06 Indigo Blue


ナマエに初めて会ったのはいくつのときだったか。正確に覚えていないほど幼いころからナマエはずっと自分の側にいた。だから初めは彼女が自分の姉なのではないかと勝手に思っていたくらいだった。

「悟、おまえの側御用が決まったよ」

父にそう言われた日、そばごよう、という言葉は幼い自分の頭では理解するのが難しかった。幼い日には遊び相手として、呪術の勉強をするようになってからは鍛錬の相手として。ナマエは常に五条の側にいた。
六眼は生まれたころから分かっていたことだけれど、術式を自認して、順当に無下限呪術を継承しているとわかった時には子供ながらに大人たちの異様な興奮を感じ取った。六歳のときにそうなって、それとともに側御用が決定した。それがナマエだった。

「若君様、どうぞよろしくお願いいたします」

ナマエが三つ指をついてそう首を垂れた。側御用というものはよくわからないが、ナマエのことはお気に入りだったし、ずっと近くで遊んでくれるのだと思ったら少しわくわくした。
年齢を重ねるにつれて、ナマエが側御用を命じられたのはかなりおかしなことだと気が付いた。父についている側御用も、祖父についている側御用も、みな男なのだ。それにこの家の中で分家の女が要職についているところをほぼ見たことがない。

「なぁ、なんでナマエが側御用になってんの?」
「さて…私は命じられたまでですので…強いていうなら、私がミョウジ家の一人娘だからでしょうか」
「そんなん他の分家から取ればよくね?」

14歳だかそれくらいのころ、自室で寝そべりながらナマエにそう言った。三つ年上のナマエは、出会ったときこそ自分と同じ子供だったのに、年を重ねてどんどん女性らしく変化していった。目が離せないような、それでいて見ていると胸がぎゅっと締めつけられるような、不思議な感覚に陥るようになった。

「若君様がお望みになれば、お役御免にすることもできますよ」
「はぁ?なんだよそれ」
「私がお役に立てなければ別の側御用をお迎えになることも可能ということです」

ナマエが突然そんなことを言い出すから、不満とともに「なんだよそれ」と言えば、当たり前のように詳細な説明が返ってくる。違う。そういうことが聞きたかった訳じゃない。

「んなことしねーし。ナマエは一生俺の横にいりゃいいんだよ」
「それは恐悦至極です」

ナマエの反応に五条はムッと唇を尖らせた。ナマエはここ数年、こうして自分を殊更あるじと立てるような言葉遣いをしてくる。もちろん側御用としての教育を受けたからなのだろうけれど、なにか無理矢理距離を取られたような気になって腹が立った。


京都に呼ばれたのは、姉妹校交流会のためだった。昨年の勝利校で開催されるため、今年は京都での開催なのだ。本当は二年三年のメインになる行事だけれど、頭数があまりにも足りていなくて五条が呼ばれることになった。ついでに京都へ隠居しているお歴々に顔を出せという意図が透けて見えて腹が立つ。

「俺が出たらぜってぇ俺勝つじゃん」
「ええと…まぁ、そうでしょうね」
「そしたら来年からしばらく東京開催になるから、負けてこいって傑と硝子に言われたんだけど」

新幹線で京都駅に到着し、改札を通過しながらナマエにそんな話をした。頭数が足りないとはいえ、自分が参加したらそれこそパワーバランスの崩壊である。せめて夏油を呼び寄せればいいものを、と思うも、勝敗云々に関係なくとりあえず五条のことを京都に呼び寄せたいのだろう。

「それはまたどうしてですか?」
「京都旅行する口実がなくなるから」
「ああ、なるほど」

自分が参加してしまえばまず間違いなく勝つ。だって歴戦の猛者ならまだしも、相手は高専生だけなのだ。どう転んだって負けようがない。今年勝てば来年の開催は東京校、そして来年も勝つから再来年も東京校で開催、となると、つまり本参加の二年と三年が両方東京校での開催になるということだ。せっかくの京都に行く口実がなくなってしまうというのが二人の主張だった。

