさんの言葉に、家入さんは同じ言葉を二回繰り返した。
ナマエさんは未だ「どうして?」と言った疑問を表情に出して首を捻っている。

「ごく稀にだが、市販の妊娠検査薬でも偽陽性が出ることがあるんだ。君の場合はホルモンバランスの乱れでいわゆる妊娠ホルモンが分泌されたんだろう。珍しいが、ないことじゃないよ」

家入さんの言葉をひとつひとつ噛み砕いていく。ナマエさんの涙は驚きのためかすっかり乾いていた。

「え、私めっちゃおなかに向かって話しかけたんですけど…」
「残念ながらそこにいたのは君の朝食だろうな」

ナマエさんは「うそでしょ…」と気の遠くなるような顔をしていた。それから家入さんは「まぁ、まだしばらく安静にしてな」と言って医務室を出て行ってしまいナマエさんとふたり医務室に残され何とも言えない沈黙が流れる。

「け…建人さん…ごめんなさい」
「安心しました」

私がそう言うと、ナマエさんが息を飲むのが分かった。いけない、言葉選びを間違えたな。
ナマエさんの肩を抱き寄せ、視線を合わせるように覗き込む。

「勘違いしないで下さい。妊娠していないということにではなく、自分が順序を間違えていないということに、です」
「順序を?」
「はい。必ずしもとは言いませんが、私はあまりこういう順序を飛ばすようなことが好きではありませんから、そうなるのであれば然るべき関係になってからだと思っています」

プロポーズをして、籍を入れて、ちゃんと筋を通したい。それは彼女の両親に対しても、彼女自身に対しても。
今回のことで思い知った。ナマエさんが妊娠したと聞いて驚きこそしたが、私は確かに「産んで欲しい」と思ったのだ。
今までの考えを塗り替えてしまうほど、ナマエさんという存在は大きい。

「プロポーズはまた今度。ただその薬指は空けておいてください」
「…それってもう殆どプロポーズじゃないですか?」
「こんな大事なことを高専の医務室でだなんて御免ですよ」

普段ロマンチストを気取っているわけではないが、高専で医務室で、しかも指輪も差し出さずにプロポーズだなんてあんまりだ。
私がそう言うと、ナマエさんはゆったり微笑んで「待ってます」と答えた。

「アナタにぴったりの指輪を探してきます。そしてとびきりロマンチックなところで、ナマエさんに誓わせてください」

私はそう言って、まだ点滴の繋がったナマエさんの左腕をそっと持ち上げ、薬指にキスをした。
それからナマエさんが妊娠していると勘違いしたままの五条さんがたまごの名前を冠した妊娠出産情報雑誌を買って嬉々として帰ってきた。
しかもひよこの雑誌の方まで買ってきていたから、孫が楽しみな爺さんか、と不覚にも少し笑った。

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