超常現象相談所 05


ナマエは相談所の事務所に戻り、早速あれこれと準備を始めた。数日のうちに瞬く間に人間へ影響を及ぼすことができる怨霊なんてどんなものかと思ったが、実物を見て驚いた。怨霊というものは基本的に因縁の相手だとか、その怨霊の核になる部分に同調する要素を持つ人間だとか、そういう繋がりがあって取り憑くものである。しかし月島という男を視てもそういう要素が特に見つからなかったのだ。

「つまりそういうのを破ってでも取り憑くことが出来るくらい強力…てことかぁ」

怨霊は不規則で不条理に見えても、意外とルールに厳しい側面がある。決められた場所からは出られないとか、行動できる時間や条件が決まっているとかそういうものだ。条件さえ把握できればある程度格上の相手でも対処することが可能だし、入念に準備をしておけば霊力でゴリ押すこともそれなりには可能である。

「ご〜ふっ、ご〜ふ〜っと」

そんなわけで、不測の事態に備えて普段持ち歩いているものよりも強力な護符を用意することにした。専用の和紙と朱色の墨を用意して和紙の上にするすると筆を滑らせる。昔はこんな細かい絵みたいなものが自分に書けるだなんて思って思っていなかったものだが、今は何も見なくても護符を書くことが出来るのだから、人間というのは成長するものだ。
書き上がったそれに経を唱えて念を込める。この護符の力を借りれば鏡に憑いた怨霊を祓うことも可能だろう。

「…あの境界……すごく優秀だったな...」

思い出されるのはあの骨董店に張られていた境界のことだ。塩を盛るとか、神社で貰ったお札を貼るとか、そういうちょっとした境界ではなかった。確実に誰か専門家が手順に則ってきっちりと引いた代物だ。普通の骨董店に引かれるようなものではない。

「誰かがああして強力な境界を引いた……前の店主…か、その知人…か…」

誰かはわからないが、強力な境界を引く必要があったために引かれたからあんな代物が用意されたんだろう。何のための境界かは簡単に想像できる。あの骨董店には怪しげなものが多すぎる。

「鏡、びいどろの器、反対側に飾ってあった掛け軸も絵皿も…絶対普通じゃなかった」

店内に陳列されているもののほとんどに大なり小なり事情があるように思われた。経緯は知れないが、骨董品を封じ込めて管理するためのものだというのなら合点がいく。あの鏡だって境界がなければすぐにでも月島を取り殺していたかもしれない。今は境界である程度押さえ込むことが出来ているかもしれないが、万が一境界が破られたり力が弱まればどうなるかわからない。

「よし、朝イチに行こ!」

ナマエはぱちんと自分の両頬を叩き、久しぶりの大仕事に気合いを入れた。月島に霊感がなくて本当に良かった。きっと視えたり感じたりすることの出来る人間であれば、被害はあの程度では済まなかっただろう。


早朝、身支度を整えて骨董店に向かった。相談所の最寄りである神威駅から私鉄列車に乗り、鈍行しか停まらない骨董店の最寄り駅に降り立つ。昨日月島に案内された道を辿るように進み、あっという間に骨董店に辿り着いた。

「……あれ…なんか、おかしい…」

趣のある平屋を前にしてナマエはぽつんと溢した。昨日と何かが違い、禍々しいオーラのようなものが滲み出ている。なんだかまずいことになっている。よくよく注視すれば、境界のひとつに綻びを見つけることができた。

「…これは、まずい…かも?」

ナマエは鞄から護符を取り出すと引き戸に手をかける。重い。通常の引き戸の重さではないのは明らかだった。強い抵抗を感じながらもひと思いに引き戸を開く。中からぐわんとどす黒い空気が勢いよく吹き出してきた。一瞬目をつむってしまいそうになりながらもなんとか見開いて店内を確認すれば、中央に倒れている人影があった。月島だ。

「つ、月島さん…!」

慌てて彼に駆け寄る。全身から瘴気が立ち上り、瞼がぴくぴくと痙攣している。口元がわずかに動いて『おあえいああい』と言葉なのか鳴き声なのかわからない音を吐き出していた。

「鏡の怨霊……?」

ナマエは鏡の陳列されていたほうへと視線をのばす。鏡から黒い空気が立ち上って月島まで続いていた。どういう事情かはわからないけれど、境界の綻びで押さえが利かなくなったのだ。
ナマエは護符を自分の目の前に置くと、小指から順に右の指を左の指の上に交差させていく。両の人差し指を立てて、親指で包み込むようにしてそのまま指の腹を中指にそっと合わせた。