「ま、別に負けてやんねーけど」
「悟様らしいですね」

結局、姉妹校交流会は圧勝だった。予定時間を大幅に巻く結果になり、五条家の人間に捕まる前に東京に戻ろうとしたけれど、京都高専の入口にしっかりと迎えの車が待っていて逃走することは叶わなかった。車に揺られて京都駅を通り過ぎて別の方面の山麓へ向かう。もう途中で降ろしてくれと言いたくてもどうせ聞き入れてはもらえないだろう。


車はかつて公家たちの隠居に使われたという山麓に到着し、五条は気だるげな様子を隠すこともなく車から降りた。宗家屋敷自体は東京にあるけれど、元をたどれば平安時代には五条家も平安京で方技として参内していた身分である。親戚筋が太くこちらに残っているのも当然だった。

「ここの爺さん嫌いなんだよな」
「言葉をお慎みくだされませ。御隠居様のお耳に入ったらどうするんですか」
「どうせあんなジジイろくに耳も聞こえちゃいねーよ」

軽口をナマエに嗜められ、それをまた軽口で返しながら敷地の中を進む。隠居のための庵という建前があって使用人の数も少ない。一様にみな五条の姿を見止めると、作業の手を止めて深く頭を垂れた。もっとも、一般的に庵と呼ぶには随分豪勢な場所ではあるのだが。
玄関で靴を脱ぎ、多少の足音が立つのもお構いなしでどかどかと歩く。ここにいるのは祖父の兄、いわゆる大伯父だ。

「私はここでお待ちしております」
「ん」

奥の間についたところでナマエがそう言って、五条はひとりで襖を開けて大伯父の待つ奥の間に足を踏み入れる。奥の間の上座にはたっぷりと髭を蓄えた老年の男が仰々しく扇を手にして坐していた。

「おお、悟。久しぶりだな」
「…ご無沙汰してます」
「前に会ったのは君の誕生祝賀会のときだったか」

まぁ座りなさい。と言われて大伯父の正面に腰を下ろす。隠居のクセに金襴緞子の分厚い座布団を使い、肘をつく脇息にも螺鈿細工が施されている。本当に、隠居とは名ばかりの老獪である。

「どうだった、交流会とやらだったんだろう。今日は」
「東京が勝ちました」
「結構結構。五条家の人間がいるのだから当然のことだ」

大伯父は口角を不気味に上げた。勝つのは当然とは自分も思うが、この男に言われるのは腹立たしいものを感じる。隠居を余儀なくされた老いぼれのくせに、当主に比較的血が近いというだけでいまでもこうして大きな顔をしてるのは心底みっともないと思う。

「高専での生活はどうだ?」
「問題ありません。屋敷にいる時より成長が早いくらいですので」
「あっはっは!言うではないか」

老獪は大きく口をあけて笑った。この男が今こうして山麓の別邸に暮らしているのは後継争いに破れたからだった。60年ほど前、この男は長子でありながら自分の弟に後継者の座を奪われた。失脚した大伯父は何度か再起を試みるも、すべて失敗に終わり今もこうして京都の片隅に暮らしているというわけだ。

「強い術師はおるのか」
「はい。面白い術式を持った同期がいます」

五条は夏油のことを思い浮かべる。あの男は凄い。呪術のみで言えば学び始めということもあって五条に分があるが、呪術を排した体術のみで言えば夏油に分がある。呪術についても才能もセンスもあるのだし、これから経験を積めば磨かれていくことだろう。自分も切磋琢磨できる男に出会って屋敷の中で鬱々と鍛錬していたときよりも経験とひらめきを得ることが出来ている。

「ほぉ…どこの家の者だ?」
「非術師の家庭の者です」
「はっはっはっ、それはいかんなぁ。非術師の家庭なんぞに生まれてはロクな呪術師になれまいよ」

ピキッとこめかみの血管が動くのが自分でもわかった。非術師を弱者と軽んじるのは自分も同じようなものだが、それに友人が含まれているとなると話は別である。正座の上で握った拳に力が入った。

