あなたと生きる 前編

※妊娠ネタです。ご注意ください。

卒業間近のある日のことだった。
いつものラーメン屋で猪野とお昼ご飯を食べていたら、藪から棒に猪野が言った。

「七海サンってさぁ、結婚願望ないらしいよ」

なんでそんな話になったのか、というのは謎だ。私は興味なさげに「へぇ」と相槌を打つだけで、猪野は多分私が興味持ってようが持ってまいがどうでも良かったらしく、話を続けた。

「あんなにかっこいいからぜってぇモテるっしょ?七海サンの性格的に遊びたいからってわけじゃなさそうだし、なんでだろうなぁ」
「さぁ…いつ死ぬかわかんないし家族遺していきたくないとかじゃない?」

これは結構非術師の家系の人からよく聞く話。術師の家系では血を残すのは結構当たり前だから、結婚に至るのは割と必然的なところがあるけど、非術師はやっぱり「見えることの苦しみ」とか「呪術師として生きる危うさ」とか、そういうものをより濃く経験しているからなのか、結婚には消極的な人が多い。

「なるほど」
「いや、知らんけど」

私の当てずっぽうに猪野がすごく得心がいきましたという顔で頷くから、思わず関西人みたいなワードが出てしまった。
私も猪野も術師の家系だ。だから正直非術師の感覚はよくわからないところがある。こればっかりは本当にどうにもならない。

「なんでまたそんな話になったの?」
「だって、七海サン彼女もいないんだぜ?」

だってって、知らんがな。とは思いつつ、それを言ったらあの五条さんもいないけどね。と頭の中で意味のない反論をした。

「だってって言われても私七海さんってまだ一回任務一緒になっただけなんだもん。猪野ほど知ってるわけじゃないし」

猪野はすでに何度も七海さんと一緒に任務をしているが、私は卒業前の冬に一回きり。すごい術師だとは思ったけど、人となりまではよくわからないのが正直なところだ。

「だからぁ、七海サンはクールで理知的で大人なんだって」
「いや、情報の曖昧さ」

私がそう言うと、猪野は不満げに「分かれよー」と言った。分かれよったって、私の七海さん情報は任務と焼肉一回、後は猪野だけで成り立っているのだからわかりようがない。

「猪野は結婚したいの?」
「まーそれなりに。好きな子いたらやっぱ結婚してぇって思うし、子供とか出来たら最高じゃん?」
「ああ、猪野子供好きだもんね」

猪野はこの雰囲気の通り、子供によく好かれる。任務やなんやかんやで子供を数時間あやさなきゃいけないなんてことがあったとき、私は全くお手上げだったが猪野の手腕は見事だった。
男の子なら一緒にチャンバラごっこ、女の子ならプリンセス扱い。性格や年齢、状況に合わせてどんなふうにでもあやすことができた。猪野って術師とかより保育士とかのが向いてるかも。と、そんなことを思う程度には。

「ミョウジは?結婚願望とかないの?」
「えぇぇ、ピンとこないなぁ」

別に私の家は特別いい術師の家系ではないけれど、そこそこ長く続いている。だからそういう伝手もあるわけで、いずれはなんとなく術師と結婚するか、行き遅れたら家の紹介で誰かと結婚するか、そういうふうになるのかなと漠然と考えていた。
学生時代に付き合った人はいたけどすぐに別れてしまったし、彼氏と言われればなんとなく想像がつくけど結婚と言われると飛躍しすぎていて現実味がない。

「まぁ、好きになった人が結婚したいって言ってくれたらいいなとは思うけど」

ずるずるずる。私は色気のかけらもなくラーメンをすすった。


そんな話を建人さんと出逢って間もない頃にしたなと、私は寝室で項垂れていた。
手には細長い白いプラスチック。「終了」と「判定」の小窓があり、両方に線が出ていた。妊娠検査薬だ。しかも結果は陽性の。
そういえば生理が遅れてるなというのと、最近妙に胃のむかつきがひどいなというのを感じていて、しかもそのタイミングで同級生の出産報告を聞いてしまったから「まさか」と思ってドラッグストアで買ってきた。