「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン」

大火焔がごぉっと立ち上る観想をすれば、それが護符の上に再現された。炎は瞬く間に黒い靄に迫って、悲鳴だかなんだかわからないような音が怨霊から吐き出された。

「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン」

ナマエが唱えることで炎はより強さを増し、燃え広がるようにして月島をも包み込んだ。これは物理的な炎ではない。包み込んだ月島が燃えてしまうようなことはなく、怨霊と月島を切り離すように燃えていく。

「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン」

三度唱えると、月島から切り離された黒い靄は鏡の方へと収束し、ナマエはすかさずもう一枚の護符を鏡に貼り付けた。ゴト、ゴトゴトゴトと何度か鏡が振動し、それからぴたりと動きを止める。応急処置にすぎないが、これで一応危機を乗り越えることは出来ただろう。

「はぁ…びっくりしたぁ…」

ナマエは月島のところまで戻り、仰向けにさせて脈拍と呼吸を確認した。とりあえず息はあるし、脈拍も正常範囲だろう。こんなところに寝かせるのはいたたまれないけれども、彼の重そうな身体を引きずって奥まで連れて行くのは難しそうだ。彼の顔を見ていると、ふいに瞼が一度強く閉じられ、続いてゆるく瞬きをした。

「月島さん、月島さん、しっかりしてください」
「ん…っ……こ、こは...」
「骨董店の中ですよ。月島さん、これ何本に見えます?」

ナマエが指を二本立てる。焦点の合っていなかった月島の瞳がナマエの指に向き「に、ほん」と本数を答えた。とりあえず視力に障害は出ていないようだ。月島がどうにかとばかりに身体を起こした。

「…君が、助けてくれたのか」
「多分そうなりますね。今朝骨董店に来たら瘴気が漏れてて、開けたら月島さんが倒れてたんですよ」
「そうか...すまない。面倒をかけてしまって…」
「いえいえ、お仕事ですから」

今一度月島をよく視る。先ほどまで憑いていた瘴気の類いはどこにも見当たらなかった。その代わり、彼からじわりと匂いが滲み出てくるのを感じる。鉄のようなものと火薬のようなものが混ざった匂い。これは恐らく、彼自身の持つものだ。

「えーと、何があったかお伺いしてもいいですか?」
「あ、ああ…昨夜眠れなくて夜中に水を飲みに起きたんだ。あー、俺はここの奥に住んでるんだが、急に店の方から風が吹いてきて、長い髪の女が這い寄ってきて...そのまま意識がなくなった」
「ふんふんなるほどなるほど…今朝来てみたら境界が弱まっていたんですけど、他に何か変わったことはありませんでしたか?」

怨霊に襲われたのは間違いなさそうだけれど、そのひとつ前にあっただろうプロセスが抜けている。ナマエの指摘で月島は少し考えたけれど「いや…何もなかったと思うが…」と思い当たることはないようだった。

「例えば普段動かさないものを動かしたとか、もっと直接的なものだとお札を破っちゃったーとか、どうです?」
「いやなにも…...あ」
「なんか思い出しました?」

ナマエの言葉に月島がピタリと言葉尻を止める。そして振り返るように身体を反対に向け、店舗と居住スペースを分けているだろう部分にかけられた暖簾の方を指さした。

「柱の隙間に紙切れが挟まってて、取ろうとしたら破れた」
「それですね」

破った紙が挟まっていたという柱のもとに案内してもらう。大当たりだ。隠すように壁と柱の間に挟んであるが、間違いなくここから境界をつくっていただろうお札の霊力を感じた。

「これですねぇ」
「これか…」
「はい。これお札です。破れちゃって境界が弱まったせいで鏡の怨霊が出てきてしまったんだと思います」

朝早い時間に来てよかった。数時間遅れていたらほかの骨董品にも影響が出ていたかもしれない。月島は知らず知らずのうちに起こした自分の行いのせいだったのかと頭を抱えている。

「ちなみになんですけど、この境界を引いたひとってどなたかわかります?」
「え?」
「いや、かなり強力な境界なので、私が新しく境界を引くより直した方が確実だと思うんですよ」

月島は少し考えるようにして「本人かは分からないが、事情を知る人なら分かると思う」と答えた。もしも本人が見つからなければ新しく境界を引くしかない。それは多分自分では力不足だろうし、その際は「彼」に頼むのが間違いないだろう。