「婚約者の話の使いをやったろう。あれはどうだ?」

有望な同期が非術師の家庭と知って興味をなくしたのか大伯父が話を変える。春頃に高専に送ってきたあの使いのことだろう。実家からの呼び出しならまだしも、高専に使いを送り込んでくるのはこの大伯父くらいのものである。この歳になってまだ起死回生の機会を狙っているのだ。自分に都合のいい縁談を組ませようなんて図々しいことこの上ない。

「遠慮させていただきます。まだ若輩ですので」
「何を言うか。儂の時分は16ともなって女を知らんのは恥だったものだ」

その情報のソースどこだよ、と内心悪態をつく。この男の大好物である下世話な話が始まったと思った。若い頃は随分な遊び人だったと聞く。大伯父は呆れた五条の表情にも気がつかない様子で嬉々と話を続けていった。

「男たるもの遊ぶのはいい。しかし種をやる先を間違えてはならんぞ」
「はぁ…」
「女は馬鹿だからな。少し情をかけただけですぐにつけ上がりおる」

種だ胎だとそういう世界であるのは百も承知だが、五条の嫌うそれらを煮詰めて凝縮したようなものがこの男なのだ。五条自身も差別意識がないわけではないけれど、五条のそれに男女の別はあまりなかった。強者か弱者か。それだけだ。

「その点、悟はいいな」
「…と、言いますと?」
「間違えてもよい女がそばにいるだろう。あれなら何とでもなるのだから気兼ねすることもない」

何を言われているのか、自分の発想からは離れすぎていて一瞬理解が遅れた。ナマエだ。ナマエのことを言っているのだ。カッと頭に血が上るのを感じた。そのせいで「側御用を女にするとはご当主様も考えたものだ」という大伯父の言葉を聞き逃した。

「まぁいい歳になるんだから、高専を卒業するまでにはしっかりした相手を決めておくことだ。厄介な女に種をやると後が面倒くさいものだからな」

大伯父が下品に笑う。もうこれ以上ここにいたらこの男に殴りかかってしまいそうで、ギリギリのところで自分を制御して立ち上がった。流石に大伯父を殴り飛ばしたとなれば本家からごちゃごちゃと文句をつけられかねない。高専生活の邪魔をされるのは御免だ。

「新幹線の時間がありますので、お暇致します」

努めて平坦な声でそう言い、立ち上がるとおざなりな一礼をして奥の間を後にする。後ろから呼び止める声は聞こえないふりをした。
襖を開けると、ここでお待ちしています、と言った時と同じ姿勢でナマエが待っていた。後ろ手にピシャンと襖を閉める。

「ナマエ、帰るぞ」
「え?わ、私も御隠居様にご挨拶を…」
「んなもん要らねぇよ」

ナマエの手首を握って歩き出す。こんなふうにしなくても彼女は自分の後ろをついてくることはわかっていたけれど、一刻も早くここから離れたかった。ドンドンドンと来たときよりも無遠慮な足音を立て、玄関で強引に靴を履くとそのまま屋敷の敷地を出る。この家の人間の車で送られるのも嫌になって、送りの車を断ってそのまま歩き続けた。

「さ、悟様!?」

ナマエがさすがになんなんだと後ろから声をかけてくるが、それも無視して大通りまで出たところでようやく足を止める。ふと視線をあげると、燃えるように木々が紅葉している。自分の苛立ちが可視化されたような気分になった。

「…悟様、御隠居様になにか言われたんですか?」
「………べつに」

こんなの肯定したのと同じだったけれど、ナマエにあの内容は聞かれたくなかった。ナマエのことを「あれ」呼ばわりされたのも、どうとでもなると思われているのも、そもそも自分が彼女を欲望の捌け口にするのではと思われているのも。

「タクシーを拾いましょうか。歩いて行くには少し遠いですから」

ナマエは口を閉ざした五条にそれ以上のことは聞かなかった。ああいうふうに思われていたのも腹が立つけれど、何よりも、きっと実際ナマエがあの老獪の言うとおりなのだろうということが腹立たしい。尊ばれることのない「女」という生まれで、本家の思いのままにどうとでも出来てしまう。それに自分が求めたらきっと彼女は応じるだろう。そこにたとえ、彼女の気持ちがなくても。










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