「はぁ…」

生々しい話だが、建人さんとエッチをするときは必ずコンドームをつけている。一回も無しでしたことはない。もちろんだけど建人さん以外とそんなことするはずないから、強いて心当たりといえば建人さんしかいない。
コンドームの避妊は100%ではない、と、わかっていたけどまさかというのが本音だった。

「どーしよ…」

建人さんは、結婚願望がない。これは猪野から聞いたことで、私はそれを聞いていたから付き合い始めてからも同棲をするようになってからも一度だって結婚だとか、この先を意識するような話はしてこなかった。
結婚、というのを考えたことがないわけじゃない。そりゃ、好きな人と付き合って同棲までしてるんだから、そうなれたらいいなとか、思うこともある。
私は術師の家系で、結婚とか子供とかそういうのは当たり前だと思ってた。けど建人さんは違う。現に猪野に「結婚願望はない」ときっぱり言っていたのだ。

「ただいま戻りました」
「あっ、建人さんお帰りなさい…!」

そうこうしているうちに建人さんが帰宅してしまい、私は急いで検査薬を滅多に開けない引き出しに放り込むとパタパタと玄関に向かった。

「今日はいいワインを買ってきたんです。食後、一緒にどうですか?」
「えっ…と、その…」

脳裏にさっきの検査結果が過ぎる。本当に妊娠しているなら、お酒はまずい。
私はもごもごと口ごもり、それから「今日は、遠慮しておきます…」と何とか言った。
建人さんは少し怪訝な顔をしたあと「そうですか」と言って紙袋から取り出したワインをワインセラーに入れた。

「体調でも優れませんか?」
「は、はい…ちょっとだけ…」
「では、夕飯の準備は私がします。ナマエさんは休んでいてください」

悪いですよ、と言おうとしたけれど、建人さんが早速エプロンをつけてキッチンに立ったから、大人しく口を噤んだ。
結局、作ってもらった美味しいご飯もあまり美味しく感じられなくて、気持ち悪くなってしまった。
それから私は建人さんとのお喋りもそこそこに寝室に引っ込んで布団を被ったのだった。


翌日も、朝から気持ちが悪い。朝食もロクに食べられなかった。こんなの誰に相談したら良いんだろう。
だって建人さんに知られたら、きっと負担になってしまう。建人さんはきっちりした人だから、私が妊娠したなんて知ったらきっと「責任を取ります」と言うに決まっている。
責任なんて言い方で、したくもない結婚をさせるなんて嫌だ。
じゃあ、堕ろす?やだ。そんなの絶対嫌だ。

「やだ…」
「なーにがヤなの?」

お昼すぎ、とぼとぼ高専の中を歩いていると、背後からぬっと声をかけられた。五条さんだ。相変わらず怪しい目隠しで私を見下ろしている。

「お疲れさまです…」
「なになに、超元気ないじゃん」
「超元気ないですよ」

正直今日は五条さんの相手をする元気なんてない。精神的にも肉体的にも。
あまりに反応が悪い私を五条さんがつまらなそうに観察した。

「七海と喧嘩でもした?」
「違います」

違うけど多分それより深刻になる。どうしよう。いや、どうしようったって私の意思は「産みたい」に決まってる。
建人さんに何て言えばいいの?妊娠したって、産みたいって言って、したくもない結婚させる?
もういっそ、別れてひとりで育てていく?そんなことできる?

「…やだ…」
「ミョウジ?」
「いやです…そんなの、別れたくないぃぃぃ」
「えっ!ちょ!なに!なんで泣いてんの!?」

気が付くと、ぼろぼろ涙が溢れていた。最悪だ、五条さんの前で泣くとかありえない、止めたいと思っても、一度流れ出した涙は全然止まってくれなかった。
滲む視界の先で五条さんがめずらしくおろおろしている。

「ミョウジ?ちょっと、マジでどうしたの、ねぇ」
「ご、ごめんなさ…」

私が突如泣き出したもんだから、五条さんがめちゃくちゃに焦っていた。
だめ、マジで、職場でプライベートのことで泣くとかそれでも社会人かよ。ああ、そう思うのに情緒不安定で自分ではコントロールできない。

