例えば一緒に暮らすとか

「猪野に相談があります」
「…なんだよ、改まって」

私はオフの猪野を呼び出し、いつものラーメン屋ではなく私の家の近くの居酒屋で顔を突き合わせていた。
猪野はオフなのに呼び出されたことを愚痴り、まぁそれでも結局来てくれるんだからいいやつだよなとは思う。
私は目の前のビールジョッキをぐいっと空にして、ふぅと一回大きな息をついて話を始めた。

「な、七海さんが浮気してるかもしれない…」
「はぁ?」

ことの発端は、一週間前に遡る。


その日、私は見回りの類の任務を受けていて、都内のポイントを数か所徒歩と公共交通機関で回っていた。
大概こういうパトロールは湧いていても高々低級呪霊程度なもので、任務ついでの散歩というか、散歩ついでの任務というか、まぁそういう、任務の中でも一、二位を争う気楽な任務だ。
高齢化で人の住まなくなった古い長屋、老朽化で解体工事を待つばかりの廃ビル。一般人が気軽に訪れる心霊スポットたちは、今日もサクサク低級呪霊を発生させていた。
いくら私が強くないからとはいえ、こういう三級未満の呪いに手こずることはない。発見次第祓除、後で報告できるように数をひかえる。それを繰り返して、そろそろお昼ご飯をとろうかと駅のほうへ足を向けた。

私には恋人がいる。七海建人さん。一級術師。大人オブ大人。スマート。かっこいい。紳士。
言葉を尽くしても表現しきれない超素敵なひとだ。
何度か食事に誘ってもらって、私なんかのどこを好きになってくれたかは実はピンときていないんだけど、とにかく私はその素敵な恋人を得て交際を続けていた。

「七海さん、今日はオフだっけ」

スマホで七海さんからメッセージが来ていないか確認をする。
七海さんはすごくマメなひとだ。ほとんど毎日連絡をくれるし、忙しい一級術師なのに結構な頻度で時間を作ってデートに連れて行ってくれる。
私には勿体ないひとだなぁと思う。

『次の休み、上野の美術館に行きませんか』
「さ、んせい、です…と」

次のデートは美術館に連れて行ってくれるらしい。
私は正直まったくもってこれっぽっちも芸術に興味はないわけだが、七海さんに作品の解説をしてもらったりするのはすごく楽しかった。
いままでひとりだけお付き合いをしたことがある人はいたけれど、期間も短かったしお互い学生だったしなんていうか、七海さんとのデートは大人って感じでどきどきしてしまう。ちょっとだけ落ち着かない気持ちもあるけれど。

おいしい定食屋さんがこの近くにあったなぁと、歩いていると、ホテルのラウンジに見知った人影が見えた。七海さんだ!
ティーラウンジにふさわしいダークグレーのシャツにブラウンのジャケット。サングラスじゃなくて眼鏡をしている。オフの日にひとりでティーラウンジでお茶なんてやっぱりかっこいいなぁ。ちょっとだけ挨拶しようかな。
私はだらしなく頬を緩めて近づいた。すると、七海さんの向かい側に誰か座っていることに気が付いた。

「え…」

女の人だ。
私は咄嗟に建物から遠ざかって、近くの生垣に身を隠す。
七海さん、なんか、少し楽しそうだな。表情が柔らかいというか…うん。私はのそのそ移動し、次に相手の女性の姿を確認できる位置に潜んだ。
綺麗な人だ。つやつやした黒髪をゆるく巻いて、パステルピンクのワンピースを着ている。私なんかよりよっぽど綺麗な、私の知らない女の人だ。
私の思考はトンカチでガツンと殴られたみたいに止まって、いつの間にかその場から逃げ出していた。


「って、別に七海サン本人に聞いたわけじゃないんだろ?」
「そりゃあ…そうだけど…」

私はおかわりのビールを飲みながら、猪野の冷静な言葉にもごもごと言い訳をした。

「だってさぁ…そもそも七海さんが私となんで付き合ってくれてるのかもわかんないんだもん。あんな素敵な人だよ?私なんかと釣り合うわけなくない?」
「確かに」
「確かにってなによ」

自分でもそう思うけど、猪野に改めて同意されるとむかつく。ぎろりと睨めば「冗談だって」と言って両手をあげた。

「七海さん、ああいう女の人が好きなのかな…」
「ああいうって?」
「上品でお淑やで頭よくて育ちの良さそうなかんじ」
「ミョウジと真逆じゃん」

そう。真逆。私はお上品でもなければお淑やかでもない。頭もそこそこの出来だし、別に育ちだって良いわけじゃない。
ああいう人がタイプだと言われたら、まったく太刀打ちできない。

「でも、そんな人がタイプならそもそもミョウジと付き合ったりするか?」
「…一時の気の迷いとか…」
「七海サンが?」
「それは…」

七海さんが浮気なんかをする不誠実な人ではないことは百も承知だ。
でも、人間の心というものは日々変化していくものだということもわかっている。
私のことを好きだと言ってくれた気持ちが本当だったとしても、それが月日の経過で心変わりしてしまうなんてことはなくない話だし、咎められるようなものでもない。
好きでいてもらうための努力は惜しまないけれど、その努力で足りるかどうかなんてわからない。

