湯けむりの婀娜

私はその日珍しく出張していて、ついでに京都校へのお遣いを言いつけられていた。
簡単なお遣いを済ませたあと、歌姫さんからお茶に誘ってもらい、美味しい玉露をいただくことになった。

「どうなの、七海とは」
「どう、と言われましても…」

歌姫さんは、私と建人さんが同棲していることを知っている。
昔、まだ付き合い始めの頃、私と五条さんが付き合ってると勘違いした歌姫さんに「五条だけはやめときなさい、死んでもあんな男選んじゃダメ、ミョウジが不幸になる」と鬼の形相で言われ、私がお付き合いしているのは建人さんだと言って誤解を解くべく申告した。

「ごめん、聞き方が悪かったわね。一級術師じゃ忙しくしてるんでしょう?楽しくやれてる?」
「あ、はい。七海さんマメに連絡くれますし、普段は定時上がりも多いですからあんまりすれ違いとかはないですね」
「そう、よかったわ」

歌姫さんはそう言って、ずずっと玉露を啜る。私もそれを真似て一口いただく。あ、美味しい。

「このお茶美味しいですね。どこか有名なとこの茶葉ですか?」
「あら、違うってわかる?」

歌姫さんはそう言って、この茶葉を買ったお店を紹介してくれた。
曰く、京都で古くから続く老舗のお茶屋さんのものらしい。
あんまり今まではわかってなかったけど、建人さんと一緒に過ごすようになってわかるようになってきたのかな。そうだったら嬉しい。

「そうだ、旅行の招待券貰ったのよ」

歌姫さんは出し抜けにそんなことを言って、近くの戸棚からチケット大の紙を一枚取り出す。

「…温泉ですか?」
「そう。期限近いからアレだけど、良かったら七海と行って来なさいよ」


そんなこんなで無理矢理二人で一泊二日分の休みをもぎ取り、私と建人さんは温泉旅行に出かけることになった。スケジュールの調整をしてくれた伊地知さんにはお土産を買っていこうと思う。
向かう先は兵庫県の有馬温泉だ。羽田から飛行機で伊丹空港まで。そこからモノレールと在来線を使って有馬温泉駅を目指す。
有馬温泉駅からはタクシーに乗って、合計約1時間半ほどで目的の宿まで辿りついた。

「うわ、立派な旅館ですねぇ」

眼前には、立派な造りのいかにも老舗旅館ですといった風情の建物が広がっていた。
旅館の背後には六甲山がそびえ、話によるとその山の中には美しい湖があるらしい。長年親しんでいる高専もずいぶんな山の中だけれど、温泉があるのとないのではこちらの感覚が全くもって違う。

「行きましょうか」

建人さんの言葉に頷き、私は後ろをついて歩いた。
入り口に仲居さんらしき人が待っていて、綺麗なお辞儀で私たちを迎えてくれる。

「予約していた七海です」
「七海様、お待ち申し上げておりました。はるばるようこそお越し下さいました」

ご飯を食べに行ったときなんかも思うけれど、この「予約していた七海です」はだいぶ、結構、かなりドキドキする。
代表者の名前で予約するなんてよくある話で、何を今更とういことでもあるんだけど、建人さん相手だとまるで夫婦みたい。
七海ナマエ…。ふふ。なんちゃって。

「ナマエさん、行きますよ」
「あっ、はい!」

いけないいけない。自分の不埒な想像に気を取られていた。
私は建人さんの背中を追って、老舗旅館の敷居を跨いだのだった。


宿泊者名簿にきっちりと名前を書き、通された部屋はベッドルームとリビングルームの二間続きの和室で、テラスまで付いている。
テラスの向こうは六甲山の美しい紅葉が迫力を持って広がっている。
仲居さんがお茶の用意をしてから退出したのを確認して、私はぱたぱたとテラスに駆け寄る。

「わぁ!凄い!こんなお部屋初めてです!」
「確かに、見事な景観ですね」

子供っぽくはしゃぐ私の隣で建人さんが言った。
温泉旅館なんて敷居が高くて、いままでこんな良い所に来たことがなかった私はもう大はしゃぎで客室の中を探検する。
広さは80平米くらい。露天の家族風呂付きの部屋。洗面台も凝ったつくりのなんていうか、和モダン?みたいな。
ぱっと振り返って建人さんを見ると、まだテラスから外の景色を眺めていた。やばい。ものすごく絵になる。

「建人さん、露天のお風呂すごかったですよ」

とたとた建人さんのところへと戻って声をかけると、建人さんがゆっくり振り返って、色素の薄い髪が紅葉を透かし、ちょっとだけ色味をもって揺れる。
うわ、やばい、かっこいい。

「ゆっくり出来そうでいいですね」

まるでなにかひとつの芸術品のような、そういう侵し難い雰囲気があった。
紅葉と、建人さんの彫刻みたいに綺麗な顔と、手入れの行き届いた髪と、それらすべての調和が少しのゆがみもなく為されている。
私の恋人は、こんなにも綺麗で、まるでーー。