「あとからで構わないので、連絡を取っていただいてもいいですか?」
「あとからでいいのか?」
「はい。とりあえず一番ヤバそうな鏡の怨霊は護符が抑えてますから…出来れば早い方がいいとは思うんですけど」

ナマエの言葉を聞き、月島は「ちょっと待ってくれ」と言って部屋の奥に引っ込む。足取りに不安はない。少なくとも数時間あの怨霊の影響を受けていたというのに大したものだ。
彼はスマホを持ってきたようで、既に誰かと通話をしていた。柱のところまで戻ってくると、拙い様子で柱と壁の間にだとか、俺がちぎってしまってだとかと説明をする。

「あの、代わりましょうか?」

相手が話の分かる人間なのであれば専門家が話した方がいいかと思い、ナマエがこっそりそう声をかければ「…すまん」と言ってスマホを差し出してきた。薄い板を頬にあてる。

「突然すみません、先ほど境界の綻びを確認したミョウジという者ですが…」
『ああ、君が月島を助けてくれたんだね?』
「あ、いえ…うーん、一応結果的には……えっと、それでですね、境界中央部分のお札が被れて綻びが出てしまってまして、骨董品を拝見する限り、綻びの修繕を早急に行ったほうが良いと思うんですが…」

声の主は男だった。落ち着いた聡明そうな声だ。口頭で聞かされたこの状況にあまり驚いていないから、ある程度は「こちら」の事情を知っているものと思われた。

『それなんだがね…以前そこに境界を引いてくれた先生がもう亡くなってしまっているんだ。私はその手の業界にあまり伝手がないのだけれど、君の方で境界を引いてくれないか』
「えっ…」

思わぬ方向に話が飛び、ナマエは一瞬思考を止めた。自分でも境界を引くこと自体は可能であるが、住む人間の安全を守るには力不足だろう。祠などの限定された空間ではなく、ここには人が住んでいるのだ。

「正直私では力不足だと思います。知り合いに優秀な術者がいるのですが、任せてもいいですか?」
『ああ、鏡の怨霊を封じた君の紹介ならば安心できるよ』

食えないひとだな、というのが電話の相手への次の印象だった。やはりあの鏡にいわくがあると知っていた。しかも、それが怨霊であると確信まで持っている。しかしそれを電話口で追及してもしょうがない。一族の折り紙付きである術者の「彼」であればナマエも安心して任せられる。ナマエはそこで引き、月島にスマホを返す。彼はそのまま少し電話の主と会話をしてから通話を終えた。

「すまない。引き続き面倒をかけるが…」
「いえいえ、大丈夫です。お気になさらず」
「新しくその、境界?を引いてもらう代金は払う。というか、今日の分もお礼をさせてほしい」
「初回無料のお約束ですから今日の対応についてはお代いらないですよ。新しい境界は私も依頼を出すかたちになるんで、多少お礼はいただくことになっちゃうと思いますけど」

ナマエが口約束の通りにっこりと謝礼を断ると月島が「そういうわけにもいかないだろう」と譲らなかった。そういえば、いつの間にか敬語が抜けている。多分これが彼の本来の口調なのだろうし、冷静に見えて今は不測の事態で混乱しているのかもしれない。

「命まで助けてもらってタダってわけにはいかない」
「えぇぇぇ、そうですねぇ…」

境界の謝礼もかかるのだし、今日の対応にまで金銭を貰うのは気が引ける。初回無料で話を聞かせてもらったのに、これで謝礼を受け取れば押し売りみたいになってしまうのも嫌だった。

「そうだ。じゃあ差し出がましいお願いですが、今度依頼があったら手伝って貰えませんか?」
「それは構わないが…俺なんかで役に立つのか?」
「はい、よろしくお願いします」

にっこりと笑みを返す。正直な話、手伝ってもらうことはあまり想定していない。この場を納めるための誤魔化しだ。嘘も方便というやつである。
──そういえば、ひとつ気になっていたことがあったのだった。

「そういえば月島さん、長い髪の女の怨霊を見たって仰ってましたよね?」
「ああ、あの鏡に憑いていた怨霊だろう?」

月島がそれがどうしたとばかりに肯定する。長い髪の女とはこれいかに。ナマエはその姿を見ていない。憑かれた人間だけが視られるものなのか、あるいは──。




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