「だって…自信ないよ」

私が七海さんの彼女なんて。

「ミョウジの悪いところだろ。そうやって突っ走るとこ」
「うっ…」
「まぁ今日はとことん付き合うからさ、今度ちゃんと七海サンと話してみろって」
「猪野ぉ!」

なんていいやつなんだ!やっぱり持つべきものは理解のある同期である。
私は手にしていたジョッキで意味もなくもう一度乾杯をした。


問題はそのあとである。
猪野との飲み会から一週間、つまり七海さんを街中で目撃してから二週間が経つわけだが、私はその間七海さんに連絡を取ることが出来ないでいた。
マメな七海さんからの連絡もなく、結局事前に決めていたデート当日になってしまったのだ。
上野駅の公園口から出て目の前の歩道を渡った先にある文化会館の前が待ち合わせ場所だった。私が少し重い足取りで辿り着くと、七海さんはもうすでに到着していて、何度かちらちらと腕時計を確認していた。

「すみません、お待たせしました」
「いえ、まだ5分前ですから」

七海さんは、待ち合わせで私のことを待たせたことは一度もなかった。そういうきっちりした性分のひとなのだと思う。
やっぱり、そんなひとが浮気なんて真似をするとは思えない。

「行きましょうか」

けれど、それが本気なら話は別だ。

「はい」

七海さんが歩幅をあわせてくれるから、いつも私たちは並んで歩いていた。でも今日は私の足取りが重いせいで私が半歩だけ遅れるような形で歩く。

「どうかしましたか」
「あ、いえ、何でもないです!」


結果を言うと、デートは散々だった。
七海さんが好きだという印象派の画家の特別展は私には難しくて、しかも普段なら聞き心地がよくてうっとりするはずの七海さんの解説さえあの日のラウンジのことを思い出して全然耳に入ってこなかった。
いつもならあっという間に過ぎてしまう七海さんとの時間も、今日はやたらと長く感じる。このあと美味しいワインがあるという創作料理店に行く予定だけれど、それも断って帰ってしまいたい気分だ。

「…ミョウジさん、美術館は好みじゃありませんでしたか」
「えっ、いや、そんなことは…」
「今日一日、ずっとつまらなそうな顔をしていましたので」
「つまらないなんてそんなことあるはずないです!」

七海さんは「そうですか」と疑ったまま、私たちは恩賜公園を後にした。

創作料理店は、七海さんが予約してくれていた個室だった。
普段だったら二人っきりになれるから、緊張するけど嬉しいなと思うはずなのに、やっぱり今日はこの距離感が苦しかった。
自分が嫌になる。猪野の言う通りで、まずちゃんと話をしなければいけない。そう思うのに、もし七海さんに新しく好きな人が出来たのだと肯定されたらと考えたら、途端に何も言えなくなってしまう。

「…ミョウジさん」

でも、実際七海さんからの連絡はあのラウンジでの出来事からぱったり途絶えたのだ。
一週間そこそこ連絡がないなんて、大人の恋人ならそこまで深刻になるようなことではないのかもしれないけれど、二日に一回は必ず連絡をくれていた七海さんからそれがなくなり、あまつさえその直前にあんなに綺麗な人と会っていたのだと思うと、どうしても勘ぐってしまう。

「ミョウジさん」
「えっ!あ、はい!」
「今日は体調が優れないんですか」

ずっと七海さんに呼ばれていたことに気づかなかったらしい。ああ、本当に今日の私はダメだ。
私は小さい声で「そういうわけじゃないです」と否定すると、七海さんはムッと眉間にシワを寄せる。

「では何故、そんなに暗い顔を?」

私は何度かどう言ったものだろうと言いあぐねて、その時猪野の言葉を思い出した。今度ちゃんと七海サンと話してみろって。そうだよね、もし七海さんが心変わりしてしまっているなら、もうどうしようもないことだもんね。
私の頭の中は敗戦ムード一色だったけど、ここで黙ったところで仕方がないことも明白だった。

「…実は、二週間前七海さんが女性と一緒にお茶してるところを見かけたんです。最近連絡もなかったし、その…」

ラウンジで穏やかな顔をする七海さんのことを思い出す。あ、やばい、泣きそう。
女の人綺麗だったな。どっかのお嬢様みたいだった。私よりきっと年上で、七海さんの隣を歩くにはぴったりの人だった。
七海さんからの言葉が飛び出る前に、私は慌てて続きを口にする。

「う、浮気を疑ってたわけじゃないんですよ!?いや、あの、最初はそうかなって思っちゃいましたけど…でも七海さんがそんなことするように思えないし。じゃあ本気なのかなって、そう…思って…」

間を置いたら泣いてしまいそうだった。私がそこまで一息でいうと、七海さんはフゥーと大きく息をついた。
私はぐっと唇を噛んで視線を落とす。
ああ、言ってしまった。もう後戻りはできない。