「…ナマエさん?」
「はっはいぃぃ…!」

だ、だめだ、見とれていた。
殆ど毎日のように見ている建人さんの顔なのに、こんな非日常の空間で見るとまるで別人のように思えた。
視線を逸らしてしまった私の挙動に多分建人さんは理由を察したようで、一歩、また一歩と距離を詰める。

「あ、あの、建人さん?」

私はじりじり後ろに下がり、ついに背中が壁まで到達してしまった。
建人さんはトンと腕を伸ばし、私を囲い込むように追い詰める。あ、これは、キスされるやつ。

「こ、紅葉!!」
「は?」
「紅葉、見に行きましょう!」

ああ、酷い。これは酷い誤魔化し方だ。
流石に処女じゃあるまいし、恋人にキスを迫られたくらいでこんなに動揺するなんて。雰囲気に呑まれたというか、酔ったというか、情けなくてちらりと建人さんを見ると、建人さんは気にする素振りは見せずに「そうですね」と言って私から離れた。


ロープウェーを使って六甲山に登り、私たちは紅葉の海をゆったりと泳ぐ。
観光客用に整備された公園は家族連れが多く、駆け回る子供の声が賑やかだ。小さい子は可愛いなぁと眺めていて、不意に先日買い物に行ったとき、建人さんが迷子を保護したこと思い出した。

「そういえば、この前買い物に行ったとき迷子の女の子を保護したじゃないですか」
「ああ、ありましたね」
「建人さんすごく慣れてるって言うか…私、建人さんは子供苦手なのかなって思ってたのでびっくりしました」
「慣れているわけではありませんが、そこまで苦手と言うわけでもありません」

駆け回る子供を目で追って、建人さんが言った。
ふふ、建人さんみたいなひとがお父さんだったら、子供は絶対いい子に育つんだろうなぁ。
そういえば、建人さんはお祖父さんがデンマークのひとだからクォーターだけど、建人さんの子供ってなんになるんだろう。

「クォーターの子供ってなんて言うんですかね?」
「…今日は話が飛びますね。強いて言うならワンエイス、ですが、ここまで来ると八分の一と言うよりはミックスと言って父がクォーターと付け加える場合が多いと思いますよ」
「なるほど」

建人さんの説明は相変わらずわかりやすい。

「それに、父がクォーターで母がミックスという場合も、アメリカなどではよくあることなので、簡単にワンエイスと表現できるとは限りませんから」
「あ、そっか、そうですよね」

言われて納得だ。人種の当たり前に混ざり合っていくような国では、ワンエイスなんて表現は無粋なのかもしれない。

「ナマエさんは、ご両親とも日本の方でしたよね」
「はい。きっぱりばっちり日本人ですね」
「では、子供はワンエイスということになりますね」

なるほどなるほど。…ん?
それってつまり。

「さ、向こうデッキから瀬戸内まで見渡せるみたいですよ」
「えっ!あ!建人さん!」

私の話を宙ぶらりんにしたまんま、建人さんがさっさと歩いていってしまう。
いつもは建人さんが歩幅を合わせてくれるから感じないことだけど、こうやって普通に歩いたら歩幅が随分違うのだ。
やっと追いついた建人さんは涼しい顔をしていて、息を切らす私を見下ろしてからやっと速度を緩めてくれた。


宿に戻る頃には丁度お夕飯の時間で、仲居さんが部屋までお料理を運んでくれる。こんな高級な宿だから部屋食だとは思ってたけど、目の前に旬の食材を使った料理の数々が並ぶのは、やっぱり圧巻だ。
大きな平皿に氷が盛られ、その上に鰹のたたきやまぐろのお刺身なんかが乗っている。その向こうには神戸牛のすきやきと、鮎の塩焼きもある。豪華だ。

「いただきます」

私と建人さんは一緒に手を合わせ、色とりどりの料理に手をつけた。
食事はどれも美味しくて、特に松茸の土瓶蒸しがすごく香り高くて美味しかった。私が今まで食べていた松茸は松茸じゃなかったのかもしれないな、と鼻から抜ける香りを堪能しながら考える。

「美味しいですね」
「ええ、この宿は食事に力を入れていると聞いていましたが、予想以上です」
「建人さん、調べてくれてたんですか?」
「はい、まぁ」

ふふ。建人さんも楽しみにしてくれてたんだな。私ばっかり浮かれている気でいたけど、建人さんも旅行前に下調べしてくれるくらい楽しみだったんだ。
ちょっと多いかな、と思ったお料理は、美味しかったから全部ぺろりと食べてしまった。
お腹を落ち着かせてからお風呂に入ろうという話になり、私は着替えをいそいそ用意をする。