「別れたくないです…」

この現場だけを見た事情を知らない補助監督に、のちに私と五条さんが別れ話をしていると勘違いして噂を流されることになるのだが、そんなことに割ける脳みその容量はなかった。
しばらくその場でじめじめ泣き続け、五条さんは呆れながら一応隣にいてくれた。ようやく落ち着いてきたとき、五条さんが「あのさぁ」と切り出す。

「マジ喧嘩したんじゃないなら何急に別れるとか言って泣いてんの」
「…あの、その…」

まさか妊娠検査薬で陽性が出たなんて言えるわけがない。でもこんなに泣いて困らせた手前「なんでもないです」なんて言うのは失礼だ。
不意に、建人さんとお付き合いをすることになった日、丁度その直前に五条さんと話をしたことを思い出した。
傍若無人で我が道を行くような人だけど、あの時五条さんはちゃんと私の話を聞いてくれて、背中を押してくれたんだっけ。

「…実は…その、出来ちゃったかもしれなくて…」
「何が?」
「こ…子供が…」

改めて言葉にしてみて、言い得ぬ不安と動揺でさぁっと血の気が引いていくのがわかった。
子供。私がちゃんと産んで育てられるの?怖い。命をかけて戦うことよりもよっぽど怖い。

「…マジで?」
「あの、病院は、まだなんですけど…その、検査薬が、陽性で…」

ぽつぽつと話すと、五条さんが考えるように「ふうん」と相槌を打った。

「いいじゃん、七海ああ見えて子供とか嫌いなタチじゃないでしょ?喜ぶんじゃない?」
「でも…建人さん結婚願望はないんだって、昔聞いたことがあって」

なるほど、と五条さんが返す。
私よりよほど建人さんと付き合いが長いから、きっと建人さんとの言うことを察することが出来るのだろう。

「わ、私、建人さんの重荷になりたくなくて…」
「…それを決めるのは、七海なんじゃない?」

五条さんが言った。その言葉は、奇しくもあの日五条さんが言った言葉と同じだった。やっぱり五条さんの声はどこかじんと静かで、いつもの人を茶化すような空気はどこにもなかった。
五条さんに言ったって、解決することじゃない。私が建人さんの重荷になりたくないという気持ちも、建人さんが重荷と決めるかどうかも。
そうか、そうだよね。こんなところで泣いててどうするんだ。ちゃんと「私は産みたい」って、でも「建人さんの負担にはなりたくない」って、ちゃんと話し合わないと。
もしそれで今の関係がどうにかなってしまうとしても、私はこの子を産みたい。だって、建人さんとの子だもん。

「…建人さんと、ちゃんと話します」

いつの間にか涙は止まっていた。私はそっと自分のおなかに手を当てる。
大丈夫、どんな結果になっても私、あなたのことを産むからね。

「とりあえず病院行ったら?今日は任務?」
「いえ、非番です。今日は建人さんが昼前から任務で朝は家にいたから、気まずくて出てきただけです」

産婦人科のことには詳しくないけれど、とりあえずエコー写真撮ってもらったり妊娠何週目かだったりを聞かないと。それで、結果を持って、夜にでも建人さんと話をしよう。

「五条さんって、意外といい人ですよね」
「だぁから、今更気づいたの?」

あの日と同じことを言うと五条さんも同じように返してきて気が抜けた。よし、と思って踏み出そうとしたら、急に視界が歪む。あれ、ちょっと、やばい。目の前がぐるぐるしてーー。

「ミョウジ…!」

五条さんの声が聞こえたけど、ふらついた足元はもう持ち直すことが出来なくて、私の身体は地面に向かって落下していく。受け身、と反射的に思って受け身を取ったのか、身体に痛みは感じなかった。

「はぁ、これ七海にバレたら後が怖いな」

ふわふわ浮遊する。誰かに運ばれているみたい。
ずっと調子が悪かったのは、妊娠したからなんだ、と思ったら全部に納得が出来た。実際生理は来ていなかったし、なんだかずっと胃がムカついてご飯食べられなかったし。
ああ、これから出産までの間任務ってどうすればいいんだろう。呪術師って産休とかあるのかなぁ。
取り留めのない思考の中、私の意識は落っこちて行った。

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