「様子がおかしいと思ったら、あの時見ていたんですね」

私は七海さんの言葉に無言で頷いて肯定する。
七海さんはとんとん、とテーブルを二回指で叩き、胸の前で両手を組むと静かな声で言った。

「連絡が出来なかったのは、プライベート用のスマホが任務中に壊れたからです。出張が重なって、昨日やっと新しいものにデータを移行したんですよ」
「えっ、七海さん怪我とか大丈夫だったんですか?」

七海さんがスマホ壊すって、と驚いて思わず話の腰を折ってしまった。
けれど七海さんはちっとも嫌そうな様子は見せず「ただの不注意でしたから、私は傷ひとつありません」と言った。ああ、何事もなかったようでよかった。

「次に、ラウンジで会っていた女性ですが、彼女は私の証券会社時代の後輩の婚約者だそうです」

後輩、の婚約者?
私はまったく予想していなかった回答に頭が追いつかず、ぽかんとバカみたいな顔で七海さんのことを見た。

「術師に戻って一般人と関わるのは避けていたんですが、偶然後輩に見つかったんです。丁度婚約者と式場の下見の帰りだと言っていました。それで少しだけラウンジに入って話をしていたんですよ」

あれ、ちょっと待って。ということはその後輩さんというのも同席していたってこと…?

「アナタからは死角になっていたかもしれませんが、彼女の隣に座っていましたよ」

私の思考を読むように七海さんが言った。
うそ、え、まじか。注意力散漫にもほどがある。七海さんの優しそうな顔とか女の人の綺麗さとかで頭がパンクしてしまっていた。

「すみません、はやとちりしました…」

やばい、めちゃくちゃ恥ずかしい。そして申し訳ない。
猪野の言う通りだ。突っ走るのが私の悪いところ、今度ちゃんと七海サンと話してみろ、ああその通りですその通りです。
勝手に勘違いして勝手に落ち込んで、迷惑にも程がある。

「いえ、誤解が解けて何よりですが、今回のことでいくつか問題点がわかりましたね」
「…と、いうと…?」

七海さんは私が勝手に疑って落ち込んでいたことを怒ってはいないようで、いつも通りの静かな声で話を続けた。
問題点?問題点ってなんだろう。
私がもっと周りを観察したり冷静に分析したりしろってことだろうか。

「まずひとつ、些細なことでしたが、アナタにその日の夜にでも街中で後輩に会ったことを話せていたら誤解させることはなかった。ふたつ、スマホが壊れたとはいえ顔を合わせて話す機会があったらここまで抉れることはなかった」
「なるほど…」

流石七海さんだ。私のことを責めるでもなく、今回の行き違いの原因を的確に述べてくれる。
七海さんの組んでいた手が解かれて、すっと私のほうへ伸びる。無骨な指先が私の頬にそっと触れて、そのまま耳の輪郭を撫でて顎を通り、テーブルの上に握っていた手の甲を優しく包んだ。
その触れ方とか、温度とか、そういうもののすべてにどきどきしてしまって「七海さん」と名前を呼ぼうとしたらその前に七海さんが「ミョウジさん」と私の名前を呼ぶ。

「一緒に暮らしませんか」
「えっ!」

暮らす?一緒に?私と七海さんが!?
私が処理落ちしていると、七海さんはじっと私の目を見つめた。青とも緑ともつかない瞳のいろは、いつも私の胸を撃ち抜き、何も言えなくさせる。

「アナタが風邪を引いたときから考えていたんです。同じ家に暮していたらアナタも頼りやすかったでしょうし、そもそも体調の変化に気づくことが出来たかもしれない」

少し前、私が風邪を引いたとき、七海さんは甲斐甲斐しく看病をしてくれた。
確かにあの時も一緒に暮らそうなんて言ってくれたけど、私は高熱でぼんやりしていたし、七海さんもそのあと話を広げることはなかったから、その場の雰囲気で出た言葉なのかと思っていた。
七海さんと同棲…同棲、なんて。

「どうですか、ミョウジさんさえ良ければ」
「えっと、その…ぜ、ぜひ…お願いします」

私の手の甲を包む七海さんの手のひらはあたたかい。
私は自分の手をくるりとひっくり返し、七海さんの手首を掴むみたいな恰好で手を握った。
七海さんと同棲なんて、私の心臓は耐えられるんだろうか。
けれどそんな心配以上に、このひととこれからもっとずっと一緒に過ごせるということに、私の胸は高鳴っていた。

「もうひとつ、提案があるのですが」

建人さんは改まったようにこちらを見て、私は一体なんだろうかと首を傾げる。
私が「はい」と相槌を打つと、少しの間のあと、建人さんが口を開いた。

「名前で呼んでくれませんか」

名前…名前?
それはつまりその、七海、ではなく、建人、の方を?
建人さんは至って真面目な様子だった。私は何度かもごもごと躊躇ったあと、一息ついてから、意を決して名前を呼んだ。

「け、建人、さん…」
「はい、ナマエさん」

建人さんはふっと頬を緩めて、繋がれた手に力を込める。
前言撤回だ。
心臓が耐えられるわけない。こんな優しい声で、毎日名前を呼ばれるなんて。

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