「一緒に入りますか?」
「はっ!?え!?」

背後からそんな風に声をかけられて、思わず大きな声が出た。
ばっと振り返ると、テラスのデッキチェアに腰掛けた建人さんがこちらを見て小さく笑っていた。

「え、遠慮します!」

私は勢いよくそう言って「お先お風呂頂きますね」と断ってばたばたと露天の家族風呂のほうへ駆け込んだ。
今日の建人さんなんかだめ。何がってちゃんと言葉に出来ないけど、色気というか、なんというか、雰囲気が艶っぽくて見てるだけでどきどきしてしまう。
私はふぅと息を整えて、いざ露天風呂に足を踏み入れた。

「わ、すごい」

ガラガラと引き戸を開けた先に広がっていたのは、ライトアップされた六甲山の紅葉だった。
昼とは違って光と紅葉が織り重なり、美術館に勿体をつけて展示される芸術品のようにも見えた。
髪と体を洗って、湯船に浸かる。
金泉と呼ばれるここの湯は、鉄分を多く含むために少し赤く濁るとろっとしたお湯だ。
少し熱くも感じられたけれど、浸かっていると秋の夜の少し冷えた空気が頬を撫でて丁度よいのだとわかった。部屋にあった泉質の説明書きによると、この金泉というのは有馬温泉だけの特別なものらしい。

「はぁ、気持ちいい…」

ちゃぷん、と音を鳴らして景色の広がる山側に近づく。
建人さんとお付き合いをするようになって、美術館に行くことが増えた。建人さんの解説で芸術品が語られ、それを聞いているのは心地がいい。
昔はこんな光景見たって「綺麗」としか思わなかっただろうけど、建人さんの手によって私の感受性は甚だ育成されているのだと思う。

たっぷり湯につかったあと、糊のきいた綿の浴衣に袖を通す。
引き戸を引いて部屋へ戻ると、建人さんが本を読んでお風呂を待っていたようだった。

「建人さん、お先いただきました」
「温まれましたか?」
「はい。眺めも良くて最高でしたよ」
「そうですか、では、私もいただいてきます」

そう言った建人さんの背中を見送り、テラスのデッキチェアに腰掛けて紅葉を改めて眺める。湯上りに夜風が気持ちいい。
ざぶん、と露天のほうからお湯を浴びる音がして、建人さんが入っていることを意識してしまっていたたまれない。
一緒に暮らしているのだからこんなの日常のはずなのに、ああ、なんで今日はこんなに落ち着かないんだろう。
私は冷静さを取り戻そうとライトアップされた紅葉の葉っぱひとつひとつの形を確かめるようにして数え、精神を集中させた。

「ナマエさん、あまり湯上りに外にいると、身体が冷えますよ」

後ろから建人さんの声がして、思わず肩をびくりと震わせる。
振り返ると、浴衣姿の建人さんが立っていた。普段のパジャマよりもちょっと胸元が開いているように見えて、私は視線のやり場に困ってしまった。

「建人さん早かったですね?」
「いえ、30分は入ってましたね」

うそぉ。30分も葉っぱを数えてしまっていたのか。ああ、情けない。
そんなことを考えていると、建人さんが動く気配がして、そのあとすぐに白い首筋が眼前に迫る。
建人さんはそのまま私の額にキスをして「部屋へ入りましょう」と言った。
私は言葉も出ずに頷き、手を引かれるままに室内へと入る。
ベッドルームとされる和室には、布団が二組並べて敷かれている。
その布団の右側にちょこんと座ると、正面に建人さんが座って、私は収まり悪く視線を泳がせた。
建人さんの肌は白い。
半透明というか、静脈や皮下細胞が透けるようなそういう透明感が白く見せているのかもしれない。
きっとこれは異国の血が混ざっているからだと私は思っている。デンマークの、クォーターの。と、そこまで考えたところで、昼間のクォーターから始まる子供の話を思い出してしまって、なんだかむず痒い気持ちになった。

「ナマエさん、今日は少し様子がおかしく見えましたが、何か考え事でも?」
「あ、違うんです…なんというか…雰囲気にあてられてしまって…」

正直にそう言うと、建人さんは少し笑って「私もです」と言葉が返ってくる。
うそだ。今日も建人さんは余裕でかっこいい大人だったのに。
そんなことを考えてふてくされると、建人さんの大きな手が私の頬に触れて、きれいな瞳がじっと私を見つめた。

「けん、と…さん?」

これから何が起こるかなんてわかりきっているのに、私は思わず尋ねるように建人さんの名前を呼んだ。
建人さんの手は頬からするする動き、首筋を伝って襟元から浴衣の中に侵入する。

「私も、据え膳を食う俗物だっていうことです」

あっと言う間に建人さんの身体に捕まって、私は敢え無く降参した。
明日のお風呂は、一緒に入ってもいいかもしれない。なんて、私も大概浮かれた俗物なのだ。

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